六十九、リンド - Lïnde -

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六十九、リンド - Lïnde -

「――バロー先生…」  口に出してから、間違いに気付いた。  ふた月前にティグラ港で見送ったバロー医師は、軍医らしく髪を短く切り揃えていた。二か月で髪がこれほど長く伸びるはずがない。この時、何かが頭の奥で繋がったような気がした。 「クロード・バローは僕の双子の弟だ。僕の名前はジュード・リンド。君は…」  聞き間違いではないだろうか。アルテミシアは口を開けたまま呆けて目の前の人物を見た。ジュード・リンドと名乗った男の顔に、だんだんと大きな笑みが広がっていく。 「…‘アルテミシア’?」  アルテミシアは依然として衝撃から立ち直れず、言葉を発することも頷くこともできなかった。 「そうだ!アルテミシア、ミーシャだね。クロードが言っていた、僕たちにそっくりな女の子。てっきりオアリスにいると思っていたけど…」  ジュードは飛び上がるようにしてアルテミシアの肩を掴み、顔をまじまじと覗き込んだ。初対面の人間に肩を掴まれたらいつもなら手を捻り上げてやるところだが、そんなことは考えつきもしなかった。  見れば見るほど、自分の顔とそっくりだ。やや反り気味の鼻筋、唇の形、眉の一本一本の生え方までよく似ている。探せばもっと似ているところが見つかるだろう。 「君のお母さんは、グレタと言う名前だろう?そうだと言ってくれ」  ジュードは懇願するように言った。必死なのは声で分かる。 「ミーシャ、危険はなさそうかな?」  ジンガレリ氏が尋ねた。アルテミシアの反応で、既に答えは分かっているようだ。戸口に立っていたジンガレリ家の男たちもいつの間にかいなくなっている。 「たぶん、ほぼ確実に、このひと…」  アルテミシアは白昼夢の中にいるような気分で目の前の顔を見上げながら口を開いた。もう何日も声を出していなかったかのように喉が掠れた。 「わたしの父です」  ジュードの目から涙がこぼれた。小さく首を縦に振って何度も頷いた後、「ああ」と声を絞り出した。 「まさか僕に娘がいたなんて…」  アルテミシアも気付かないうちに頬を濡らしていた。バロー医師を初めて見た時に感じたよりももっと強烈な繋がりがここにあった。あの時感じたものは妄想でも思い過ごしでもなく、現実だったのだ。 「抱き締めてもいいかい?アルテミシア」  アルテミシアは答えるより前に、父親を抱き締めた。 「とうさま…」  その時、開け放たれたままの戸口に人影が立った。  息を切らせて長いドレスの裾をバサバサと捌きながら、マルグレーテが近付いてくる。ジュードはハッと顔を上げ、その姿を見た。娘を抱き締めたまま動くのを忘れてしまったジュードは、春の陽射しを見たような顔をしていた。 「…もう船酔いは治ったのかい?グレタ」  マルグレーテは顎をわなわなと震わせながら、口元に笑みを浮かべて見せた。 「いつの話をしているの?ジュード」 「僕にとっては、それが昨日の事みたいに鮮明な記憶なんだ。その証拠に――」  ジュードが一直線にマルグレーテへ駆け寄り、その小柄な身体を抱き竦めた。 「君はちっとも変わっていないじゃないか!」 「あなたも変わらないわ。皺が少し増えたようだけど」  アルテミシアは笑いながら涙を流す両親を見た。この旅で得たものが、それも、手に入るなどと想像したこともなかったものが、またひとつ増えた。  三人がマルグレーテの家へ移動した後、待ち受けていたのはロベルタの用意したたっぷりの紅茶とお菓子だった。シャロンがロベルタにも知らせてくれていたらしい。  ジュードの荷物は、長旅のせいで端々が擦り切れ、至る所に雪と泥が跳ねてすっかり汚れてしまった毛織物の外套の他は、使い古した大きなトランクひとつだけだった。この身軽さが、自分と似ているとアルテミシアは思った。以前サゲンが言っていた「知らない場所へ躊躇なく飛び出していく」という自分の性質は、父親から受け継いだものであるかもしれない。  予期せぬ客人を紹介されたロベルタはジュードにニコニコと笑いかけて雪と泥に汚れた外套を受け取ると、感慨深げに息をついて三人を交互に見、 「じゃあ、わたくしはこの汚れた外套を綺麗にしたらドナのおうちにお茶をご馳走になってきますわね。