六十七、アレブロ - Arebro -

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六十七、アレブロ - Arebro -

 トーレ地方では、大晦日の昼から正月二日の夜まで、大規模な祭りがあちこちの町や村で行われる。聖堂や神殿で儀式を行う地域もあれば、海への敬意と感謝を込めて大きな船の模型を町の中心に造って火を囲み飲み食いするなど、地域によって様式は様々だ。  アルテミシアが身を寄せるアレブロという町は商人や船乗りよりも農業従事者や猟師が多いことから、大地や自然の恵みへの感謝を表す祭祀が町の中心の広場で行われる。円形の広場の中心とその周りに、合わせて九つの大きな篝火が焚かれ、多くの農作物や捧げ物の羊や牛や豚の肉料理が広場の祭壇に集められる。そして、日付が変わる頃に広場の北側にある聖堂の司祭が祝いの言葉を述べた後、町中の人々でそれを分け合って食べるというものだ。儀式と言うよりも、ほとんど町ぐるみの宴会と言ったところだ。  その大宴会を明日に控え、町はいつも以上の喧噪に包まれていた。港や市場の往来が増え、トーレ中に張り巡らされた運河にも貨物を乗せた船がいつも以上に行き来している。  アレブロの住民たちは、他所者のマルグレーテやアルテミシアたちを意外なほどすんなりと受け入れた。この受容性の豊かさはトーレ地方が古くから交易で栄え、多くの異国人や文化を受け入れてきたという歴史が大きな要因の一つとなっているが、それが港や中心地からはやや離れたこの牧草地帯でも生きているという事実はアルテミシアにとって新鮮な驚きであり、同時にありがたいことでもあった。  しかし、中にはそうでない者もいた。たった今アルテミシアの目の前を通り過ぎて行った赤毛のシャロンだ。オオカミ狩りの時に猟師団の長として指揮を執った副町長の娘で、狩りの後に開かれた宴会で紹介される機会があったが、「よろしく」とアルテミシアが差し出した手を無視してその場を去り、場を凍り付かせた。これほどの敵意を、出会ったばかりの、しかも自分と同じ年頃の女性に向けられたのは初めての経験だったから、アルテミシアはひどく動揺してしまい、その後は町ですれ違っても互いに口をきくこともなければ目も合わせることもなかった。  しかし、この日のアルテミシアは違っていた。  初めて自分を嫌いだという人から、その理由を聞いてみようという気になった。これも、自分自身を理解する方法の一つだ。 「ねえ、シャロン。待って」  アルテミシアは民家の立ち並ぶ路地を引き返し、行商人や市場へ向かう人々の間を縫って鮮やかな青の外套を着たシャロンの長い赤毛を追いかけた。シャロンはそばかすの散った顔に驚きの表情を浮かべて振り返ったが、ハッと我に返ったようにしかめっ面に戻り、再び歩き始めた。市場で買い物をしてきた帰りらしく、手には大きな編み籠いっぱいの野菜やパンを抱えている。 「手伝うよ」  シャロンはあまり身体を動かすのが得意ではないらしい。ぜえぜえと息を切らしながら、足早に歩いている。自分では一番速く歩いているつもりなのだろうが、アルテミシアは長く重たい羊毛の外套や長くふんわりと広がるオリーブ色のドレスの裾を全く問題にせず軽々と追いついてしまった。  シャロンは横に並んだアルテミシアを、深い森を想起させるようなグリーンの目でじろりと睨んだ。 「触らないで」 「わかった。じゃあ触らない」  アルテミシアは両手を上げ、シャロンに手のひらを見せた。 「あたしに何か用?」  シャロンは冷たく言い放ったが、アルテミシアはにこやかな表情のまま隣を歩き続けた。 「お願いがあって。ちょっと話さない?」 「いやよ」 「本当?言いたいことがあるからそんなにツンツンしてるんじゃない?」  