六十六、選択 - le scelte -

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六十六、選択 - le scelte -

 子供の頃に漠然と抱えていた孤独感や疎外感が、自分の価値を自分に植え付けたように思う。剣術を覚え、勉学に励み、海に出て力を試そうとしたのは、自分の価値を確かめたかったからではなく、ありのままの自分では到底手に入れることができないものを手に入れたかったからだった。  と、二十一歳のアルテミシアは回顧した。  しかし、どれだけ人の役に立って自分の能力に自信を付けたところで、どうにもできないものがある。最初にそれを感じたのは、初めて他人の死を願った十四の時だったかも知れない。  ラデッサでヒディンゲルの使い走りを殴り倒して逃げた後、生死も確認しなかったあの男を、いっそこのまま死んでしまえばいいと思った。そして平然とそう思えてしまった自分が、とてつもなくひどい人間だと感じた。報せを受けてユルクスへ飛んできたドナの胸でワンワン泣いた時、自己嫌悪で汚れきった心も洗い流せればいいと願った。しかし、できなかった。勉学に打ち込み、国を離れる準備で頭をいっぱいにすることで、その考えを覆い隠した。  バルバリーゴ船長の下で過ごしたユリオラ号の日々は、忙しく目まぐるしく、ラデッサで持った醜い感情を忘れさせてくれた。陽気で豪胆な船乗りたちとの生活は、これまででいちばん気を張らないでいられたし、彼らは本名も明かさない小娘を本物の家族のように扱ってくれた。が、今思えば本当の家族を知らなかったアルテミシアが勝手に自分なりの家族というものを心の中で作り上げていただけかも知れなかった。本物の家族なら、生い立ちや生の感情を隠したりはしないと、今なら分かる。  再び自分の醜さと対峙することになったのは、アムの海賊船でのことだ。死を願うだけでは飽き足らず、それを行動に移した。結果的に命を奪うことにはならなかったが、明確な殺意を持ったことは疑いようもない。初めて自分が憎しみだけを理由に人を殺せるのだと思い知った瞬間だった。  だから、ロクサナのしたことを心の底で責められずにいるのだ。憎むべき卑劣な行為だと思いながら、ロクサナと同じ立場に置かれたら自分もそれができただろうという考えがずっと頭から離れない。  ――わたしたちは同じだもの。あなたを許すわ。  あのロクサナの言葉に、僅かでも希望を抱いてしまったことが、大きな罪だったのではないか。  彼女がカノーナスだと気付いたきっかけは、復讐心だ。本当にロクサナが自分と同じなら、自分を海賊へ売り飛ばした養父に慈悲など与えない。徹底的に報復するだろう。そう思ったからこそ、彼女がただの捕虜などではないと気付いたのだ。  ロクサナが言った通り、心の底には冷酷で残忍で、怒りを抱えた自分自身がいる。そういう自分がカノーナスの正体を暴いたのだ。  彼女がヤニスと呼んだ男の亡骸を見たあの目は、死に逝く者への哀悼であり、彼女を貶め、苦痛を与える存在であり続けた‘海賊’という種類の男たちへの憎悪でもあった。  最もロクサナを怖いと思ったのは、この時だ。  あの明るい緑の瞳の中に、自分自身を見た。孤独と憎しみと怒りを抱え続けた少女の行き着く先が、あの美しい女の皮を被った残酷な怪物の姿だ。  ロクサナの心を理解することは、即ち自分も彼女と同じ存在だということを認めたことになる。  お前自身が毒なのだ。と、ロクサナは言った。厳密には夢に現れたロクサナが発した言葉だが、それは自分がそう思っているからに他ならない。  きっとこの邪悪さはやがて毒となってサゲンや女王に危害を及ぼす。彼らは常に正義と忠誠心を求め、崇高な魂のもと正しい選択をするよう自らに課している。そういう彼らの生き方を、個人的な感情だけで非道な行いができてしまう自分は、いつの日か邪魔してしまうのではないか。