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六十八、起点 - la partenza -
大晦日の朝を迎えたアレブロの町では、広場に設置された祭壇に続々と農作物や肉などの捧げ物が置かれ、周囲にはいくつも屋台が立ち始めた。年明けに供される料理のふんわりといい匂いが町中に広がり、祭りの活気が人々の顔をますます快活にさせている。
アルテミシアが羊を追う仕事熱心な三匹の牧羊犬を眺めながらアレイオンにブラシを掛けてやっていると、農場の柵をひょいと超えてダンとヴィンチェンゾ、そして少し遠回りして柵の開いている所からシャロンがやって来た。
「遅いぞ、ミーシャ」
と出し抜けにヴィンチェンゾに言われ、アルテミシアは首を傾げた。
「何か約束してたっけ?」
「しなくても、若者はみんな広場に集まって祭りの準備を手伝うって決まってるのよ!」
今度はシャロンが言った。
「そうなの?」
アルテミシアがヴィンチェンゾに訊ねると、ヴィンチェンゾは「んん、ああ」と曖昧な返事をした。
「で、行くの?行かないの?」
シャロンが急き立てたので、アルテミシアはちょっと不満そうに鼻を鳴らしたアレイオンの首をポンポンと叩いてブラッシングを終え、
「行く。ちょっと待ってて」
と足を弾ませて厩舎へアレイオンを連れて行った。後ろからダンが走ってついてくる。
「シャロンはあんなこと言ったけどさ」
とダンは言った。
「昨日帰るときに元気がなかったから、心配してるんだ。ミーシャも誘って祭りに行こうって言い出したのはシャロンなんだよ。別に、決まりじゃないのに」
「ああ、…そっか」
アルテミシアはむずむずと口元を綻ばせた。
「ありがと、ダン」
厩舎を出たアルテミシアは、シャロンに向かって一直線に走り、ガバッと抱きついた。
「急に何よ!」
とシャロンは怒ったように言ったが、振り払おうとはせず、違うことを言った。
「あんた、ドレスでよくそんな速く走れるわね」
「このまま馬にも乗るし、戦闘態勢も取れるよ」
アルテミシアが胸を張った。シャロンは眉を寄せ、意味が分からないというようにアルテミシアの顔を見た。
「元気そうでよかったな」
ヴィンチェンゾがシャロンに笑いかけると、シャロンは頬を赤くしてぷいっとそっぽを向いた。
広場の中心の祭壇と周囲の八か所に篝火が焚かれ、祭壇の火の周囲にも捧げ物が山のように積み上げられた頃、北側の聖堂からあまり華美でない茶色の長衣に身を包んだ司祭が現れ、地母神と海神への聖句を述べはじめた。初めてのアルテミシアは他の町人たちが司祭の言葉を繰り返すのを真似し、時々タイミングを間違えてダンに小さい声で揶揄われた。
広場の周りには捧げ物を調理して無料で町人へ提供する食べ物や飲み物の屋台の他にも、射的や占いなどの屋台があり、中央の篝火の周りでは楽団の演奏に合わせて町の男女が踊っている。
ダンが友達を見つけてその輪へ入って行き、ヴィンチェンゾは猟師仲間と落ち合って屋台で手に入れた酒を飲み始めた。アルテミシアはシャロンを誘って、他所から来た行商人が祭りに便乗して出したらしい小さな屋台で焼き栗を買った。
「小ぶりなのね。ここらへんの栗はもっと大きいわ」
と、シャロンが温かそうな毛皮の帽子を被った若い栗売りの行商人に言った。
「小さいからこそ、甘みが詰まってるんですよ、お嬢さん」
行商人が目を細めた。アルテミシアは行商人が小さな麻袋に焼き栗を詰めるのを見ながら、
「オアリスから来たの?」
と聞いてみた。行商人は「ええ」と、僅かな驚きの表情を見せた。
「どうして分かったんです?」
「しばらく住んでたから、オアリス訛りは耳に慣れてるんだ。少しでも…」
なんだか急激にオアリスのみんなが恋しくなってきた。言葉を詰まらせていると、シャロンが行商人から丸々と栗の入った麻袋を受け取ってアルテミシアの手を掴んでぐいぐいと引いた。
