六十三、オアリスの雪 - invisibile -

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六十三、オアリスの雪 - invisibile -

 サゲン・エメレンスは、これまでになく荒れている。  表向きは、不気味なほど普段通りだ。否、正確には、普段よりもかなり仕事にのめり込んでいる。が、周囲から見れば普通の「バルカ将軍」の姿であることは間違いない。現に、厳格なバルカ将軍が柔らかい表情を見せたり人前で声を出して笑ったりするようになったのはここ半年ほどで、それ以前はこの一か月間のように、常に戦の前のような険しい顔をしていた。だから、客観的には普段通りのサゲン・バルカ将軍の姿なのだ。  しかし、彼をよく知る者たちはアルテミシアが姿を消してからというもの、心の休まる日がない。イグリやシオジなどに至っては、彼がいつ誰かを殺してしまうかとビクビクしているほどだった。 「今日も人を殺してきたような顔をしてた」  と、イグリが愛馬の灰色のたてがみをブラシで梳かしながらリコにこぼした。 「無理もないさ」  リコが鹿毛の愛馬の蹄鉄と蹄を細いブラシで手入れしてやりながら応えた。  五日前、リコは南エマンシュナでの任務を終えティグラ港へ戻ったその足でバルカ邸を訪ねた。いつも部下を応接する時は一番手前の客間に通されるが、どことなく沈んだ様子のエラに通されたのは、一番奥渡り廊下の先にある書斎だった。 「みんな半年前の上官が戻ってきたとしか思ってないようだけどさ――」  と、リコは書斎で対面した時のサゲンの様子を思い返した。 「違うよな、あれは。出会って十年以上経つけど、あんなに怖い上官は初めてだよ。…いや、違うな。怖いって言うか…」 「危険?」  イグリが憂鬱な声で言った。 「そんな感じだ」  報告を聞いて無表情のまま「苦労だった」と静かに告げたサゲンは、溶岩のようだった、とリコは記憶している。  溶岩を無理矢理氷の箱に閉じ込めたように、幾重にもなった激情が冷たい色の瞳に閉じ込められていた。氷が溶岩を冷やすよりも、溶岩が氷を溶かして爆発する方が早いように思えた。何の拍子にそれが起こるか、予想もつかない。 「ミーシャのやつ、帰ってこない気かな」  イグリが暗い表情を見せた。アルテミシアが何も言わずにオアリスを離れて心を痛めているのは、サゲンばかりではない。しかし、皆サゲンを憚ってアルテミシアの話をしないのだ。 「どうかな…」 「帰ってこないと困ります!」  突然リコの返事を遮って、エラが憤然と声を上げた。淡いオレンジ色のドレスに毛糸のショールを羽織って、焼き菓子の入ったバスケットを肘に掛けている。昼休みの終わりに日課の馬の手入れをする彼らのもとへエラがお菓子の差し入れを持ってくるのが、この一か月の新しい習慣となっていた。その理由は、イグリには分かっている。屋敷では誰もアルテミシアの話をしないからだ。イグリやリコといれば、何か情報が入った時に真っ先に知ることができると信じている。 「わたし言ったの。イノイルにミーシャがいるなら、わたしもそこで生きていけるって。ミーシャの側でなら、自分の人生を歩いて行けるって。ミーシャは’できるよ’って言ったわ。それってミーシャも一緒にイノイルにいてくれるってことでしょう?それに、ミーシャはわたしのことを親友だって言ってくれたわ。ミーシャが、しっ、親友との約束を破るなんて、考えられないもの…!」  エラが大きな目から大粒の涙をぼろりと溢した。 「なっ、泣くなよ…」  イグリが慌ててバスケットをエラの手から取り上げ、それを無言でリコに押し付けて、ちょっとぎこちない動作でエラの両肩を抱いた。 「ほら、あの上官がさ、このままミーシャを放っておくわけがないだろ?」  エラはぐすぐすと真っ赤な鼻をすすりながら、手で涙を拭った。 「でも、旦那様がミーシャを探している素振りはないわ。怖い顔をして時々考え込んで、それだけ。あとは普段通りなの。もしかしたらあの二人は、もう…」  エラはウッ、と嗚咽を飲み込むと、イグリの胸に縋って肩を震わせた。  