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七十二、ある逆説 - un paradosso -
「反撃もせず、言いなりか」
と、サゲンがサーシャの後ろ姿を嘲笑った。
「そういう言い方しないで。彼はわたしの――」
「聞きたくない」
サゲンが力任せにアルテミシアの腕を引いた拍子に、アルテミシアがよろけてサゲンの胸にぶつかった。滑稽だ。こんなふうに威圧されてなお、そばにいられるのが嬉しいなんて。
「君の口からは、何も聞きたくない」
アルテミシアはまだサゲンの誤解に気付かなかった。ただ、自分とは話したくないのだと言われたと思い、傷付いた。それほどにサゲンの傷と怒りが深いのだ。
サゲンは大股でクーポラの礼拝堂へ向かい、外の壁に掛かっているランプを取り、閉じられた正面の扉を力任せに蹴り開けるとアルテミシアをその狭い空間へと押し込め、内側から閂を掛けた。石造りの礼拝堂の内部には磨き上げられた木造の半円形の祭壇があり、その中央の段を上がった所に白い石で出来た等身大の女神像が祀られ、その柔らかい眼差しの先に、脚をついて祈りを捧げるための長いクッションが置かれている。
「ここ、礼拝堂…」
「わかっている」
サゲンは灯りを祭壇に置いて分厚い外套を邪魔くさそうに脱ぎ捨て、隅で立ち尽くすアルテミシアに音もなく歩み寄った。
「俺は、君を信頼していた。必ず帰ると」
サゲンが言った。
「心の平穏を取り戻すためにオアリスから離れる必要があるのならばそれも仕方ないと、戻るのを待つつもりでいた。いかに不本意でも、裏切られた気分になろうとも、実際にそうした。君の愛を信じたからだ」
静かな言葉の端々にサゲンの失望が聞こえるようだった。アルテミシアはサゲンの冷たい声に涙が出そうになったが、息を大きく吸って堪えた。サゲンを傷付けたのは自分だ。泣き出すわけにはいかない。
「その代償が、この仕打ちか」
サゲンの目が暗い礼拝堂の中で鈍い光を放ち、その苦悩を映した。アルテミシアは喉を震わせて空気を呑みこんだ。
「ごめん…」
「俺は何だ。父親の代わりか、君が健全な家族を得るための練習台か。君は本物の家族を得たから俺は、用済みというわけか」
「まさか!なんでそんなこと…」
「では何だ!」
サゲンが鋭く言ってアルテミシアの肩を掴み、壁へ押し付けた。
アルテミシアは叫びたかった。ただ、あなたが好きだと、愛していると伝えたい。しかし、サゲンの激しい怒りがそれを躊躇させた。愛を告げることが許されるだろうか。大怪我をしたサゲンから黙って去り、信頼を裏切った自分が愛を伝えて、拒絶された時はどうしたらよいのだろう。きっともう二度と立ち直れない。シャロンには奪い返すなどと豪語しておいて、こんなふうに何も言えない自分が情けなかった。
アルテミシアが目に涙を溜めて言葉を失ったのを見て、サゲンはますます苛立った。さっきの赤毛の男に見せていたリラックスした顔とは、まるで違う。嫉妬で気が狂いそうだ。
「…このまま帰れると思ったのか」
歯の間から唸るように言った。
(帰すものか――)
サゲンはアルテミシアの口に噛み付いた。アルテミシアが反射的に振り上げた手をいとも簡単に掴んで頭の上でまとめて壁に縫い付け、自分の身体を強く押し付けて自由を奪った。
「んんっ…、ふ…」
アルテミシアは息苦しさにもがいたが、サゲンの舌が中へ入ってくると身体が別の反応を始めた。全身が内側から熱を持ち、腹の奥がじくじくと疼いてサゲンの荒っぽい口付けを享受している。サゲンが獣のように呼吸して喉の奥で唸ると、アルテミシアの五官がそれに共鳴した。