そのまま夕飯もご馳走になって、それから多分そのまま泊まって来ますから、晩ご飯は竈の上のスープとオーブンに入っているチキンを焼いて召し上がって下さいな」  などとテキパキ指示を出してふんわりした白髪をワサワサと踊らせて奥へ引っ込んでいった。親子三人に気を利かせてくれたのだ。  聞きたいことや話したいことは山程あるはずなのに、あまりの現実感の無さに頭がふわふわとしている。アルテミシアは無造作にティーカップを持ち上げながら、隣に座る母親とその向かいの父親の顔を交互に見た。二人ともアルテミシアと同じような状況だ。その証拠に二人とも頬を紅潮させて、時折互いの顔を見ながらぎこちなく微笑み合っている。まるで少年少女の初めてのデートに同席したような気分だった。  アルテミシアは堪りかねて声を発した。 「あの、さ…」 「なんだい?ミーシャ。あ、それともアルテミシアと呼んだ方がいいかな?」  待ってましたと言わんばかりにジュードが顔を輝かせた。バロー医師とそっくり同じ顔をしているが、ジュードは表情の端々にどことなく少年臭さがある。 「アルテミシア」  答えたのはマルグレーテだった。 「美しい名でしょう。あなたに呼んで欲しくて付けたのよ。まさか、実現するなんて思わなかったけれど」  マルグレーテがアルテミシアが今まで一度も見たことがないような顔でジュードに微笑みかけた。 「そう、…そうか。アルテミシアだね…」  多分、両親の目の前には船酔いの治療に使ったアルテミシアの葉が見えているに違いない。  再び出会って恋に落ちた父と母を目の当たりにするのは、何だか不思議な気分だ。踊り出したいほど嬉しくて堪らないのは間違いないが、当事者たちの娘としては多少気まずくもある。 「うん。じゃあ、それで」  アルテミシアは本題に戻すことにした。今のやり取りを聞いていて、多少頭が冴えた。聞かなければならないことは、山程ある。 「どうやってここがわかったの?バロー先生とはどうして姓が違うの?バロー先生は気付いてたの?わたしが双子の兄の子供だって」 「ああ、ハハ。そうだね。順を追って話そう」  ジュードは母娘に穏やかに笑いかけた。 「クロードがイノイルを発つ時、君が港まで見送っただろう」  アルテミシアは当時のことを思い返してみた。正直、あの頃のことは記憶が曖昧だ。毎晩ロクサナの悪夢に魘され、毎日罪悪感と自己嫌悪で頭がぐちゃぐちゃだった。確か、サゲンの入院中にロハクからバロー医師の帰国の日取りを知らされたような気がする。世話になった恩義と義務感だけではなく、一抹の寂しさがあった。それと、焦燥に似た不思議な感情だ。それらがアルテミシアに小さな行動を起こさせた。 「あ」  と、アルテミシアはそのことを思い出した。 「あの時わたし、バロー先生に‘母親のグレタが夫と離縁してトーレにいる’って言った」  気紛れのようなものだった。バロー医師が父親である可能性がないと分かっていてなおそのような行動を取ったのは、この否応なしに感じてしまう絆のようなものが本当に思い過ごしであるならば、その証拠が欲しかったからだ。結果、バロー医師はアルテミシアの思った通り母親の名に驚いたような反応は見せず、「それはいいね。いいところだ」とだけ言った。それだけの会話だった。アルテミシアが二度目に味わった小さな失望は、この時期毎日のように積み重なっていた心の澱に埋もれていった。だから、今の今まで思い出さなかったのだ。 「バロー先生も同じように感じてた?」  ジュードが頷いた。 「そのことが妙に引っ掛かったんだと言っていたよ。出港してから時間が経つにつれて、頭から離れなくなったんだと。クロードは故郷に帰るなり、自分の家族が待つ家じゃなくて僕の家へ真っ先に来たんだ。‘僕たちにそっくりな顔の女の子がオアリスにいて、母親のグレタがトーレにいると別れ際に告げてきた。何か心当たりがあるんじゃないのか’って。弟は僕が二十年以上も前に打ちのめされて留学から帰ってきたのを覚えていたんだ。最愛の妻を失ったことを」  ジュードはアルテミシアからマルグレーテへと視線を移し、ちょっと寂しそうに笑った。 「…あなたを捨てた悪女の名を、弟さんは知らなかったの?」  穏やかな口調で自嘲したマルグレーテの手を、ジュードはキュッと握った。 「思い出になるなら、いっそのこと僕だけが知っている名前にしておきたかったんだ。バカみたいだけど、他の誰かが呼んだら思い出も消えてしまうんじゃないかってね。