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七十三、家族の娘 - una figlia in famiglia -
二人が神殿の外に出ると、アレイオンとデメトラが行儀よく石張りの床の外で草を食んでいた。
「君の馬か」
「うん。デメトラに似てたから選んだの。小柄だけどなかなかの駿馬だよ。人懐こいし」
サゲンはアルテミシアに手を貸してやりながら、波と花の刺繍のドレスに包まれたアルテミシアの身体を眺めた。白い生地が肌に沿い、流れるようなドレスの裾が夜の潮風に靡いている。
鎧に足を掛けたアルテミシアが、サゲンの視線に気付いて首を傾げた。
「よく似合っている。きれいだ」
サゲンが目を細めた瞬間、アルテミシアは顔が燃えるように熱くなり、動揺して足を鎧から踏み外した。
「おっと」
サゲンはアルテミシアを抱き留め、意図してか否か、その腰にするりと手を這わせた。ドレスの下の体温が上がったのを手のひらに感じ、サゲンの身体が再び熱を持った。あれほど激しく抱き合ったというのに、すぐに手を離さなければまたここで事に及んでしまいそうだ。サゲンはやむなくアルテミシアから手を離した。
「まだ聞くことがたくさんあるな」
坂道を下りながらサゲンが言った。アルテミシアの両親が結婚するという信じがたい話の経緯は、まだ聞いていない。
「きっとびっくりするよ」
「もう十分驚いてる」
「もっとだよ」
アルテミシアはニッと笑った。
マルグレーテの家の戸を叩いた二人を最初に待ち受けていたのは、背をまっすぐに伸ばして仁王立ちするドナと朗らかに微笑みながらどこか凄味を感じさせる佇まいのロベルタだった。
(二人いたか)
と、サゲンは予想が少しだけ外れたことを内心で惜しがった。
「お帰りなさいませ。髪を解いてしまいましたのね」
と、ドナが灰色の目を光らせ、アルテミシアに向かって険のある調子で言った。
「ごめん、ドナ。風が強くて」
アルテミシアがちょっと頬を赤らめながら白々と返答すると、何かを察したようにドナがその隣に視線を移した。
「お客様がいらっしゃるとは、存じませんでしたわ」
サゲンはドナの刺すような視線を身体中に受けながら、礼儀正しく頭を下げた。
「急な訪問をお許し願いたい、ジリアーニ夫人。まずはこの家の主に挨拶を――」
「本当に急ですわね、バルカ将軍」
サゲンは思わず口の端をひくりとさせた。この鷹のような目つきの女性が、アルテミシアを育てたのだ。じゃじゃ馬娘の躾に悪戦苦闘する養育係とあの手この手でそれから逃げ出そうとする少女の姿が思い浮かび、内心で可笑しく思った。
「ああ。ほら、やっぱり」
と、家の奥から聞こえてきたのは、マルグレーテの声だ。
「絶対に心配ないって言ったでしょう。サーシャから特徴を聞いたときに彼だってすぐに分かったわ」
「そういう問題じゃありませんのよ、グレタ」
ドナが奥に向かってぴしゃりと言ってサゲンを頭から足元まで品定めするように眺めていると、横からフワフワ頭のロベルタが前に出て、気まずそうに口を結んだアルテミシアの手を取り、その隣のサゲンにニコニコ微笑みかけた。
「さあさ、ミーシャにはお召し替え、あなた様にはお風呂が必要ですわね。奥へどうぞ」
ドナはまだ睨み足りないとばかりにロベルタを睨んだが、ふうっと息を吐いてサゲンのために道を開けた。
「かたじけない」
「レイ・シロトさんはお元気?バルカ将軍」