シャロンは路地を走り回る子供たちの群れを避けながら黙々と歩き続けていたが、アルテミシアにしつこくされて慌てていたらしい。気が付くと家の方向ではなく、運河へと向かっていた。シャロンは路地を抜けたところにある運河の手前で立ち止まり、意を決したようにキッとアルテミシアを正面から睨めつけた。 「はっきり言って、目障りなの。のこのこ他所からやってきて、あたしの幸せな世界を壊さないで欲しいわ。どうしてみんながあんたに親切にするのか、全然理解できない」 「わたしたち、あなたに何かしたの?」  アルテミシアにとっては素朴な疑問だった。接触など皆無に等しいと思っていたが、恨まれるほどのことが知らないうちにあったというのだろうか。 「問題はあんただけよ。あんたのママやおばあさんは関係ないわ」 「おばあさん?…ああ、ロベルタは――」  と、アルテミシアの言葉が途切れたので、シャロンが不愉快に思って文句の一つも言ってやろうと口を開きかけたその瞬間、アルテミシアが物凄い勢いで前方へ走り出し、シャロンを通り越して運河へ飛び込んだ。シャロンの目の前にはたった今までアルテミシアが着ていた外套が落ちている。  あまりの速さに何が起きているか分からず呆気に取られたシャロンは、水中に何か大きなものが放り込まれるような音と、子供の叫び声で我に返った。  シャロンが事態を飲み込んだのは、運河へ駆け寄って下の水面を見た時だった。アルテミシアが十もいかないくらいの年頃の男の子を抱えて運河を泳いでいる。その背後に、船が迫っていた。 「危ない!」  シャロンは思わず叫んだが、船が接近するよりもアルテミシアが男の子の襟首を掴んで石畳の路地の上へと押し上げる方が速かった。冬の運河の凍りつくような水にぐっしょりと濡れた上着の中でガタガタと震えているその茶色い髪の男の子を、シャロンは知っていた。 「ダン!」 「知り合い?」  アルテミシアはずぶ濡れの重たいドレスをものともせず、猫のような身軽さで石畳の上にひょいと乗り上げた。その後ろの運河を、船がちょうど通り過ぎて行く。 「ヴィンスの末の弟よ。ダンったら、また運河のそばを走り回ったのね!」  シャロンは肩を怒らせた。 「まあまあ」  アルテミシアは落ちている自分の外套を拾ってダンを包んでやった。 「誰か呼んできて。ダンが風邪を引いちゃう前に」 「言われなくても、そうするわよ!」  シャロンは憤然と言いながら自分の青い外套を乱暴にアルテミシアに投げつけ、籠を置いて駆けていった。 「けっこう優しいんだね、シャロンって」  アルテミシアがシャロンの外套を羽織りながら笑いかけると、パニックから解放されたダンは寒さに震えながらアルテミシアを見上げて気が抜けたように笑い返した。気が強そうな濃い眉がヴィンチェンゾとそっくりだ。 「そうなんだ。ありがとう、おねえさん」  と、ダンは顎をがくがくと震わせながら頼りなく笑った。  その後、運河に落ちるまで一緒に遊んでいたらしいダンの同じ年頃の友達がワラワラと集まってきて、みるみるうちにざっと十人近い男女の子供たちに取り囲まれた。ダンをもみくちゃにして無事を確認した子供たちは、次にアルテミシアを質問攻めにし、泳ぎはどこで習ったのかとか女のくせに狩りに出たと聞いたが本当かとかあれこれと聞きたがった。アルテミシアが子供たちの逞しさに苦笑しながら答えてやっていると、ヴィンチェンゾと白い口髭を生やした父親が馬に乗って現れた。 「コラァ、ダン!てめえは性懲りも無くまた危ねえことしてやがったな!」  父親は轟くような怒声を上げ、下馬するなり身を竦めたダンを引っつかんで馬に乗せると、アルテミシアの両手をヒシと取った。 「ありがとうな、ミーシャ。本当にありがとう。