六、女王の居室 - la sfiducia -

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 この日からさっそく講義が始まり、夕方は兵士の鍛錬場へも足を運んで、初日とは思えないほど慌ただしかった。ただ、鍛錬は想像以上に楽しかった。走り込みと軽い運動の後、筋骨隆々の老将が木刀で稽古をつけてくれたが、こんな風に剣を振るう船乗りは誰一人としていなかった。  アルテミシアが兵卒と同じ薄いシャツと細身のズボンのまま鍛錬場を後にすると、その出口でサゲンが待っていた。 「初日はどうだった」 「上々」  サゲンはアルテミシアに木綿の布と上着を投げてやった。 「わざわざ待っててくれたの?」 「通詞どのは馬に乗れないからな」  サゲンが手を差し出す間もなく、アルテミシアは鐙に足をかけてひょいと馬の背に飛び乗った。 「そのことだけど、早朝か夜にイグリを貸してくれない?」 「なぜ」 「今朝の訓練を見ていて、彼がいちばん馬術に長けていると思ったから。わたしの馬術の先生になってくれないかなと思って」  サゲンも馬に乗り、森の屋敷に向けて馬を歩ませ始めた。 「まさか誰がいちばん馬術がうまいかを見るために訓練を見学に来たとか言うなよ」  したたかなまでの抜け目なさだ。サゲンはやれやれと首を振り、苦笑した。それにしても、櫓の上から大勢の兵たちの中、馬術に優れた者を選び抜いていたとは、驚かされる。イグリ・ソノは確かに隊で一番の騎手だ。 「あいつはあれでも忙しい。わざわざ自分で見繕ったのに悪いが貸せないな」 「そっか。じゃああの右から二列目の班を指揮していた茶色い髪の彼は…」  と、アルテミシアが二番目の候補について聞こうかと思ったところで、サゲンが意外なことを言った。 「俺は何番目の候補だ」 「そもそも候補に入ってない」  当然でしょとでも言うように、アルテミシアが言い放った。純粋な親切心から申し出ているのかもしれないが、そばで監視されるのはごめんだ。 「心外だな」  サゲンが本当に不服そうな口調で言ったからアルテミシアはおかしくなったが、にやりと口が上がるのを堪えた。 「部下を貸して」  そう言って食い下がったが、サゲンは譲らない。 「上官の俺が部下たちの貴重な時間を個人的な理由で削るわけにはいかない」 (この堅物)  アルテミシアは心の中で毒づいた。しかしそれも一理ある。 「同じ屋敷で暮らすんだ。時間ならある。俺が教える」  断固とした口調だ。もう拒否する理由も思い浮かばない。 「じゃあ」  観念する他ないと悟り、アルテミシアは笑みを貼り付けた。 「よろしく」 「よし、明日からだ。三時に起きてこい」  サゲンに教わるのはまったく気が進まなかったとは言え、その日の夜はわくわくしてよく眠れなかった。バルバリーゴの船に初めて乗った時と同じだ。新しいことを学ぶのは、アルテミシアにとっては何よりも楽しみなことなのだ。 知識欲旺盛なのは、幼い頃から変わらない。  翌朝、まだ暗いうちからベッドを飛び出し、持っている中でいちばん動きやすい服を選び始めた。ドレスは論外だ。女王の使者から届いた衣服の中に、リコやイグリたちと同じ軍服を見つけた。通詞に軍服とは似つかわしくないが、これも必要だろうと思ったあたり、女王やその側近たちには優れた観察眼がある。アルテミシアは青い軍服を両手で目線の高さまで持ち上げ、広げてまじまじと見つけた。鷲の紋章が刻印された金ボタンが左右に取り付けられ、縦襟には金糸の刺繍が入っている。さすがに軍服は女性のお下がりが無かったのだろう。誰かの少年時代のものかもしれない。アルテミシアの体には少し大きすぎるが、自分の体よりも大きい服を着るのは慣れている。  おそらくこれも女王のお下がりだろうと思われる絹の寝衣を脱ぎ、髪を後ろで一つに束ねた。ボタンが多い上に兵装などしたこともなかったから、時間がかかった。遅れて起きてきたサゲンは、昨日と同じように一重まぶたがうっすら二重になっている。朝は苦手だと言っていたから、アルテミシアのために多少無理をしてくれたのだろう。青い軍服姿のアルテミシアを見て、少し驚いたように片眉を上げ、薄く口元に笑みを浮かべた。  アルテミシアに対してまったくの無表情ではなくなったあたり、少なくとも敵意は消えたように見える。アルテミシアも徐々に警戒心を解いた。 「おはよう、バルカ将軍」 「おはよう。また先を越されたな」  サゲンは、厩にいる数頭の立派な馬のうち一頭をアルテミシアに選んでやった。体は栗毛で、タテガミと尾はちょうど蜂蜜のような色をした、美しい馬だ。 「デメトラだ。経験豊富で気が優しいから、初心者にも合わせてくれるだろう」  サゲンが鼻を撫でると、デメトラはぶるる、と顔を震わせて応えた。 「よろしくね、デメトラ」  アルテミシアもサゲンの真似をして鼻を撫でた。  