リコはエラの頭と肩のあたりを覆う見えない壁を撫でるようにイグリの手が宙を行ったり来たりする様を眺めながら、ついさっき押しつけられたバスケットからふんわりと甘い匂いがする楕円形の焼き菓子を無造作に取り出してかじりついた。 「あー、ホラ。もし仮に別れてたとしてもだ。ミーシャが戻ってこないとは限らないだろ?」 「あー、あー、それは~お前の~お望み通りの〜展開だなあ~」  リコが歌うように言うと、イグリがいきり立った。というより、慌てふためいた。 「違う!ミーシャのことは、今はもう、そういうのじゃ…」  と、イグリは何故かハッとしてエラの顔色を窺った。涙に濡れた空色の瞳がこちらをじっと見ている。 「…っ、違うからな!君まで誤解しないでくれよ!」 「え?はい…」  イグリの勢いに驚いて、エラは涙が引っ込んだらしい。きょとんとして応えた。  二人は、リコが焼き菓子を口に含みながら笑いを噛み殺しているのに気付かなかった。  女王と重臣たちの会議が散会した後、ロハクは緑色の長い上衣の裾をバサバサと靡かせながら、廊下の遥か前方を大股で行く軍装の大男を追いかけた。 「サゲン・エメレンス!」  ロハクに呼び止められたサゲンは足を止め、振り返った。長身で穏やかな顔つきのロハク・オレガリが、ぜえぜえと息を荒くしている。 「まったく、何度呼んだと…」 「何だ」  サゲンはにべ無く言った。ロハクは辟易して大きな溜め息をついた。 「未だご立腹のようですね」  サゲンは黙殺した。  ロハクがアルテミシアの暇乞いを黙っていたことを知ってから、ずっとこの態度だ。かれこれ三週間は経つ。 「わたしに選択肢があったとでも?全てミーシャが決め、陛下も彼女がこの国を離れることを承知しました。仮にわたしがあなたに事前に知らせていたとして、何ができたというのです」 「わかっている」  サゲンは煩わしそうに眉間に皺を寄せた。 「であれば、もう少し友人に対する態度を改めていただきたいものです」 「用は何だ」  ロハクはもう一度小さな溜め息をつき、目だけを動かして周囲に人がいないことを確認した後、声を低くした。 「今宵、ジオリスに行きなさい」  サゲンは無言でロハクを一瞥した。ジオリスと言えばイノイル随一の歓楽街だが、心の傷を娼館で癒やせと言う意味でないことは、サゲンにもわかっている。 「リュディヴィーヌの部屋で、わたしの()が待っています」 「…わかった」  そう言ってサゲンがその場を離れようとすると、ロハクが強く腕を引いた。 「まだです。サゲン・エメレンス」  サゲンは無表情でロハクを見下ろした。それだけで相手を威圧する効果があるが、付き合いの長いロハクには、それほど有効ではない。思慮深い兄のように、サゲンに言って聞かせた。 「休暇を取りなさい」 「必要ない」 「わたしにはそうは思えません。陛下は怪我が完治してから復帰するよう仰ったはずです。それなのにあなたときたら、退院した次の日には登城して軍の訓練に出るなど…。部下たちにとってもあまり良い手本とは言えませんね」 「…話はそれだけか」 「いいえ」  ロハクはきっぱりと言った。 「ここ最近のあなたの仕事ぶりと言ったら、余分な職務まで自らに課しているように見えます。通常の職務に加えて今回の作戦に関わる外国との折衝もあなたが担当しているというのに、イノイルへ移送した海賊や国内で捕らえた関係者の尋問まで行う必要はありません。他の者に任せなさい。ミーシャが去った後のあなたは――」  サゲンの青灰色の瞳が剣呑に光った。が、ロハクは無視して続けた。 「わたしの目から見ても、明らかに自暴自棄になっています」  ロハクはサゲンの怒りの視線を正面から受け止めた。 「方々に鳩を放って、何をする気かは存じませんし伺いもしませんが、これだけは言っておきます。あなたには休暇が必要です」 「ジオリスの鳩の件は、感謝する」  サゲンはそれだけ言って、背を向けた。要するに他の件については「口を出すな」ということだ。ロハクは腕を組み、心中でアルテミシア・リンドに悪態をついた。 (一体、どこで何をしているのやら)  自分一人が去った後にこれほどの影響があると分かっているのか、と、面と向かって詰ってやりたい気分だった。  夜、サゲンはジオリスへ赴いた。