こんなことじゃあ礼をするにはとても足りないが、今夜は妻が腕によりをかけてごちそうを振る舞うから、うちに来てくれよ」 「気にしないで、ジンガレリさん」 「いいや、そういうわけにはいかねえ。倅の命の恩人だ」 「そうさ」  ヴィンチェンゾが言った。 「ほら、乗りな。あんたは俺が家まで送って行く」  アルテミシアはシャロンが置いて行った籠を持って、馬上から差し出されたヴィンチェンゾの手を取った。 「俺からも礼を言うよ。弟を助けてくれて、本当にありがとう」 「あんなの、なんでもないよ。それより、ダンのことはあんまり怒らないでやって。水の中で声も出ないほど怖がってたから…」  ぶる、と、今になって身体が震えた。身体が思い出したのは、南エマンシュナの海に投げ出された時の肌を刺すような冷たさだった。目を閉じると浮かんでくる。水中で鈍く響いた爆音、それが伴った無気味な熱さ、暗い海に沈んでいく海賊の戦利品――。あの時身体を包んでくれたサゲンの温もりは、今はない。 「大丈夫か?」  ヴィンチェンゾが気遣わしげに後ろを振り返った。アルテミシアの唇が紫色をしている。 「…寒い」 「そうだよな。急ぐから、掴まっててくれよ」  そう言って、ヴィンチェンゾは踵で馬の腹をキュッと締め、速度を上げさせた。  その夕、マルグレーテとロベルタと、ちょうど遊びに来ていたドナもジンガレリ家に招かれた。猟師のジンガレリ一家は七人兄弟で、長男のヴィンチェンゾを筆頭に、次男、長女、次女、三男、三女、そして末っ子のダンがいる。そして、両親に加えて祖父母も一緒に暮らしているから、普段の食事の量だけでもまるで兵舎の食堂のような光景だ。  牧草地帯の広い家でも家族十一人分の食事が並べられるテーブルを置くのはさすがに不可能であるらしく、一階の広々とした居間に縦長のテーブルが間隔を開けて二列に並べられていた。ここに、トーレの海で獲れた魚介やアレブロ産の肉や野菜をたっぷり使ってジンガレリ家の女たちが腕を振るった料理が所狭しと並べられている。  家長のジンガレリ氏と客人と男たちは奥の暖炉に近いテーブル、台所に近く給仕のしやすい入り口側のテーブルには母親と祖母、三人の妹たちと年少の弟たち二人が並んだ。この席にシャロンも招かれていたが、客人のテーブルではなくジンガレリ家の女たちと同じテーブルにいた。アルテミシアは自分を避けるために同じテーブルに着かなかったのかと思ったが、この大家族に馴染んだ様子で妹たちと一緒に酒の給仕を手伝っているから、一家とは旧知なのだろう。  大人たち全員に酒が注がれたところで、家長のジンガレリ氏が赤ワインの並々と注がれたゴブレットを片手に立ち上がった。 「みな、今日は二人の人物を讃えたい。不運にも運河に落ちた我が末息子を――」  と、ジンガレリ氏は大仰な芝居口調で言った。アルテミシアはちょっとびっくりして真向かいの席のドナを見たが、ドナも同じような顔をしていた。マルグレーテも同じ気持ちでいるはずだが、貴婦人然として上品に笑みを浮かべている。ロベルタもいつもと同じようにニコニコしていた。 「悪いな。親父のやつ、いつもこうなんだ」  ヴィンチェンゾが隣の席からちょっと申し訳なさそうにこそっと教えてくれた。日常茶飯事のことだからか、ジンガレリ家の面々は呆れ顔をしながらもウンウンと頷いて付き合っている。 「悪魔も凍てつく真冬の水中から救い出してくれた、勇敢なるミーシャ嬢に、心よりの感謝の念を捧げるとともに、――」  演説を続ける父親の隣で神妙に頷きながら、祖父がアルテミシアに向けて鷹揚にゴブレットを掲げた。それに続き、母親や祖母、小さな弟妹たちまでがその仕草を真似した。  アルテミシアはなんだか可笑しくなってきた。 (やばい…笑う)  しかし、子供たちはともかくとしてジンガレリ氏とその父親は大真面目だ。