僕たちが夫婦として過ごしたのはたった一夜だ。証人も付き添い人もいない、秘密の結婚だった。それでも、僕にとってはたった一人の妻なんだよ。悪女なんかじゃない。一晩だけでも僕を夫に選んで愛してくれた、たった一人の」  この時、初めてマルグレーテの目から涙が溢れた。マルグレーテはジュードの手を強く握り返し、嗚咽を漏らした。 「わたしはあの後、家のために最悪の結婚をしたわ。でも、本当に夫と思っているのはあなただけ。心から愛する人も。海の上であなたと夫婦の誓いを立てたあの時から、今までずっと…」 「グレタ…!」  椅子を跳ね上げるような勢いでジュードが立ち上がった。アルテミシアは「あっ」と思った。この先の構図が見える。 「ちょっと、ごめん。娘がいるの見えてる?」  アルテミシアが声を上げて阻止すると、ジュードは照れたように笑ってもう一度座り直した。 「そりゃ、わたしも本当に嬉しいし邪魔したくないんだけど、両親が目の前でイチャつくのはちょっとキツい」  アルテミシアが言うと、マルグレーテは手巾で涙を拭いながら含み笑いをした。「どの口が言うのか」とでも言いたそうだが、アルテミシアは無視した。一方ジュードは「両親」という響きに感動を覚えたらしい。今度はアルテミシアに向かってうっとりと笑いかけた。 「ああ、そうだね。話を戻そう」  ジュードは機嫌良く言った。 「クロードからアルテミシアという名前を聞いてピンときたんだ。今度こそ間違いないと思った。僕らの出会いのきっかけだ。二十年以上も恋い焦がれた女性がトーレにいるかもしれないと知って、気付いたらもうその日のうちに仕事を辞めて、荷物をまとめていたよ。大雪のせいでだいぶ時間がかかったけど、これまでの二十二年に比べたらこんなのは――」  ジュードは真っ青な目から涙を流し、小さく首を振った。 「あっという間だ。最高だよ。グレタが僕を思い続けてくれていたなんて。それに、こんなに美しくて、素晴らしい娘がいて…」  アルテミシアは涙がこぼれる前にドレスの袖で目元を拭った。 「わたしも嬉しいよ。本当の父親に会えるなんて、一生ないと思ってた…」 「君がクロードに出会ったお陰だ。聞いたよ。大変な任務だっただろう。それでも、僕はそのことに感謝し続けるよ。君の勇気と、受けた傷にも…」  ジュードはちょっと哀しそうに笑った。 「バロー先生は血縁者だって確証がないのに父さまに患者の話をしたわけ?とんでもないね」  アルテミシアが腕を組んでわざと憤慨して見せると、ジュードは声を上げて笑った。 「じゃあ、クロードのことも君に教えないといけないね」  アルテミシアが一番に引っかかっていたところだ。そもそも、バロー医師がリンドという姓であればもっと早く結びついていただろう。 「どうして姓が違うのかと訊いただろう。実は、もともとクロードはその奥さんと子供たちと一緒にリンドの姓を名乗っていたんだ。バローは奥さんの旧姓だったんだよ。それが、バロー家の最後の男だった奥さんの従兄が子を残さないまま病気で亡くなってしまって、家を継ぐ者がいなくなってしまったんだ。それで、奥さんの親父さんの強い希望があって、役所へ届け出て一家で姓を変えたのさ。だから、弟はリンド先生ともバロー先生とも呼ばれている。ややこしいんだ。名前が変わってすぐの頃は‘バロー’と呼ばれても自分のことだと気付かずに上官が呼ぶのを無視して、よく叱られていたらしいよ」  ジュードがおかしそうに笑うのを見ながら、アルテミシアはオアリスのコルネール邸での夜会を思い出していた。老婦人に「リンド先生のお嬢さんではないか」と問われたあの出来事だ。 「‘軍医のリンド先生’って、バロー先生のこと?」 「ああ。少なくともナヴァレでは、リンドという軍医は一人だったね」  アルテミシアはマルグレーテと顔を見合わせた。マルグレーテも驚いている。アルテミシアと同じの任務に父親の影を匂わせる人物が派遣されたのは、果たして偶然だろうか。 「バロー先生は、自分で今回の任務に志願したの?」  アルテミシアの不思議な質問に、ジュードはちょっと訝しげに首を傾げた後、「あっ」と思い出したように言った。 「そう言えば、先に決まっていた軍医と交代になったらしいんだ。なんでも、ルドヴァンの公爵夫妻の意向とかで。