「こんなにたくさん食べられないんだから、ヴィンスたちにも分けに行くわよ、ほら!」
「…ありがとう、シャロン」
「何が?」
などとシャロンはしらばっくれたが、アルテミシアはシャロンの気遣いを嬉しく思った。元気づけたいと思ってくれているのがわかる。
アルテミシアはヴィンチェンゾが複数人の男友達と篝火の周りでダイナミックに踊っているのを眺めながら飲み物の屋台で温かいワインを二つ受け取り、シャロンと一緒に聖堂の入り口の階段に腰を下ろした。
「あーあ。あれは完全に酔ってるわね」
シャロンがやれやれと首を振りながら焼き栗をパキンと剥いて一粒口に放り込んだ。バラ色の唇が優しく弧を描いている。
「シャロンはいつからヴィンスが好きなの?」
アルテミシアは何気なく訊いたつもりだったが、シャロンは思わず栗を喉に詰まらせそうになり、激しく咳き込んだ。アルテミシアは慌ててワインを差し出した。ワインと一緒に栗を呑み込んだシャロンは顔を真っ赤にしていきり立った。
「な、何よ!急に!」
「なんとなく…シャロンとヴィンスは幼馴染みで、小さい頃から兄妹みたいなものでしょ?いつぐらいからそういうふうに思い始めたのかなって」
「それは――」
シャロンは動揺を隠すようにワインを一口飲んで、白い息を二度吐いた。
「もうずっと。物心ついたときからこの人のお嫁さんになるんだって決めてたの。子供の頃は毎日一緒にいたわ。大人になってからは、ちょっと距離ができて…まあ、あたしも他の人と付き合ってみたりもしたけど、でもやっぱりヴィンスじゃないとダメだって思ったの。あんな自信過剰で気が多いやつなんかって思うこともあるけど、どうにもならないのよ…」
「そっかぁ」
アルテミシアはシャロンとヴィンチェンゾの子供時代を想像してみた。愛する人と小さな頃からずっと時間を分け合って来られるとは、なんと素晴らしいことだろう。
「シャロンはヴィンスを見る時すごく可愛い顔をするよね。優しい目をしてて…」
「もぉ!あたしのことはいいのよ!あんたの方がいろいろ問題抱えてるんでしょうが」
シャロンは顔を耳まで真っ赤にしていきり立った。
「心配してくれてありがとう」
晴れ晴れと笑ったアルテミシアを見て、シャロンは文句をぐっと呑み込んだ。
「…あんた、どうすんのよ。どんな大問題で家を飛び出してきたのか知らないけど、引き止められたら絶対に離れられないって思ったから黙って出てきたんでしょ?そんなにそのイノイル人の彼氏が好きなら、このまま離れ離れなんてダメじゃない」
「うん」
アルテミシアがワインに口をつけ、ふうっと息をついた。白い蒸気が空気中に吐き出され、消えた。
「手紙を書くことにした」
「なんて?」
「ちゃんと帰るから、待っていてって」
「そんなこと言ってぇ、もう既に新しい女でもできてたらどぉすんのぉ」
シャロンは歌うように言ってアルテミシアの脇を小突いた。
「それは、ない」
口に出してから、アルテミシアは不安になってきた。サゲンは本当にこの不義理を許してくれるだろうか。
「――と、思うけど…、万が一そんなことになってたら、…う、奪い返す」
「やるう~」
シャロンがヒューッと高い声を上げた。
「うわ、もう酔ったの?」
アルテミシアが顔をしかめてシャロンからまだ半分以上ワインが残っているゴブレットを取り上げた。シャロンは酒にはあまり強くないらしい。
「なんだよ、また喧嘩か?」
ヴィンチェンゾが友人の輪から抜けてやって来た。
「違うよ。シャロンが酔ったの」
「ミーシャがわたしのこと酔っ払い扱いするのよ」
「二人同時に喋んなよ」
ヴィンチェンゾが笑った。
「ほら、二人とも踊ろうぜ。次の曲は男女の組で踊る曲なんだ。男が余ってんだよ」
「どうせあんたがミーシャと踊りたいだけでしょ」
「ばれた?」