そして彼らの美しい魂を汚してしまうのではないか。  あの日、殆ど屍と化したヒディンゲルに魂を汚されたように。  しかし、サゲンはそんな自分を許すだろう。  サゲンのことは誰よりも愛している。  だからこそ、慈愛と優しさに溢れ、幸福をもたらしてくれる女性といるべきだ。少なくとも、自分はそういう種類の人間ではない。本質は変えられない。  暖炉の火が小さくなり、たっぷりと入っていた紅茶はカップの底に乾いた円を描いている。  ドナはアルテミシアが話す間、一言も発さずに耳を傾けていた。 「本当は、あいつも殺してやりたかった。死にかけてなんかいなければ」 「…なさったと思います?」  ドナが初めて口を開いた。 「あいつがもっと元気だったら、できた」 「あら。違いますよ、ミーシャお嬢さま」  ドナはアルテミシアを子供の頃と同じように呼んだ。 「ドナはできた(・・・)かどうかを聞いているんじゃありません。した(・・)かどうかを聞いているんですわ」  アルテミシアはティーカップから目線を上げてドナの顔をまっすぐ見た。ドナは悲哀でも同情でもなく、どうして新しいドレスに着替えるのを嫌がるのかと子供のアルテミシアに尋ねた時と同じような顔をしていた。 「何故、‘できただろう’という仮定の話にこだわるんです」  ドナは静かに立ち上がって向かいの席からアルテミシアの隣へと移り、背を真っ直ぐにして顔をまじまじと眺めた。 「自惚れちゃいけませんわ、お嬢さま。人を殺すぐらい、ドナでもできます。機会と道具さえあれば、簡単ですもの」 「でも、ドナはしないよ。善良な人だもの」 「まっ、お嬢さまだってしなかったじゃありませんか」  ドナは驚いたように言って見せた。 「確かにできたのに、命を奪うという道を選ばなかったんですわ。海賊もそうです。本当に殺したいなら最後にチャチャッと首を斬っておしまいになればよかったんです。お嬢さまにはできたはずですよ。能力がありますから。でも、しなかったじゃありませんか」  ドナはギュッと力強くアルテミシアの手を握った。 「起こらなかったあれこれを深く考えるよりも、もっとずっと大切なことがありますわ。‘事実’です。お嬢さまのできることが何通りもある中で、たった一つ選び取ったものを、それが実際にもたらしたものを、何故誇ろうとしないんです?本質とか魂だなんて目に見えもしないものに囚われるなんて、全くの無駄です。それよりも、まずは現実の物事に目を向けるべきですわ」 「現実の…」 「そうですとも。お嬢さまがご自分で選び取ってきたものは、そんなに恥ずべきものなんですか?」  アルテミシアの頭を真っ先によぎったのは、サゲンだ。それからイサ・アンナ女王、エラ、イグリ、レミ、バルバリーゴ船長、大切な人たち――。アルテミシアの選んだ道が、彼らへと繋がっている。  ドナは続けた。 「お嬢さまはご自分が憎しみや怒りを抱えている悪い人間だから、彼らのそばにいるべきじゃないと思ってオアリスを離れたというのは理解しましたけれど、それならどうしてここに来たんです?また船乗りになって完全に姿をくらますことも、誰も知らない場所へ歩いて行くこともできたのに、お嬢さまはわたくしやお母さまの元へ来ることをお選びになりました。それは何故です?」 「…わからない。でもここしか思いつかなかったの」  南エマンシュナから戻って最初に読んだ手紙が、母からのものだった。その手紙でドナやロベルタと一緒にトーレにいると知った時、既に決めていたような気がする。 「では、その理由から考えなければ」  ドナはアルテミシアのハシバミ色の目をじっと見つめた。目の前には、母親と引き離されたばかりの六歳の女の子がいる。 「わ、わたし、たぶん」  長い沈黙の後、アルテミシアが口を開いた。 「子どもの頃に見て見ぬふりをしてきたものを、もう一度見たかったのかも」 「例えば、何です?」 「ずるい子どもだったわたし。