クロード本人も理由はよくわからなかったらしいけど、お偉方の気紛れはよくあることだから、あまり気に留めなかったみたいだね」 「気紛れじゃないよ、それ」  アルテミシアが再び泣き出しそうな顔で言った。この瞬間に全てを理解した。彼女が勘違いだと記憶の隅に追いやった出来事を、コルネール公爵夫人ことアリアネ先生は異なる解釈で受け止めていたのだ。 (アリアネ先生らしい)  直接引き合わせることもできたはずだが、そうしなかったのは、‘リンド先生’ことバロー医師に既に家庭があることが分かっていたからだろう。あくまでアルテミシアが自分で真実に辿り着けるよう、一肌脱いでくれたことになる。 「アリアネ先生…コルネール公爵夫人に、お礼の手紙を書かなくちゃね」  アルテミシアがマルグレーテに言うと、ジュードはひどく驚いた様子を見せた。当然だ。今まで存在さえ知らなかった実の娘が祖国の大貴族と繋がりがあるなど、考え付きもしないだろう。 「もしかして、公爵夫人と知り合いかい?すごいな」 「本当すごいよ。全部つながった」  と、アルテミシアは別のことについて呟いた。  ‘軍医のリンド先生’と顔のそっくりなバロー先生と、ジュード・リンドという名前だけの存在だった父親が、一つの線になったのだ。 「公爵夫人の知り合いどころか、この子はイノイル国王の通詞なのよ」  マルグレーテは誇らしげに言った。 「本当かい?クロードはそんなことは教えてくれなかったぞ」 「わたしの姓もでしょ?」  アルテミシアが言うと、ジュードは首を傾げた。 「一度も聞かれなかったから、バロー先生は知らないはずだよ。わたしが十五の時に自分で選んだ名前を」 「名前を変えたのかい?どうして?」 「養父の姓を捨てて、役所で新しく書き換えたの」  ジュードの顔が曇った。娘の身に何があったのかと不安になったのだろう。未婚の娘が姓を捨てるなど、尋常ではない事情があるのは明白だ。しかし、アルテミシアは気にせず続けた。 「わたしの名前は、アルテミシア・ジュディット・リンド」  アルテミシアは思わず笑い出した。父親がまるで理解できない言語を聞いた時のような顔をしている。 「ジュディット、――リンド…?」 「どっちもずっとおばあさまの名前だって聞かされてた。父さまの名前だって知ったのは、つい半年くらい前のことだよ」 「…どうして、その名を選んだんだい?」  ジュードは涙を拭こうともせずに笑った。 「長くなるよ」 「いいさ。どれだけ時間がかかっても。教えてくれるかい、君たちのことを」  この日、家の灯りは真夜中まで消えることがなかった。  それぞれの人生を語るのに、一日ではとても足りない。ジュードは、アルテミシアの生い立ちとマルグレーテの結婚生活の話を聞くとひどく心を痛めていたが、マルグレーテが夫を暗殺しようと計画を立てていたことやアルテミシアがイノイル・ルメオ軍を伴ってパタロアの屋敷へ現れたことを聞くと、ひどく感心して「君たちほど強い女性たちを僕は知らないよ」と二人を賞賛した。  ジュードもまた、自分のことを話した。  両親がまだ北エマンシュナのグリュ・ブランという故郷の町で元気に過ごしていること、クロードの他にも兄弟が三人いて、全員が医療関係の仕事に就いていること、アルテミシアにいとこが十一人もいること、マルグレーテと別れてから十年後に見合いの相手と結婚をしかけたが、マルグレーテのことが忘れられず破談にしたこと、マルグレーテより二つ年下の四十歳であること、そして、職業だ。 「獣医?」  これは意外だった。弟のバロー医師が人間を診ているから、てっきりジュードも同業だと思っていた。 「人間の診察もできるよ。ユルクスから帰国した後アストレンヌ大学で内科医と精神科医の学位も取ったからね。ただ、先にユルクス大学で学んだ獣医学の方が専門なんだ」 「あなたのその学問に無節操なところ、アルテミシアに受け継がれているわ」  マルグレーテが呆れたような声色で、可笑しそうに言った。  ジュードは近くに宿を取るつもりでいたらしかったが、マルグレーテが部屋ならあると言って引き留めた。ジュードはこの上なく嬉しそうに笑うと、案内された二階の寝室へ入っていった。ドナが泊まりに来るときにいつも使う場所で、マルグレーテの寝室の隣にある。  アルテミシアは寝室に入った後も机の上に火を灯していた。とても寝付けない。もしかしたらこれは夢で、一度眠ったら父親が消えているのではないかとも思った。しかし、確かに、紛れもなく現実に起きている。