「わたしは踊りを知らないから、シャロンに頼んでよ」
アルテミシアは気が進まなかったが、シャロンは首を振って言った。
「教えてもらえばいいじゃない。思い出くらい作ってやりなさいよ」
シャロンはアルテミシアが心配したように無理をしているふうでもなく、本気で言っているようだった。自分の気持ちよりもアルテミシアが去った後のヴィンチェンゾの気持ちを思いやっているのだ。
「じゃあ、いいよ。教えて」
アルテミシアはヴィンチェンゾからいくつか跳ねるようなステップを踏んだ後に爪先をトントンとしてパートナーとくるりと回るダンスを教わり、ダンスの輪に入っていった。シャロンは既にヴィンチェンゾの仲間と踊っている。
「上手い。覚えが早いな」
「よく言われる」
アルテミシアはニッと笑ってステップを踏んだ。
「そういうところもいい」
「ああ。ねえ、ヴィンス。悪いけど…」
「わかってるよ。恋人がいるんだろ?俺は人のものには手を付けたりしない主義だ」
ヴィンチェンゾはアルテミシアの手を取って跳ねるようにステップを踏みながら胸を張った。
「ねえヴィンス、今更だけど、髪のこと、ごめん」
アルテミシアがぽつりと言うと、ヴィンチェンゾは思い出したように「ああ」と言った。
「こっちの方が似合うって、みんなが言うんだ。だから切ってもらってよかったのさ。俺が先に喧嘩を売ったんだしな」
「確かに失礼だったけど――」
アルテミシアは笑って一歩下がるステップを踏んだ。
「正直言ってあの時は気が立ってたから、ちょっと八つ当たりもあったんだ。だから、ごめん」
「そういう時もあるさ」
ヴィンチェンゾはアルテミシアをくるりと回した。
「俺も舐めたこと言って悪かった。あんたはドレスを着てたって勇敢で立派な人間だよ」
一回りして顔が向き合うと、ヴィンチェンゾは大きな歯を見せてニカッと笑った。
「これで初日の仲直りができたな」
「そうだね」
アルテミシアもつられてニッと笑った。
「あんたもそういう顔してる方がいいぜ。ここに来たときはもっと何て言うか…」
「根暗?」
アルテミシアが先を引き取ると、ヴィンチェンゾはフハッと吹き出した。
「そう、根暗な顔してた。けど、最近はよく笑ってるだろ?」
知り合って間もない人物のことを、よく見ている。アルテミシアは感心した。
「優しいよね、ヴィンスもシャロンも。ありがとう」
ヴィンチェンゾは照れたように笑って短い襟足をかしかしと掻いた。
「そりゃ違うぜ、ミーシャ。俺もシャロンも特別優しいわけじゃない。でもあんたがいいやつだから、俺たちもあんたに対してそうなるんだ。俺はいいやつだ。だから周りにいいやつらが集まってくる。そうだろ?」
「そうなのかな」
アルテミシアはふとロクサナを思った。彼女がもっと善良であれば、彼女を食い物にするだけの男たちではない、善良な誰かに出会えたのだろうか。
(いや、違う)
アルテミシアはふるふると首を振った。ロクサナに起こらなかったことを夢想しても仕方がない。
「そうさ。あんたは誰かも知らない俺の弟を救ってくれた。グレタに聞いたけどさ、前にもたくさん助けてきたんだって?すごいよ。グレタもあんたのこと、誇りだってさ」
ヴィンチェンゾが言った。
「…そっか」
アルテミシアは再びロクサナを思った。彼女は選ばなかったのだ。アルテミシアが選んだものを、自分が選べたはずのものを、ロクサナは選ばなかった。
唐突に、ロクサナがひどく遠い存在に思えた。
「確かにあんたはいいやつだよね、ヴィンス」
この夜、年明けの鐘が鳴って新年を祝う儀式が終わるまで、アルテミシアは仲間たちと広場で踊り、飲んだ。酒樽の底が見え始めた頃、今度はシャロンが女たちのダンスを教えてくれた。月が下り太陽が昇るのを待つという意味のあるものらしく、緩慢なステップを踏みながら手を大きく伸ばしては下ろすという動作を繰り返すのだ。太鼓と笛の演奏に合わせて、祭壇の火を丸く囲んだ若い女たちがゆっくりと踊る。