ドナやガラテアに可哀想だと思われたくなくて、ずっと何でもないふりをしてた。寂しいって自分から言うこともしなかったくせに、どうして手紙もくれないのって、いつも怒ってた。それなのに、ここにはドナやガラテアがいるから寂しくなんかないって、嘘をついてた。ニコニコしてれば寂しい子だって思われないと思ってたから。ねえドナ、そんな子供だったから心が歪んじゃったの?素直に寂しいって、わたしを愛してって言えばよかったのかな。もうずっと、悪い考えばっかり浮かんでくる…」  アルテミシアがドナの袖に縋り付いた。  ドナは初めて自分の過ちに気が付いた。自分がそばにいて母親のような愛情を与えることで孤独な少女から寂しさを取り除く努力ばかりをしてきたが、本当に必要だったのはそれと対峙し、乗り越えさせることだったのではないか。少女への憐れみを下手に包み隠そうとせず、あの頃感じていたことをもっと正直に伝え続けていたら、或いはこれほどの傷を抱えたまま成長することはなかったのかもしれない。  しかし、これもまた過去の仮定の話だ。悔いたところで、意味を成すものではない。 「しっかりなさいまし!」  ドナは心を激しく叱咤してアルテミシアにピシャリと言い放った。 「今うまくいかないことを過去のせいにして嘆いてばかりいるのは、全くもってご料簡違いです。ドナはミーシャお嬢さまを、そのような愚か者にお育て申し上げた覚えはございません」 「だって…」  事実ではないか、と言おうとしたところで、ぼろりと涙が溢れた。思いの外、ドナに愚か者と叱責されたことが堪えた。 「本質がどうとかは存じませんけど、事実は事実です。過去は変えられませんわ。お嬢さまの孤独で憐れな子供時代も、変えることはできません。ただ一つ理解ができないのは――」  ドナはアルテミシアの涙を指で拭き取り、強い視線でアルテミシアの目を見つめた。 「何故お嬢さまが善と悪で全てを分けてしまおうとするのかです。全てのことに良い面と悪い面がありますわ。それにこれはとても主観的で、時に利己的な観念です。お嬢さまはオアリスを離れることが良いことだとお思いだったかもしれませんけど、わたくしから見れば、自分勝手な振る舞いですわ。お嬢さまは悪いことをなさったと思います」 「でも、わたしといたっていいことなんかない」 「それは、真実ですか?お嬢さまがいなくなってみんなが喜んでるとお思いですか?傷付いた人がいないとでも?本当にそれが正しいことですか?」  アルテミシアはドナの顔を見た。厳しいことを言いながら、その目は優しく慈愛に満ちている。 「そうよ、お前――」  後ろから声が聞こえ、アルテミシアは飛び上がるようにして後ろを振り返った。  ゆったりしたグレーの寝衣に織物のショールを羽織った母親が立っている。その後ろから同じく黄色い寝衣姿のロベルタが薪を抱えて現れ、火の小さくなった暖炉に薪を()べて火かき棒で暖炉を再び温め始めた。  マルグレーテはドナがさっきまで座っていたアルテミシアの向かいに腰を下ろした。 「聞いてたの?どこから?」  アルテミシアは自分の胃がギリギリと縮こまる音を聞いた。ドナには、とても二人には聞かせられないマリエラの話までしてしまっている。 「全て」  マルグレーテの答えを聞くなり、アルテミシアはさあっと血の気が引いた。 「まったく、馬鹿にしないでちょうだい。娘に心を病む心配をされるほど落ちぶれてはいないわ」  涙を溜めたまま目を丸くしたアルテミシアを見て、マルグレーテが肩を竦めた。 「ずっと聞こうと思っていたけど、バルカ将軍に何と言って出てきたの?‘わたしとじゃないほうが幸せだよ’って、そんなことで納得しないでしょう、あの人は」 「…‘ごめん’って、手紙残してきた」 「あんなにお前を大切にしている人と、そんな紙切れだけで、本当に別れるつもりで?」  アルテミシアは言葉が出なかった。あまりにおかしなことだが、この時初めて、サゲンがどれほど傷付いただろうかと考えた。