アルテミシアが甘い吐息で喘ぐように呻き、サゲンの行為に応えた。自分から舌を伸ばして奥へと入り込んでくる。苛立ちと怒りに欲望が溶け込んで身体中の血を泡立たせ、サゲンの思考を止めた。サゲンはアルテミシアの手首から滑らかな腕の内側と脇や背を通って腰を抱き、片手でドレス越しに腿を撫でた。
アルテミシアは自由になった腕をサゲンの首の後ろへ伸ばし、短い栗色の髪に指を挿し入れ、触れ合った肌の境界を超えるようにサゲンの頭を引き寄せた。
サゲンは唸ってアルテミシアの唇を貪るように覆い隠し、ドレスの下の肌が熱くなるのを手のひらに感じた。唇を解放したとき、顔を上気させたアルテミシアの目から涙が一筋こぼれた。
「こんなに熱くなるくせに――」
サゲンはアルテミシアの頬を両手で挟み、涙が走ったあとに唇で触れた。
「どうして俺から離れられると思った」
「…わからない」
どうして、一瞬でもこの男を手放そうと思ったのだろう。もう一秒も離れていたくない。二度と離れたくない。アルテミシアは頬に触れるサゲンの手に自分の手を重ねた。
サゲンは確信を持った。アルテミシアは間違いなく自分を愛している。それだけに、他の男と結婚しようとしている理由が理解できなくなった。途端に最悪な考えが頭をよぎった。神殿の前で赤毛の男との会話を聞いた時に、真っ先に振り払った考えだ。
「…子でもできたか」
「は?」
アルテミシアは訊かれた言葉の意味が分からず、思わず頓狂な声を出して首を傾げた。
「他の男と寝たのか!あの赤毛とも」
とサゲンが声を荒げた時に、ようやく事態に気が付いた。サゲンは手紙を読んでここへ来たのではないのだ。何か重大な誤解をしている。
「ちょっと、待って…」
サゲンが憤然と一笑した。
「また‘待て’か。こんな裏切りに遭うくらいなら、君の望みなど聞かなければよかった」
アルテミシアは誤解を解くために口を開きかけたが、突然身体を持ち上げられて悲鳴を上げた。投げ下ろされたのは、女神が見下ろすクッションの上だ。すぐにサゲンの身体が目の前に迫ってきて手首を掴まれた。祭壇に置いた灯りがサゲンの頬を照らし、どこか苦しげなサゲンの顔に影を踊らせた。
「サゲン――」
「君を縛り付けておくべきだった。君の意志など無視して、力尽くで、孕ませてでも」
言うなり、サゲンはアルテミシアの唇を再び塞いだ。ドレスのスカートを捲り上げ、素肌に触れた。アルテミシアがびくりと身体を跳ねさせ、喉の奥で呻いた。
アルテミシアは身体をよじったが、両脚の間に入り込んだサゲンの膝と腰へ伸びてきた手が動きを阻んだ。
息もできないほどの口付けに、頭がぼうっとする。アルテミシアは灼けるほどの温度を身体中に感じ、その広い背にしがみ付き、食べられてしまいそうなほどのキスに舌を伸ばして応えた。ほとんど条件反射だ。自分の上でサゲンがベルトを外しているのにも気付かなかった。
サゲンの手が腿の内側へ入り込んで下着の紐を解き、臀部を掴んだ瞬間――
「――ッ!あ…!」
サゲンが奥まで強く押し入ってきた。無理矢理に押し広げられて痛いはずなのに、アルテミシアの身体は簡単にサゲンの熱を受け入れた。奥を突かれる痛みと一緒に、腹の奥から歓喜の波が押し寄せてくる。サゲンが獣のように熱い息を吐き、その息遣いが耳に触れ、アルテミシアの身体をふつふつと震わせた。
「誰がここに触れた。あの赤毛は、パオロか、ヴィンチェンゾか。それとも、他にもいるのか」
「なんで…ああ!」
「殺してやる。君に触れたやつを、全員」
答えることも疑問を口に出すことも叶わず、アルテミシアはただ声を上げた。怒りのままにサゲンの熱が身体の奥で暴れている。それなのに、サゲンの青灰色の瞳は燃えるようにアルテミシアを射竦め、どこか悲しそうに揺れた。
アルテミシアの内部が滴るほどに潤い、苦痛の混じった声が甘い喘ぎに変化したころ、サゲンは更なる征服欲に駆られて今度はアルテミシアの首筋に吸い付いた。