ここで笑ってしまったら礼を欠くだろうから、奥歯を噛みながら耐えるしかない。が、ふと、みんなはどうしているのか気になってチラリとドナの顔を見たのがいけなかった。  元々やや長細いドナの顎がもっと長くなり、ワナワナと下顎を震わせている。 (うっ)  笑いが生理的な反応となって喉へ上がって来た。しかし、こちらの気も知らずにジンガレリ氏は抑揚の激しい芝居口調を続けている。 「雷光の如く駆けて異変を報せた、そこなるシャロン嬢にも――」 「ぶっ…は!」  先に声を上げたのはヴィンチェンゾだった。連鎖的に、アルテミシアもとうとう耐えきれなくなって腹からわき起こる笑い声を解き放った。  二人がゲラゲラ笑い出したので、今度は弟妹たちも笑い、遂にドナまでもが控えめな低い声を出してフフフフと笑った。 「なんだなんだ」  と、ジンガレリ氏は気分を害するどころか嬉しそうにみんなの顔を見回し、オホンと咳払いをして、今度は普通に話し始めた。 「ともかくだ、二人とも、ダンを助けてくれてありがとう。ミーシャをこの地へ導いてくださったご婦人方にも、感謝を」  と、マルグレーテとドナとロベルタにもゴブレットを掲げた。  宴会が始まってすぐ、アルテミシアは矢継ぎ早に話しかけてくるヴィンチェンゾに「ちょっとごめん」と言って席を立ち、ヴィンチェンゾの妹たちと談笑するシャロンの側へ行って隣の妹に席を譲って貰った。それまでリラックスしていた様子のシャロンは顔を強張らせたが、初対面の時のように無視されることはなさそうだ。アルテミシアはちょっと安心した。 「外套を貸してくれてありがとう。洗って返すね。寒かったでしょ?」 「あれで風邪でも引かれたら、あたしの気分が悪くなると思っただけよ。あんたのためじゃないわ」  シャロンは唇を尖らせ、顔を赤くした。 「でも、走るのが苦手なのに一生懸命速く走ってくれたでしょ。ヴィンスとジンガレリさんがすぐ来てくれたもの」 「ちょっと!失礼ね!どうして走るのが苦手だって言えるのよ」  シャロンは頬を膨らませた。が、これは怒っていると言うより恥ずかしいのだろうとアルテミシアは思った。 「歩き方とか、呼吸かな。気に障ったなら、ごめん。でも、とにかくありがとうって伝えたかったんだ」  無言のままでいるシャロンにアルテミシアが笑いかけて席を立とうとすると、 「ミーシャ」  とシャロンが初めてアルテミシアの名前を呼んだ。 「あんた、ヴィンスのことどう思ってるの」  思いがけない質問にアルテミシアは一瞬きょとんとして、それからすぐに真実が分かった。霧が晴れたような気分だった。  シャロンもアルテミシアの頭の中が読めたらしい。顔を赤くして、照れからか、本当に怒っているのか、アルテミシアを鋭い視線で睨めつけてくる。 「どうなのよ。あの日、聞いてたんだから。ヴィンスがあんたに結婚を申し込むの。ちょっと気が多いところはあるけど、初めて会った人に求婚なんて、今までなかったのに…」  シャロンが言っているのは、オオカミ狩りが行われた日の夜のことだ。ヴィンチェンゾから妻にならないかと申し出があったのは、宴の直前のことだった。 「いい奴だと思うよ。でも、そういうふうには見られない」 「じゃあ、はっきり振ってやってよ」 「もう振ったよ」 「あれじゃ、だめよ」  シャロンは思わず声が大きくなってしまったことにハッと気付いて咳払いをし、目を丸くしたアルテミシアの方へにじり寄ってこそこそと話を続けた。 「あんなんでヴィンスが諦めると思ったら、大間違いよ」 「はっきり‘無理’って言ったけど…」 「理由は?ヴィンスはよく知り合えばどうにかなると思ってるわ。本気であんたのことが好きなのも分かる。だから、本当に全くその気がないなら、きちんと理由も教えて、ちゃんと振って。