アルテミシアは南西の空に高く上がった月とその下に並んだ木星を見上げた瞬間、ふと「帰ろう」と思った。オアリスへだ。太陽が東から昇って西へ沈むのと同じくらい自然に発想した。
母たちの待つ家へ帰ると、イノイルへの帰国の準備を始めた。最初にしたことは、手燭の灯りでサゲン宛ての手紙を書くことだ。そして翌朝、旅支度を始める前に、マルグレーテとロベルタにそのことを話した。
「旅の答えは見つかったの?」
母親の問いに、アルテミシアはかぶりを振った。
「全部は見つかってない。でも、それが答えなんだと思う」
そう言った娘の顔は、霧が晴れた空のようにすっきりとしていた。マルグレーテは頷いた。
「わたしも、お前の旅で得たものがあるわ」
アルテミシアが首を傾げると、マルグレーテはにっこりと笑った。
「家族よ。今度こそただの母と娘になれたような気がするわ。一緒に家事をしたり、悩みを聞いたり、そんな当たり前の親子の時間は、今までなかったもの」
「確かに、パタロアの時は最悪の再会だったもんね」
アルテミシアが笑いながら皮肉ると、ロベルタは「そうでもありませんよ」と眉を上げた。
「あれはロベルタの人生でいちばんスカッと爽快な瞬間でした。あのエンリコ・ブタ野郎がブタ箱に連れて行かれた時なんて、奥さまやお嬢さまはご存じないでしょうけど、使用人全員が厨房に揃って祝杯をあげたんですよ。あんな一体感はあのお屋敷で働き始めてから初めてのことでした、ええ」
アルテミシアがロベルタの口の悪さにケタケタと声を上げて笑うと、マルグレーテがちょっと不満そうに言った。
「そんなことをしてたの?わたしも混ぜて欲しかったわ」
アルテミシアは出立の日を新年の宴が終わってから三日後と決めた。祭の後片付けを手伝い、知人たちに挨拶回りをするのに必要な日数だ。
ところが、新年の宴が終わった一月二日の夜、トーレの街を大寒波が襲った。未明から強風が吹き出して海は激しく時化り、アルテミシアは帰国の延期を余儀なくされた。この日の夜には大雪が人家を叩きつけるように降ってトーレ中を真っ白に染め上げた。
サゲンへの手紙は前日に出していたから今頃は船の上だろうが、この吹雪では出航しないだろう。ふと、オアリスにも雪は降ったのだろうかと考えた。サゲンを想うとひどく気が急いたが、運河は凍りつき、町中が雪に埋め尽くされたために、アルテミシアをはじめ町中の人々が大量の除雪作業に追われることとなった。
良い面を考えるならば、母親やドナやロベルタだけではなく新しくできた友人たちとも一緒に過ごす時間が増える。が、この寒波は長くなりそうだ。日が経つにつれ、サゲンへの想いは募る一方だった。ロクサナの夢を見ることが減った反面、サゲンの夢を見る夜が増えた。それも、オアリスへ帰った途端に怒りの形相で別れを切り出される夢や、ボーヴィル伯爵夫人にそっくりな貴婦人と森の屋敷で暮らしている夢だ。どちらにせよ悪夢を見るのならばロクサナに「自分と同類だ」と散々詰られる方が余程ましだ。最近は夢に現れるロクサナを論破してやり込められるようになってきたという理由もある。
結局、大貿易港であるトーレ港が数週間にも渡って機能しないという十年に一度の非常事態は、一月の後半になってようやく解消された。街道も人馬が通れる程度には整備されたが、依然として風の強い日が多く、船での長旅は困難だ。
アルテミシアは陸路を取るべく準備を始めた。まずは、市場へ繰り出して地図を買い、小柄なアレイオンのために出来る限り舗装された大街道を選んで印を付けた。女一人で陸路を行くのであれば、武器も必要だ。鍛冶屋のパオロにアレイオンの新しい蹄鉄を依頼し、ついでに旅装の邪魔にならないような軽量で細身の太刀を長短合わせて二振り注文した。
不安はある。