「んっ、あ!まって…」
「だめだ」
アルテミシアが痛みを感じて小さく呻いた。サゲンは首から胸元へと舌でなぞりながらその道筋に痕をつけた。
「だめ…」
「君は、俺のものだ!アルテミシア・ジュディット」
最奥を強く突くと、アルテミシアが眉を痛みに歪めて一際高い悲鳴を上げた。とてもやめてやれない。やめるつもりもない。サゲンは礼拝堂に音が響くほど激しく何度もアルテミシアを貫いた。
(はやく、話さなきゃ)
そういう思考とは裏腹に、身体は快楽を追うことしかできなくなった。怒りのままにひどくされても、サゲンはサゲンだ。どんなに荒っぽくされたところで、拒絶できるはずもない。アルテミシアは何度も与えられる衝撃に息を弾ませながら、やっとのことで口を開いた。
「そうだよ。わたし――」
アルテミシアは快楽に蕩けた瞳でサゲンの苦痛に満ちた目をまっすぐ見た。自分が去ることでどれだけこの男を苦しめたのか、やっと分かった気がした。
「あなたのだよ。あなただけの…。今までも、これからも、ずっと」
アルテミシアは頬を涙で濡らしながら、サゲンの首に腕を回して自分から唇を重ねた。この人に愛されるためなら何を差し出してもいい。もう一度優しく笑ってくれるなら。――
サゲンはアルテミシアの身体を骨が軋むほど強く抱き締め、その甘やかな唇を貪った。
「アルテミシア…」
自分を呼ぶサゲンの甘い声が耳に響く。アルテミシアはサゲンの律動に応え、脚をサゲンの腰に絡めて更に奥へと誘った。サゲンはアルテミシアの膝に腕を掛けて高く持ち上げ、猛獣が獲物を喰らい尽くすような激しさで蹂躙した。全身の神経が雷光のようにアルテミシアの身体を駆け回り、それに耐えるようにサゲンにしがみついた。腹の奥から痛いほどの衝撃が全身に広がり、激しい快楽と共に絶頂が近付いて来る。
「んっ、あ!サゲン…!」
アルテミシアが名前を呼んで悲鳴をあげ、身体を震わせてサゲンを激しく締め上げた。サゲンは堪らず歯の間から呻き、何度か奥の壁を強く叩き付けると、腰を震わせて激情を彼女の中に全て解き放った。
繋がったままサゲンがアルテミシアの身体を腕の中に閉じ込め、大きく呼吸をした。互いの心臓が布越しでもばくばくと暴れているのが分かる。
アルテミシアは肌に感じるサゲンの鼓動と身体の重みで、これが夢でないことを実感した。浅く短い息を続けるサゲンの顔をどこか夢見心地で眺めていると、サゲンがアルテミシアの乱れた結い髪を梳いて解き、額にキスをした。
「…手荒なことをした」
アルテミシアは顔を上げた。サゲンは眉間に皺を寄せ、険しい顔で奥歯を噛んでいる。腹の奥がまだ燃えるような熱を持って、まだ硬いままのサゲンを受け入れている。それだけで、歓びが涙となって溢れた。
「勝手にいなくなって、ごめんなさい。傷付けて…」
サゲンの無精髭の生えた頬に手を伸ばして触れると、サゲンはアルテミシアの手に自分の手を重ね、唇を重ねた。さっきとはまるで違う、優しいキスだった。
「君を連れて帰る。二度と離さない」
「うん…」
声が上擦った。胸が締め付けられて痛み、満たされていく。
「二度と離れない」
サゲンはそう囁いたアルテミシアの可憐な唇を塞いで身体を強く抱き締め、彼女の中に埋まったままの場所に血流が集中していくのを感じた。三か月も触れられずにいたのだ。一度では、とても満足できない。が、
「でも、お願い」
と懇願するようなアルテミシアの言葉で動くのを止めた。
「母さまと父さまの婚礼が終わるまで、待ってほしいの」
アルテミシアが言うと、サゲンが驚いて切れ長の目を大きく開いた。
「…何?」
「結婚するのは母さまと父さまだよ。さっき一緒にいたのは従弟のサーシャ。わたしたち、よく見ると結構似てるんだけど…」
「どういうことだ」