富豪の豪邸のような美しい建物に入ると、どこからどう見ても上流階級の貴婦人に引けを取らない装いの女将がにっこりと笑って久々に姿を見せた上客を迎え入れた。  サゲンがいつものように前金を渡そうとすると、女将のジュリアはそっと柔らかい手でサゲンの手を押し返してきた。 「ミシナ様から既にいただいておりますわ」 「いや、取っておいてくれ」  今は誰にも借りを作りたくない。  その意図を察してか否か、ジュリアは長く美しい眉を上げて得たりと微笑み、小首を傾げてV字に開いた胸元に金貨を忍ばせ、サゲンを奥へ通した。  サゲンは花や蔦の形に鉄を曲げて造られた美しい螺旋階段を上り、ビロード張りの廊下を奥へ進み、一番奥の、薄衣を纏う女神が描かれた扉を開けた。  内部は広い上流階級の夫人の寝室と言っても分からないほどで、花刺繍のカーテンに天蓋付きのベッド、小さなチェンバロやマンドリンなどの楽器が置かれ、その他にも明るい色の木材でできた折りたたみ式の書き物机(ビュロ)と椅子、大きなソファ、入り口側の壁には、小説や専門書や画集など、多岐に渡る種類の書物がビッシリと詰まった大きな本棚が置かれている。  最後にここへ来たのは、アムへ出発する前日のことだ。アルテミシアの挑発に乗せられ、無様にも熱くなった身体を鎮めるためだった。  サゲンは心中で自分を嘲笑った。  娼館に来てまでアルテミシアを思い出すなど、馬鹿げている。 「お久しぶりですわね」  と、リュディヴィーヌが彼女の魅力の一つであるハスキーな声で言った。サゲンはそれまで部屋に誰かがいることに気付かなかった――と言うより、ぼんやりと考え込んで何も見ていなかったから、書き物机の椅子から立ち上がってサゲンを迎えている女がリュディヴィーヌだと気付くのに、一瞬の間を置いた。  リュディヴィーヌは「どうなさったの?」などとは訊かない。ただ柔らかく微笑んで、部屋の奥へとサゲンを促した。  隅に置かれた一人掛けのソファの側に、男が立っている。年の頃は四十には届かないほどで、顔はやや大きな鼻を除けばこれと言って特徴がなく、背は高くも低くもなく、痩せても太ってもいない。丈の短い茶色のジャケットの下にシャツを着て、つばの狭い帽子を被り、一見すればただの労働者に見える。この娼館にも業者か下男として紛れ込んだのだろう。  男は無言で頭を下げ、サゲンに真鍮の輪で纏められた羊皮紙を手渡した。丸められた紙の端に、かすれた赤いインクで判が押されているのが見える。――アミラ王国のオオカミの紋章だ。 「持ち出せたのはこれだけです。あとは、全てここ(・・)に」  と、男はニヤリと笑って自分の頭を指差した。 「見聞きしたことを旦那に全て話します。一言一句違えずに」  サゲンはリュディヴィーヌに紙とペンを用意させ、彼女を続き部屋に下がらせてから男の話を全て書き取った。驚異的な記憶力としか言いようがない。男は聞いた話の詳細な内容と、話を聞いた人物の名から住んでいる場所、更にはその外見的な特徴まではっきりと記憶していた。一種の特殊能力といったところだろう。 (何処で拾ったのか、ロハクは面白い鳩を飼っている)  とサゲンは感心した。  空が白む頃に男は話を終えた。サゲンが礼金を弾んでやると、男はぺこりと頭を下げながら 「旦那になら使われてやってもいいですよ。あたしゃミシナの旦那専属というわけじゃありませんからね」  と剽軽な笑顔を見せた。 「では――」  羽ペンのインクを布で拭きながらサゲンが言った。 「もう一つ仕事を頼みたい」    男が出て行った後、続き部屋で眠っていたらしいリュディヴィーヌが薄布のナイトドレスに白い毛織物のショールを羽織って現れた。腰まで伸びた赤い巻き毛がしどけなく乱れ、バラの香水の匂いをふわりと漂わせている。  リュディヴィーヌはサゲンの座る書き物机の椅子に近付き、その背もたれに手を乗せた。 「お友達はお帰りになられたようですわね。お酒を召し上がります?それともお茶?」 「いや。――」  サゲンはしなしなと肩に触れてきたリュディヴィーヌの白い手をそっと退けた。 「用は済んだ」  椅子から立ち上がり、すっかり分厚くなった紙の束をくるくると纏めた。 「インクを使い切ってしまった」  そう言って、机に金貨を数枚置いた。上質なインクが数百個どころか、豪華な宝飾品も一つと言わず購える。 