初日の練習は、飼い葉を与えたり毛並みを揃えてやったり、馬の世話をすることから始まった。サゲンは初心者のアルテミシアに丁寧に教えてやった。 「まずは信頼関係を築くことだ。毎日やれ」  アルテミシアが背に乗ったのは、最後の一時間程度だ。想像と違ったが、デメトラの世話もその背に乗ることも楽しかった。サゲンは良い教師だ。あまり細かいところまでは口を出さず、アルテミシアが自然とコツをつかむのを見守ってくれたように思う。  一方、サゲンは舌を巻いた。アルテミシアは多くを語らなくても大体のことを理解し、その通りに身体を動かせるようだった。勘がいい。一時間の間に、一定のスピードで軽く走るくらいのことができるようになってしまった。兵士ならばいざ知らず、いまだかつてこのような女性には会ったことがない。 「筋がいいな。身体の使い方が上手い」  部下にするのと同じように、アルテミシアのことを褒めてやった。 「嵐の中でもマストに登ったりしていたからね」  アルテミシアは音もなく鞍から飛び降り、得意げに言った。初心者に付き合ってくれたデメトラの首を撫でてやると、デメトラは鼻を鳴らした。サゲンの青灰色の瞳がじっと興味深げにアルテミシアを見つめた。 「それだけではないだろう。身体に芯が通っている。歩き方も武術の心得のある者がするもので、それを無意識にやるほど身に染みついている」  アルテミシアはぎくりとした。この男にはどうもすべてを見透かされているような気分になる。 「…裁縫や音楽より、小さい時からこういうことの方が得意だったの」 「筋金入りということか」  と、サゲンは笑ったが、その一方でアルテミシアが慎重に言葉を選んでいることに気づいていた。過去のことを訊かれたり、図星を指されたりするたびに、彼女は奥歯を噛みしめる。癖なのだろう。 「君はあまり自分の話をするのが得意ではないらしいな」 「わたしの仕事は人の言葉を人に伝えることだからね」 「では君が船乗りになると決めた時のお父上の言葉を俺に教えてくれ」  アルテミシアは知らぬ間にぎゅっと唇を引き結び、また奥歯を噛んだ。 「からかっているつもり?」 「冗談に聞こえるか」  サゲンは探るようにアルテミシアを見た。 「いいえ」  確かに相手は大真面目だ。胸に沸々と怒りが湧いてくる。 「親切ぶって探りを入れようってわけ」  無理に笑みを作ったから、目の下の筋肉が引きつった。 「そういうあなたはどうなの?良い家柄の男がいい齢していまだ奥方もいないのは、男が好きだから?それとも、過去の女が忘れられないから?父親の跡を継がずに海軍に入ったのは、偉大な父親に負い目を感じているから?そう考えると、こんなところに住んでいる説明もつくね。あなたほどの立場なら、城下に立派な屋敷があるはずでしょう。家族や使用人達や門番がいる立派な屋敷が。パパと比べられたくなくて家を出たの?」  努めて声を荒げることなく、淡々とまくし立てた。相手を怒らせるつもりだったのに、サゲンは相変わらず興味深そうにアルテミシアの瞳を覗き込んでくる。面白がっているようにも見えた。 「君が俺に興味があるとはな」 「全然。これっぽっちもない」  今にも爆発しそうだ。 「さすが、貴族のお嬢様はなかなか鋭い。確かに、城下にはこれよりもよほど立派な父の屋敷がある。だが、門番はいない。参考までに」  サゲンが言い終わる前に、アルテミシアが目の前に現れ、頬めがけて拳を振り上げた。サゲンは瞬時に片手でそれを受けたが、バシッと大きく音が響き、手のひらに強い衝撃を受けた。細い腕からは考えられないほどの力だ。予想通りではあるが。  忌々しい男の顔に痣を付けることに失敗したアルテミシアは、ルメオの強い方言で何事か吐き捨てた。サゲンには聞き取れなかったが、口汚く罵られたのは間違いない。アルテミシアは怒りに燃えた目つきでサゲンを一瞥し、デメトラの轡を取って憤然とその場を立ち去った。  サゲンは猫のような足つきで去っていく背中を見送った。特殊な状況なのは理解しているが、彼女には謎が多すぎる。女王の人選に口を挟みたくはない。しかし、まだ完全に信用して良い人物かどうかも分からないではないか。謎は不信へ繋がるのだ。  それにしてもあの気の強さはどうであろう。いや、気が短いとも言えるが。「お嬢様」などと呼ばれて侮られるのが我慢できないようだ。勝ち目が無くても食って掛かってくるその度胸には恐れ入る。サゲンは知らず知らずのうちに口元に笑みを浮かべていることに気づいた。  厩へデメトラを戻したアルテミシアがその次にしたことは、城までの足を調達することだった。その日の厩番だったイグリ・ソノを厩舎で見つけるや否や、 「城まで乗せて」  と有無を言わさず押しきった。
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