すっかり混乱したサゲンは、口をへの字にして困惑した。何がどうなっているのか、まったく分からない。
アルテミシアは思わず腹をひくひくさせて笑ったが、すぐに眉の下に影を落として口元から笑みを消した。
「…わたしが他の人と結婚するって思ったの?」
「ああ」
サゲンはきまりが悪そうに唇を引き結んだ。
「君が求婚者の一人と婚礼の準備をしていると聞いて、居ても立ってもいられなかった」
アルテミシアは「あっ」と思った。オアリスにいたはずのサゲンが何故そんなことを知っているのか、分かった気がする。
「あの栗売り」
イノイル人の行商など様々な国から雑多な流入があるトーレでは別段珍しくもないが、祭りで会ったあの栗売りは不思議なほど町に溶け込み、顔も思い出せない。いかにも‘鳩’には打って付けの男だ。離れている間も、サゲンはずっとアルテミシアのことを気に掛けていたのだ。
サゲンは頷いた。
「俺の鳩だ。君にオアリスから来たと知られて、うまく近付けなかったらしい」
「心配かけてごめん…。ごめんなさい」
サゲンはアルテミシアの目から再び溢れ始めた涙を指で拭ってやった。
「謝罪はもういい」
「――ありがとう。迎えに来てくれて」
アルテミシアがサゲンの顔を引き寄せて羽が触れるようなキスをした。オパールのように輝くハシバミ色の瞳がまっすぐサゲンを覗き込み、言葉よりも先に心を映した。
「あなたが大好き。愛してる。誰よりも大事なの。サゲン…」
堰を切ったようなアルテミシアの言葉に、サゲンはとても堪えられなくなった。
「あ…!」
アルテミシアが小さく叫んだ。自分の中で再び熱を持ち硬度を取り戻したサゲンが更に奥へと進んでくる。
「話は後でいい。今は、もう一度――」
サゲンはアルテミシアの身体を抱き、その存在を確かめるように隅々まで味わった。今度は、優しく、更に深く。女神の見下ろす礼拝堂で、二人は服を脱ぎ捨て、全身の肌を触れ合わせて熱を交換し合った。吐く息の温度や肌に浮いた汗のひとつひとつまでが愛おしかった。
アルテミシアの甘美な叫びと共にサゲンが果てた時には、既に空に白い月が掛かっていた。
「若い娘を誑かす不埒者になったような気分だ」
きっと今頃マルグレーテの家では娘が帰らないと言って騒ぎになっているだろう。特にロベルタには、ひどく睨まれそうだ。
アルテミシアはくすくす笑って、
「‘ような’じゃないでしょ。事実なんだから」
とサゲンをからかった。
サゲンがアルテミシアの背中のボタンを全て留め終えた後、アルテミシアはクッションの上に座り直してシャツを着るサゲンに向き合った。
「ここを出る前に、あなたにぜんぶ聞いて欲しい」
サゲンは無言でアルテミシアの肩に外套を掛けてやると、自分も彼女に向き合って座り直した。
「まずは、ロクサナのこと」
サゲンは頷いた。
「彼女、わたしと似てた。考え方も、境遇も、顔では笑いながら心に憎しみと怒りを抱えているところも。彼女がカノーナスだって気付いた時、わたしが同じ立場だったら、同じことができたって思った。ロクサナは怪物だよ。良心がない。自分の欲望と復讐のためにたくさんの命を踏みにじって、‘これも代償だ’って、平気な顔してた。それなのに、わたし…、ロクサナを心の底から責められなかった。わたしも同類だから。復讐のためなら、相手の死を平気で願えるような人間だから。ヒディンゲルに人生を呪われて、魂まで歪んだと思った」
アルテミシアは恥じたように目蓋を伏せた。
「最悪でしょ。弱くて汚い自分が嫌で堪らなくて、もう、あなたのそばにいられないって思ったの…」
「俺は、何があってもそばにいると言った。信頼に足りなかったか」
サゲンの眉の下が翳り、青灰色の瞳が暗くなった。アルテミシアはかぶりを振った。