同時に、自分の狡さにも気が付いた。自分の本質に対する罪の意識や嫌悪感ばかりを気にして、いちばん大切なものを蔑ろにしたことさえも置き去りにしていた。 「ねえ、アルテミシア。大事なのは自分の本質を悪と決め付けてそれを憎むことじゃないわ。これから何を選ぶかでしょう。お前はオアリスを去った時、バルカ将軍だけじゃなくてお前を友人として信頼し、大切にしてくれた人たちも裏切ったことになるのよ。お前はお前、アルテミシア・リンドなの。ロクサナだかロクサーヌだかいう女でも、他の誰かでもないの。わたしにとって大切な娘がお前一人だけであるように。お前にとってバルカ将軍がたった一人のようにね」 「ほら、お嬢さま、お鼻を拭いて」  ドナが手巾でアルテミシアの鼻をゴシゴシとこすった。目の前がぐしゃぐしゃで何も見えないが、柔らかく母親の腕が身体を包んだのは分かる。 「わたしも、ドナと同じように本質なんていうものが何なのかはよく分からないけれど、そんなものが存在するとしたら、きっとそれはお前の選んだものが積み重なって形を作っていくものだと思うわ。いいことも悪いことも全部ね。ここにいる間に、ゆっくり見つめ直してみたらどうかしら」  その後、ロベルタが新しい紅茶を人数分淹れて持ってくるまで、アルテミシアは生まれた日以来ではないだろうかというくらい泣いた。母親と二人、同じベッドで眠るのも、赤ん坊以来だろう。泣きすぎて目蓋が痛いし、頭も何だかぼーっとする。それでも、心が軽くなった。出口が見えた気がする。今必要なことを考え始めることができたからだ。 「…ねえ、母さま」  ベッドの上で、真っ暗な天井を見上げながら呼んでみた。 「なあに」  マルグレーテが同じように応えた。 「ジュード・リンドのこと、まだ好き?」 「そうね。二十二年間、一日も忘れたことがない程度には」  アルテミシアは小さく笑い声を上げた。 「久しぶりにわたしを見るまで顔も忘れてたのに?」 「顔や形は重要じゃないわ。少なくとも、わたしにとっては。ジュードの存在そのものが最も大きなものなのよ」 「…会いたい?」 「会いたいわ」  暗闇を見つめながら、アルテミシアはバロー医師のことを思い出し、次にコルネール邸の夜会で出会った老婦人が言っていた「リンド先生」のことを思い出した。何の手掛かりもないし話しても無駄かも知れない。むしろ落胆させてしまうかも知れないが、僅かでも繋がりがある可能性があるのならば話すべきだ。どこから話そうかと考えていると、先にマルグレーテが口を開いた。 「わたしの人生で最良の選択は――」  アルテミシアは天井から左隣の母親へと視線を移した。ほのかな月明かりを受けて、穏やかに微笑む頬の影が柔らかく見える。 「ジュードと出会い、お前を産んだことよ。あなたにはこんなに素晴らしい娘がいるんだって、教えてあげたい」  マルグレーテは娘をそっと抱きしめた。アルテミシアは自分より小柄な母親の腕に頭をもたせかけ、子どもの頃に感じることのなかったその体温に身を預けた。身体中がむずむずとくすぐったい。そのくすぐったさがそうさせたのかもしれない。どう伝えるかついさっきまで迷っていた言葉が、容易に口から出た。 「…ナヴァレにクロード・バローという軍医がいて、その人がわたしとそっくりだったんだ。もしかして父親かもって疑ったけど、違ったの。あと、‘リンド先生’って呼ばれてる軍医もいるみたい。その人もわたしと似てるんだって」  マルグレーテは驚いたようにアルテミシアの顔を見た。 「バロー先生が父親じゃないって分かった時、思ったの。わたしもずっと父親に会いたいと思ってたんだって。口に出したことはなかったけど…」  マルグレーテはちょっと哀しそうに微笑みながらアルテミシアの髪を撫で、思案するように唸った。 「医師…そうね。病人の介抱にも手慣れていたし、薬草をたくさん持っていたから、有り得るわね」 「探すの?」 