オアリスへ戻ったところで、自分の居場所などとうになくなっているかもしれない。サゲンに受け入れてもらえないことだって大いに有り得る。それでも、ここを起点にまた始めると決めたのだ。
諸々の準備を終え、出発を二日後に控えた朝のことだった。近所の友人たちに挨拶回りをするべく家を出ると、ちょうどシャロンとヴィンチェンゾが訪ねて来た。二人のちょっと深刻そうな表情を見て、アルテミシアは胸がぎゅっと締め付けられた。二人はこの数日旅支度をしていたことを知っているだろうから、今日別れの挨拶に行こうとしていることに気付いて訪ねてきたのかも知れない。オアリスへ戻ることに後ろめたさはないが、新たに友誼を結んだ者たちと離れるのはやはり辛い。
しかし、二人の目的は違っていた。
「あんたの家を訊ねて回ってる男がいるけど、知り合いが訪ねてくる予定はある?」
シャロンが言った。
アルテミシアは首を傾げた。
「ない。わたしを探してる?」
「いいや、そいつが探してるのはあんたの母ちゃんだ」
二人とも全ての事情を知らないにせよ、マルグレーテが悪い夫と離縁してこの地へ来たことを知っている。先にアルテミシアに訊きに来たのは、彼らがアルテミシアの方が面倒事の対処に慣れていると判断したからだった。
ヴィンチェンゾの言葉を聞いてアルテミシアの脳裏をよぎったのは、ベルージの関係者だ。ベルージを捕縛した際、違法な取り引きに関与した者を一人残らずリストアップし、海賊を討伐した時には既にその全員が捕縛されていたが、用心に越したことはない。
「歳はどれくらい?訛りはどこのかわかる?武器らしいものは持ってる?」
アルテミシアの質問に、シャロンは的確に答えた。
「三十後半から四十代くらい。髪はブロンドで、長旅をしてきたみたいに外套はボロボロだった。でも、身なりは悪くないわ。階層は中の上って感じ。訛りはどこのかよく分からないけどルメオ人じゃない」
「見た感じ武器も持ってなかったぞ」
「でも、外套に隠してるかもしれないじゃない」
シャロンが反論すると、ヴィンチェンゾはうぅんと考え込むように腕を組んだ。
「そうは見えなかったけどな。なんか、必死な感じだったぜ。‘グレタという人の家をご存じですか’って、丁寧な感じだ」
これを聞いて、アルテミシアは眉間に皺を寄せた。
「‘グレタ’って言った?‘マルグレーテ’じゃなくて」
「ああ。確かにグレタって言ってたぞ」
アルテミシアの心臓が強く叩きつけるように打ち始めた。この町の人間以外で母親を‘グレタ’と呼ぶ人間に、一人だけ心当たりがある。
「その人、いまどこ」
「俺の家で茶を飲んでる。誰かわからないやつにホイホイ家を教える前に、事情を聞いた方がいいって、親父が」
「ジンガレリさん最高。ありがとう、二人とも。母さまにも知らせてくれる?」
アルテミシアはシャロンとヴィンチェンゾに両手の親指を立てて見せ、駆けて行った。脚がひどく急いた。
ジンガレリ家へ赴いたアルテミシアが見たものは、大家族が囲む長方形のテーブルの一番奥に座るヴィンチェンゾの父親と、その向かいに座ってゆったりともてなしの紅茶を喫する男の後ろ姿だった。肩につくほどの長さの明るいブロンドの髪を、後ろで一つに縛っている。戸口の前には、警戒のためか、ヴィンチェンゾのすぐ下の弟と祖父が立っていた。
「よお」
ジンガレリ氏がリラックスした様子でアルテミシアに微笑んだ。どうも目の前の男を警戒しているようには見えない。同時に、ブロンドの男が立ち上がって振り返り、夏空のような瞳を輝かせてにこやかな顔を見せた。アルテミシアは後頭部を鉄球で思い切り殴られたような強い衝撃を受けた。暫く声が出せなかったほどだ。この男の顔を知っている。
――バロー医師だ。
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