「逆だよ。サゲンに赦されて、離れるなって言われたら、もう二度と離れられなくなる。わたしがわたしを嫌いなまま、サゲンはわたしが嫌いなわたしを愛すの。そんなのはどうしても我慢できなかった。サゲンを愛してるから…。愛する人の近くには、愛でいっぱいの善良な人がいてほしいと思ったの。わたしといたって、あなたの行く道を汚してしまうだけだって」
「それは君が決めることじゃない」
「でもわたしは、世界でいちばん大切な人のそばにいちばん嫌いな人間がいるのが耐えられなかったんだよ」
サゲンは苛立ちを吐き出すように短く溜め息を吐き、頭をくしゃくしゃと掻いた。
「君は、俺がこの世で最も愛するものを否定する気か。そんな権利があるとでも?」
サゲンはアルテミシアの目元へ手を伸ばし、涙を拭った。アルテミシアはその手を取り、自分の頬に引き寄せた。
「ドナがね」
と、鼻の頭を真っ赤にしたアルテミシアが重ねたサゲンの手に指を絡め、その手のひらに頬を擦り寄せた。
「自分が選び取ってきたものを誇れって。本質とか魂とか、善悪とか、不確かなものに目を奪われないで、自分が大事にしてきたものや愛してくれる人をいちばんに大切にしろって。母さまには、これから何を選ぶのかよく考えろって言われた。それから、母さまと父さまがまた巡り会って、家族が増えて、友達も。そしたら、自分が選んだ道がどんなに素晴らしいものに満ちていたかって、やっと分かったの。ちゃんと自分を許せた。わたしが望むものを選んでもいいんだって、気付いたんだ」
サゲンはアルテミシアの手を握り返し、その柔らかい手のひらにキスをした。
「それで、君は何を選ぶ」
曇り空の下の海のような色の瞳が、アルテミシアをその中に閉じ込めるような強さで見つめた。ついさっきまで触れ合っていた場所が再び熱を持ち、全身に広がっていく。
「…家族や友達がいても、どんなに素晴らしいもので満ち溢れていても、いちばん大切なものがないとだめなの。サゲン」
アルテミシアはサゲンのもう片方の手を握った。サゲンはアルテミシアの手を握り返すと、少しだけ不安そうに唇を結んでから、再び口を開いた。
「いいのか?俺は君が思うほど善良でも清廉でもない。君を取り戻すために、人を殺すこともできる男だ。事実、さっきも力尽くで君を奪った。君がもう一度俺を求めたら、俺は生涯君を縛りつけるぞ」
「もう逃げない。もう迷わないから、いいことも悪いことも、苦しいことも幸せなことも全部、あなたと一緒がいい。わたしのこと――」
許してくれる?とまで言えなかった。サゲンはアルテミシアの腰を抱き上げて自分の膝の上に座らせ、深く口付けをした。
「君を愛している」
青灰色の目の奥で炎が燃えている。アルテミシアの心臓が暴れ出した。熱く、甘い鼓動だった。
「君なしでは、人生に価値などない。アルテミシア・ジュディット――」
サゲンはアルテミシアの唇に自分の唇を重ね、頬から耳へと啄むようにキスをして互いの指を絡め、曇り空の下の海のような目を真っ直ぐアルテミシアに向けた。
「結婚してくれ。俺の妻に…」
「なる」
アルテミシアはぼろぼろと涙をこぼしながら何度も頷いた。目も鼻も痛いほどに熱い。これほど大切な瞬間にこれまでの人生でいちばんひどい顔をしているに違いないが、そんなことは気にもならなかった。
「サゲン・エメレンス、わたしの夫になってください」
「ああ――」
サゲンはアルテミシアをこれ以上ないほどに強く抱き締め、思わず真上の女神の像を見上げた。ここ数か月の地獄のような苦しみが嘘のようにすっかり消え去り、ただ柔らかく熱く信じがたいほどの幸福感が胸に満ちた。
世界の幸福のすべてを手に入れた気分だ。
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