興奮が醒めないうちにペンとインクを取り、トランクから紙を引っ張り出してサゲンに手紙を書き始めた。父親が現れたこととバロー医師と双子の兄弟だったこと、それらに関連する経緯を記し、最後にいくつか付け足して、封蝋を押して閉じた。  喉が渇いたので水を取りに行こうと部屋を出ると、ちょうどジュードも手燭を持って部屋を出たところだった。親子だからといってこうも似るものだろうか。二人は顔を見合わせて思わず笑った。 「なかなか、どうにも寝付けなくてね」 「わたしも。母さまはすっかり寝ちゃったみたいだけど」 「ああ、彼女は初めて会った頃もひどい荒海の上でよく眠っていたよ。状況を選ばずに熟睡するのが得意なのかも知れないな。新しい発見だ」  ジュードは声を弾ませた。  アルテミシアはジュードが薄地のシャツの上にマルグレーテのお気に入りの花柄のショールを羽織っているのを見て、ちょっとおかしくなった。 「しばらくいるなら、もっと服が必要だね」  二人で階段を下りながらアルテミシアが言うと、ジュードは意味ありげに笑みを浮かべて見せた。 「そうだね。いろいろと揃えなければ」  昼から夜更けまでずっとそれぞれのこれまでのことを話してきたが、これからのことは話さなかった。しかしこの一言で、アルテミシアにはジュードの意図が分かった。娘として見届ける必要があるし、そうしたい。  アルテミシアは一階の台所へ入ると、棚から水の入った瓶とグラスを二つ取り出した。 「本当は、そろそろオアリスに帰るつもりだったんだけど――」  ジュードは水の入ったグラスを受け取って穏やかに頷いた。 「彼のもとに?」  アルテミシアは頬を赤らめた。 「そう。でも、もう少しこっちにいることにする。明日はこれからのことを母さまと二人で話し合って。わたしはドナのところに行って、父さまのことを話してくるから」 「ありがとう、アルテミシア」  そう言って、ジュードはアルテミシアをまじまじと眺めた。どこか不安そうな顔だ。 「…なに?」 「いや、どうにも――」  ジュードは頭を掻いた。 「信じられなくてね。まさか本当にあの時…」 「あっ、言わなくていい」  アルテミシアは慌てて止めた。「あの時」が何を指すのかは分かっている。 「ああ、ごめんよ。とにかく、胸がいっぱいなんだよ。こんなに幸せな気持ちは、初めてだ」  そう言った父親の顔は、本当に幸せそうだった。母親もそうだ。この半日で、マルグレーテはアルテミシアが見たことのない顔を何度も見せた。  当然、アルテミシアも幸せだった。ジュードとは初めて会ったはずなのに、ずっと昔から知っていたような気がする。バロー医師と知り合うよりもっと前の、例えば生まれた時から。この人物の存在が近くにあることが、まるで当たり前のように感じられた。紛れもなく本物の‘家族’だった。しかし、どんなに完璧な家族があったとしても、ここには決定的に足りないものがある。  すると、ジュードがアルテミシアの心中を見透かしたように寂しげに目を細めた。 「…クロードが君のことを心配していたよ。オアリスから離れて、悪夢からは解放されたのかい?」  アルテミシアは患者の情報を第三者に漏らしたバロー医師を恨めしく思うことをやめた。 「まだ見るよ。でも、最近は前ほど悪い夢でもなくなってきたんだ。その代わりにサゲンに振られる夢を見る。こっちの方がキツい」  そう言って、自嘲した。 「わたしが悪いんだ。軽蔑されても、仕方ないの」 「クロードは彼が君をとても大切に想っていると言っていた。彼も分かってくれているよ」 「でも、傷付けたことには変わりないでしょう」 「そうだなあ。でも僕はこう思うよ」  ジュードは人差し指を立てた。 「愛する人のためなら、傷付くのも本望だ、ってね」 「ああ、父さまはそんな感じ」  アルテミシアは笑った。 「命がある以上は、誰も傷付けず、誰にも傷付けられない生き方なんて不可能なのさ。だからと言って、傷付くことは何も悪いことばかりじゃない。せっかく会えた娘が恋人の元へ去ってしまう痛みも、娘の幸せのためなら喜んで引き受けるよ。そうして幸せな思い出が増えていくんだ。最近分かってきたことなんだけどね、人生はそういうふうにできていると思うんだ」  ジュードはアルテミシアとそっくりの唇を引き伸ばした。
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