「世話を掛けた、リュディヴィーヌ」 「それは今生のご挨拶ですの?」  戸口に向かうサゲンを見送りながら、リュディヴィーヌが優美に微笑んだ。どこか責めているようでもあった。 「操を立てた」  サゲンはニコリともせずに言った。 「まあ。幸せな方」  リュディヴィーヌはコロコロと鈴が鳴るように笑い声を上げたが、サゲンは眉の下に陰鬱な影を落とした。 「どうかな」 「愛は幸せなものですわ。どんなに苦しい愛も、苦しむ価値がありましてよ」  リュディヴィーヌの目が柔らかく細まった。  彼女にもそういう相手がいるのかもしれない。と、サゲンは思った。部屋を出る時、サゲンは一度だけ振り返ってこの賢明な旧友に告げた。 「部下を一人紹介したい。君の気に入らなければ、蹴飛ばして追い出してやってくれ」 「餞別ですわね」  即ち、それまでサゲンがジオリスで情報を仕入れていたのを部下に引き継ぐということだ。サゲンが去る代わりに、リュディヴィーヌもジュリアも新たな上客を手に入れることができる。 「あなたほど誠実な方だと良いのですけれど」 「保証する。多少、口数は多いが」 「それは安心ですわ」  リュディヴィーヌはおかしそうに笑った。どこか寂しそうでもある。 「女神の御加護を、バルカ将軍」  サゲンはリュディヴィーヌに微笑み返し、娼館を後にした。  既に時節は新年を目前に控え、オアリスの街に雪を降らせている。オアリスにはそれほど多くの雪は降らないが、海から吹き付ける風は身体中を刺すほどに冷たく、外套と手袋がなければ外へ出て一分と経たずに凍えてしまうだろう。  サゲンは毛皮の裏地と襟がついた分厚い黒の外套を羽織り、革の手袋を嵌めて早朝のオアリスを駆けた。北風に乗って飛ぶ小さな雪の飛礫(つぶて)が、針のように肌を刺した。  アルテミシアも何処かで冷たい風に打たれているのだろうか。と、無意識のうちに考えた。最後の夜にサゲンの身体を灯した熱は、未だ肌を灼くように燻っている。  アルテミシアがいないサゲンの日常は、ひどく短調なものだった。  まだ陽が昇る前に起床し、剣を振り矢を射て鍛錬をする。その間に女中や執事が起きてきて風呂を調え、風呂に入った後で朝食を取る。身支度を終えたら馬を駆って登城し、軍の訓練を総括し、会議に出て、山のような机仕事に向かう。日によっては、この後イノイル国内に収監された海賊や違法取引に関わった者たちの尋問のため、監獄を訪れることもある。夜半に帰宅し、食事を取り、書斎に篭ってイノイル酒かブランデーを飲みながら地図を睨む。――アルテミシアの足跡を熟考するためだ。心当たりに手を打ってはみたものの、それが本当に正しいのかはまだ分からない。  これを、毎日繰り返している。気が付けば王宮で催される年末の宴も、毎年十二月二十日に行われる親族中の集まりも終わっていた。何通もの招待状が、傷一つ無い綺麗な封のまま執務机の引き出しの中に追いやられている。  アルテミシアが姿を消した日、サゲンはすぐさまティグラ港へと駆けた。彼女なら海に向かうだろうと思ったからだ。予想通り、港に併設されている軍の厩舎にデメトラがいた。彼女は栗色の耳をくるくると動かして、どこか不安そうにしていた。サゲンは青毛のティティから降りて、デメトラを安心させるように首をポンポンと叩いてやった。  その後、厩番や停泊する軍船の関係者にアルテミシアの足取りを尋ねたが、誰も知らなかった。むしろ、デメトラを厩舎に繋いでいった彼女の姿さえ、誰も見ていない。  が、その日の早朝に出港した船なら分かっている。南エマンシュナの作戦に協力した貿易船だ。船長はアルテミシアの船乗り仲間のレミという男だった。  サゲンは苛立ち、拳で机を打った。  目の前にはブランデーの入ったグラスと、琥珀色の水滴が点々と飛んだ地図がある。  もしも船乗りに戻ったのだとしたら、その居場所を突き止めるのは困難だ。その上、周りにいるのは男ばかりで、船員に睨みをきかせていた父親役のバルバリーゴもいない。代わりに、彼女に触れようとする不埒な輩が山程いる。そう考えるだけで、今にも感情が爆発しそうだった。  が、冷静な自分はその可能性が低いことを知っている。  アルテミシアが出て行った原因は、恐らくロクサナだ。