「春がきたら、そうしようかしら」 「一緒に行こうかな」 「だめよ。お前は、自分の旅を終わらせなさい。さもないと本当にバルカ将軍を他の女に取られるわよ」  アルテミシアの脳裏に、甲斐甲斐しくサゲンの身の回りの世話をするロザリア・ボーヴィルの姿が思い浮かんだ。心臓がぎりぎりと締め上げられるように痛む。 「もう手遅れかも」 「それで手放すのなら、それもひとつの選択ね。そこからまた別の道が開けて、新しい出会いや幸せに繋がることもあるわ。例えば、わたしはジュードと別れてベルージと結婚することを選んだ。最悪の選択のように思えるでしょうけど、そこから開いた道がお前を船に乗せ、バルカ将軍や女王に出会わせ、海賊からたくさんの女の子たちを救ったんだもの。手紙に書いてあった、エラという子もそうでしょう?」 「うん」  罪悪感がちくりと胸を刺した。エラも傷付いているだろう。一緒にイノイルにいると言ったのに、約束を破ってしまった。 「人間ひとりひとりにさえ善悪の両面が存在するように、たったひとつの選択にも悪い面と良い面が存在するわ。何を選ぶか、何を選びたいのか、自分が納得いくまでよく考えなさい」  アルテミシアは無言で暗闇を見つめ、サゲンを想った。 (きっと傷付いて、悲しんで、怒ってる)  こんな仕打ちをされても、サゲンの愛は変わらないだろう。しかし、オアリスへ戻って謝ったところで、もう二度と信頼してはくれないかもしれない。不信と怒りの眼差しを向けられることに、耐えられるだろうか。二度と会えないことを覚悟して出てきたはずなのに、サゲンのことを思うと息もできないほど胸が苦しい。 「あと、自覚がないようだから言っておくけれど――」  と、マルグレーテは付け足すことを忘れなかった。 「嫉妬は別に恥ずかしいことじゃないわ。そういう自分も認めていいのよ」  アルテミシアは目を丸くし、次に固まった。 「…わたし、そんな話したっけ?」 「他の女に取られてしまったかもと思ったようだったから、誰か具体的に思い浮かぶ人がいるのねと思っただけよ」  マルグレーテは無言でいるアルテミシアを肘で小突いた。 「ほらほら、この機会に吐いてしまいなさい」 「た、確かに、嫉妬した…」  アルテミシアは病室の扉の前でネズミのようにこそこそと縮こまっていた自分の姿を思い出した。あのとき考えるのをやめたことは、何故自分が婚約者だと言ってサゲンの母親やサゲンの友人たちの前に出ていかなかったのかということだった。理由など考えるまでもない。単純なことだ。自分で認められなかっただけだ。 「サゲンのお見舞いに行った時、サゲンのお母さんがサゲンと元婚約者に‘あなたたちお似合いだった’って言ったのを聞いたの。すごくいやだった。ものすごくいやだったのに、わたしもそう思っちゃったの。本当だなって。彼女、献身的で、落ち着いていて、いい人に見えたから。それに多分、まだサゲンのことを愛してる。それで病室に入らずに、その、…逃げてきたの。おめおめ」 「ウウン、まあ、いやよね。わたしでもその場には入れないわね」 「で、その後その人にサゲンとわたしじゃ釣り合わないみたいなことを言われて」 「なあに?それ。出しゃばりじゃない。本当にいい人なの?」 「でも、否定できなかった。全然。彼女の言う通りだって思った自分もすごくいやだった」 「ああ、ひどい自己嫌悪に陥っている時に追い打ちを掛けられたのね。逃げたくもなるわよね」  マルグレーテは小さな子供を慰めるようにアルテミシアの頭を撫でた。 「でも、わかってる。だからって人を傷付けて良い理由にはならないよね」 「そうよ、賢い子。自分の弱さを受け入れて、ありのままの自分を愛しなさい」  アルテミシアは母親の優しい香りに包まれながら目を閉じた。  その夜は、久しぶりに夢を見なかった。
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