あたしにとって、ヴィンスは大切な幼馴染みで、家族も同然なの。もし、ヴィンスの気持ちを知ってて弄んでるなら、あんたのことを許さないから」  アルテミシアは恥ずかしくなった。シャロンの冷たい態度は、恋する女性によくある可愛い嫉妬のせいだと思っていたからだ。まさかシャロンがこんなふうに深い想いを抱いているなど、露ほども思わなかった。 「わたし、好きな人がいる。その人以外あり得ない」 「へえ」  シャロンは素っ気なく言ったが、 「…それで?」  と頬杖をついてワインの入ったゴブレットをアルテミシアの方へ押しやり、先を促した。 「どんな人?」  不機嫌そう顔なのに、グリーンの瞳が好奇心に満ちている。この手の話は好物らしい。なんとなく、アルテミシアも話す気になった。家族でもなくサゲンを知る人でもない誰かに、聞いて欲しくなった。アルテミシアはゴブレットを手に取った。 「なんだありゃ」  隣のテーブルから聞こえる笑い声に、それまでマルグレーテとドナとロベルタに狩りの講釈をしていたジンガレリ氏が顔を上げた。 「あの二人は仲が悪いと思っていたんだが」  マルグレーテもアルテミシアとシャロンの方を向き、思わず笑みをこぼした。 「あらあら」  いつの間にかアルテミシアとシャロンを十代の妹三人が取り囲んで、女同士の話に花を咲かせていた。―――というより、白熱していた。 「はあ!?ちょっと、なによそれ?あんたってほんと嫌みったらしい女!」 「ひどい、シャロン!」 「ひどいのはどっちよ!あんたちょっとその自分本位なところ直したほうがいいわよ」  言葉こそ喧嘩しているように聞こえるが、それを見ている妹たちは手を叩いて笑い、母親や祖母は苦笑いしていた。 「おいおい、二人とも酔ってんのか?」  ヴィンチェンゾが立ち上がって隣のテーブルへ移った。 「あぁら、ヴィンス。残念だったわね」  ワインに酔って頬を赤く染めたシャロンが猫撫で声で言い、アルテミシアの肩を抱き寄せた。 「ミーシャにはねえ、うっとりするくらい超イイ身体で切れ長の目が魅力的でドキドキするほど素敵な声をしたイノイル人の彼がいるのよ。あんたの入る隙なんて最初っからないの。馴れ初めから今の状況まで聞いたけど、もおぉ、ただの惚気!本当、さっさとイノイルに帰りなさいよね」 「惚気じゃないったら!」  アルテミシアは顔を真っ赤にし、ムキになって声を荒げた。 「どこがよ?とんでもない話ばっかりじゃない?勝手に出てきた理由だって…」 「わー!」  アルテミシアが慌ててシャロンの口を塞いだ。シャロンは酔うと饒舌になるタチらしい。全く油断も隙もない。 「本当か?恋人がいるって?」  ヴィンチェンゾが二人の向かいに座って身を乗り出した。 「うん」 「それって、黙ってたのはちょっと俺に気があるからじゃ――」  ここまで言って、ヴィンチェンゾはシャロンと妹たちの蔑みと憐れみの中間のような視線に気付き、 「ないよな。うん」  と肩を落とした。 「ちょっと色々あって、…わたしが黙ってその人のところを出てきちゃったから、わたしたちのことをどう口に出していいか迷ってたんだけど…、でもやっぱり、大事な人なの。誰より」 「ばっかみたい」  シャロンがアルテミシアに人差し指を向けた。 「そんなに大事なら、あたしだったら手放さないわ。だいたい、その超絶お色気司令官はあんたがそんなふうに思ってるって知ってるわけ?」 「変な呼び方やめて」  このやりとりを聞いて、また妹たちが吹き出し、腹を抱えて笑った。 「きっと捨てられたと思ってるわよぉ、お色気司令官。傷付いて他の女に走るなんて、よくある話じゃない?」  アルテミシアは思わず固まった。マルグレーテにも同じことを言われたが、なんだかこっちの方が真に迫っている気がして、ひどく現実味が濃くなった。 