他にいくつ理由があろうが、それが最大の理由であることは間違いない。  彼女の精神状態では、長く船に乗り続けることは不可能だろう。船はロクサナを思い出させるはずだ。今も悪夢に魘されているだろうと思うと、ひどく気が急いた。 (しかし、何ができる)  居場所を突き止め、連れ戻したところで、今のままでは何の解決にもならない。それに、不満もあった。 (何故頼らない)  ということだ。  サゲンはこのひと月で、アルテミシアの人生における自分の役割について考えるようになっていた。  サゲンの方は、明快だ。アルテミシア・ジュディットを愛している。妻にしたい。肉体的にも精神的にもこれほど深く愛せる女は、終生現れない。  二人で毒を受け、海に落ちた時、アルテミシアのためなら命も惜しくないと思った。そして、それと同じくらい死が怖いと思った。これほど死を恐怖したのは初めてだった。死ねば、彼女と二度と会うことは叶わないからだ。彼女を妻として人生に迎え入れ、何十年も共に年を重ねて命を終えるまでは、どうあっても死にたくない。そう思った。国と職務のために戦場で死んでもいいと考えていた昔の自分は、とても信じられないと言うだろう。  そして、目を覚ましてアルテミシアの顔を見た時、永遠にこれが欲しいとこれまで以上に強く願ったし、それがまるで太陽が東から昇って西に沈むくらい自然なことのように思えた。  しかし、アルテミシアは若い。もしかしたら年上のサゲンに父親のような役割を求めているのかもしれない。小さな欠片を繋ぎ合わせて地図を作るように、彼女が自分の人生に穴を開けている「父親」の位置にサゲンを当て嵌めているとすれば、いつか本当の父親が現れた時、或いは「伴侶」が現れた時、アルテミシアはサゲンの元を離れて行く。  そんなことに、耐えられるか。 (冗談じゃない)  アルテミシアが側にいた時はこんな風に彼女の愛を疑うことなど有り得なかった。今もそうだ。彼女が自分を愛しているのは、サゲンには分かっている。だから二人の関係が終わったとも、彼女がこのままオアリスへ戻らないとも思っていない。  しかし、アルテミシアの愛がどんなものでできているか、目で見ることはできない。  翌週、年が明けた。  サゲンは女王へ新年の挨拶へ赴いた以外は年明けの宴にも新年の祭りにも参加せずに、続々とオアリスへ帰ってきた鳩からの報告を聞いてはまた鳩を放ち、部下や同輩からの新年の挨拶を受け、あとの時間は相変わらず職務に明け暮れている。  新年が明けて半月ほどが経ち、冬の休暇を終えたオアリスの人々が旅先から戻ってくる頃、この地域には珍しく大雪が降り、街全体を真っ白に染めた。  街道にも大人の膝がすっかり埋もれてしまうほどの雪が積もっているために人馬が通れず、交通が麻痺した。そればかりか、街中の人たちが物置きからスコップを引っ張り出して慣れない雪掻きにあくせくし、屋根から落ちてきた雪に埋もれたり転倒したりして大怪我を負う者が相次いだ。王城をはじめ、街道や民家の除雪を始め、救助や雪害の危険区域の避難誘導の為に陸軍、海軍が総出となって出動したため、サゲンは更に忙殺されることになった。  大人たちの苦労を露知らず、高らかに笑いながら雪だるまを作ったり雪合戦をしたりして雪の上をはしゃぎ回る子供を見て、サゲンはふと自分の子供のことを考えた。近い将来子を持つのであれば、その母親はアルテミシア以外には有り得ない。その子はヘーゼルの瞳に、少し明るい栗色の髪をしている。鼻の形がどちらに似ているかで多少言い争うかもしれない。―― 「上官」  と、レイの声でサゲンは白昼夢から我に返った。レイの担当区域の被害状況と除雪の進捗を聞いてから新たに指示を出した後、自分も城下の混乱を収めるべく、城門から離れて雪の上を歩き始めた。  こんな時なのに、この雪を見たら彼女は喜ぶだろうかと考えている自分がひどく滑稽に思えた。  大雪の混乱が落ち着きを見せた頃、寒空の下で朝の鍛錬をしていたサゲンのもとへ報せが届いた。内容は、鳩からの報告ではない。  テンチ子爵夫人――ロザリアの母親の訃報だった。
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