「や、やっぱりそう思う?」 「思う」  シャロンとヴィンチェンゾの妹たちが頷いた。更に空いた皿を片付けに来たその母親までもが、首を縦に振っている。だんだん不安になってきた。 「恋とか愛とかはよく分からないけどぉ」  と夢見るような声で言ったのはヴィンチェンゾの末の妹だった。見た感じでは、十二くらいだろう。 「自分に自信が無くなって嫌いになっちゃう気持ちになるのはわかるなあ。あたしも時々いろんなことが分からなくなって、こう…、ウワー!って丘の上からゴロゴロ転げ落ちたい気分になること、あるよ」 「そういう時は、どうするの?」  アルテミシアが訊ねると、末の妹は照れたように笑って言った。 「丘の上からゴロゴロ転がる」 「気持ちよさそう」  アルテミシアは真剣な顔で頷いた。 「そういうのはねえ」  今度はヴィンチェンゾの祖母が目尻の皺を深くして言った。 「みんな経験するもんだよ。特に若いうちはね。そういうものをひとつひとつ受け入れて、だんだん自分を理解していくんだよ。三十、五十を過ぎたってそうさ。一生かけても分からないやつは分からない。知らないことに気付けるってことが、いちばん大事なのさ」  アルテミシアはヴィンチェンゾの祖母の顔を見た。ハシバミ色の目が微風のように穏やかな光を含んでいる。 「ああ、わかった。あんたそういう経験しなかったんじゃない?これぐらいの時に」  シャロンがヴィンチェンゾの末の妹を親指で差した。アルテミシアは目を丸くして二人を交互に見た。 「…しなかったかも」 「これだからガリ勉は」  シャロンがやれやれと首を振りながら揶揄った。 「確かに、ガリ勉だったかも」 「頭ばっかり使ってると、心が鈍くなるって、うちのおばあちゃんは言うわよ」  シャロンが得意げに言った。 「とってもいいおばあちゃんだね。ヴィンスのおばあちゃんも、すごく素敵」  ヴィンチェンゾの祖母は目尻の皺をいっそう深くしてにっこりと笑った。 「わたしにはいないから、羨ましいな」  世辞などではなく、心からそう思った。家族というものが生み出す空気を肌で感じたのは、これが生まれて初めてではないだろうか。 「いつでもおいで。ご近所さんはよくうちに集まってお茶や食事をしていくんだ」 「そうします」 「そうと言わずに、俺と結婚すれば本当にあんたのばあちゃんになるんだぜ」 「しつこい、ヴィンス!」  ヴィンチェンゾの声は、シャロンと妹の罵声に掻き消された。それがおかしくて、アルテミシアは声を上げて笑った。 「冗談はさておき――」 「ほんとに冗談なの?」  ヴィンチェンゾは二番目の妹の茶々を無視して続けた。 「あんたにとってはいいきっかけで始まった旅じゃなかったのかもしれないけどさ、あんたがトーレに来てくれなかったらダンは死んでたかもしれない。変な言い方だけど、ミーシャの傷心旅行がうちにとっては幸運になったっていうかさ。本当に感謝するよ」 「ええ、本当に。ありがとう、ミーシャ」  ヴィンチェンゾの母親がアルテミシアの両手を握った。  端の席に座っていたダンもトコトコとやってきて、アルテミシアのドレスの裾を掴み、照れたように笑った。 「あの…、助けてくれてありがとう。ミーシャ」  ダンはそう言って、後ろに隠していたクリスマスローズを一輪差し出した。  アルテミシアは淡いピンクのクリスマスローズを受け取ってそれをじっくり眺めた。 「…なんか、ネズミ見つけたかも」  アルテミシアが呟くと、シャロンが飛び上がるように席を立ち、悲鳴を上げた。 「ど、どこ!どこ!?」  シャロンには悪いと思いながら、アルテミシアは腹の底から笑った。
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