と、すれ違いざまにドナが尋ねた。アルテミシアがオアリスに来た当初、レイをドナの元へ遣わしてアルテミシアのことを調べさせたことがある。そのことをドナは言っているのだ。正直なところ、サゲンには答える材料がなかった。オアリスを発つまでの日々は、周囲のことを気にかける余裕など無く、ただ怒りと失望の中で過ごしていたからだ。
「ええ、国で職務に励んでいる」
と、サゲンが無表情のまま当たり障りのない返答をすると、ドナはちょっとだけ微笑んで「そうでしょうね」と言った。
「あの方は紳士的で礼儀正しくて、とても好感が持てます。大切になさいませ」
サゲンは、今度は苦笑いを隠そうともしなかった。ドナの言葉の端々に、嫁入り前の娘を暗くなるまで連れ出していたサゲンの無作法を責めるような棘が感じられる。育ての母への第一印象はどうやらよくないらしい。
(無理もない)
とサゲンが温かい家の中へ足を踏み入れたとき、前を歩いていたアルテミシアがくるりと振り向いて笑顔を見せた。これから悪戯をしようとしている子供のような顔だ。
「なんだ」
サゲンは笑った。彼女のこういう顔も久しぶりに見る。が、その後ろから現れた人物を見て、サゲンが表情を消した。顔が笑うことも驚くことも忘れてしまったようだった。
「やあ、初めまして」
そう声を掛けてきた人物は、ついこの間まで自分を診察していた軍医と同じ顔をしていた。
「バロー医師…?」
サゲンは口を開けたまま暫くその穏やかな顔を見つめ、怪訝そうに首を再び声を発した。
「――ではないな。……双子か」
「はは、アルテミシアより気付くのが早かったね。僕はジュード・リンドだ。君はサゲン・バルカ将軍だね」
ジュードが白い歯を見せて陽気に笑った。笑うと、ますますアルテミシアにそっくりだ。サゲンは驚きのあまり言葉を失ったが、不思議と合点がいった。バロー医師とアルテミシアの間に感じられた奇妙な絆はこれだったのだ。
「本当ならアルテミシアの父親として君を怒るべきなんだろうけど、父親になって日が浅いんだ。厳重注意ぐらいにしておこうかな」
「ああ、それは――」
アルテミシアが弁解しようと口を開いたところで、ドタドタと奥の階段を駆け下りてくる音が聞こえた。サーシャだ。婚礼用のジャケットは脱いでいるが、中のシャツとズボンはそのままだった。着替えも忘れるほど心配を掛けていたらしい。
「ミーシャ!おかえり。大丈夫だった?やっぱり君を置いて帰らない方がよかったんじゃないかって僕…」
と、サーシャは扉の前にいる大男を見て、半ば反射的に後ずさりした。
サゲンはつい数時間前に投げ飛ばした相手の姿を認めると、一歩足を引いて頭を下げた。
「先程はすまないことをした。非礼を詫びる」
「あっ、ああ…。はい…」
サーシャが予想外の謝罪に動揺して小さな声で控えめな返事をしたので、アルテミシアは思わず口をひくりとさせた。サゲンは次にジュードとドナの顔を交互に見ると、同じように頭を下げて詫びた。
「大切なご息女を帰さずに心配を掛けた」
ジュードは穏やかに笑ったが、ドナは相変わらず鷹のような目つきでサゲンをじろりと見た。が、引き結んだ口が少しだけ和らいでいるのがアルテミシアには分かった。
奥の食堂から黄色いドレスの腰から白いエプロンを巻いたマルグレーテが両手のミトンを外しながら現れて、サゲンににっこりと笑いかけた。
「無理もないわ。この子が何も言わずに消えちゃったんですもの。あんまり責めちゃかわいそうよ。ねえ?バルカ将軍」
サゲンは別段いじめられたなどと感じていないが、マルグレーテの本心でないことはすぐに分かった。ドナが満足げに頷いて見せたからだ。への字に結んだ口から「そんなに言うなら許して差し上げましょう」と聞こえてくる気がした。
「さ、ホラホラ!ミーシャはさっさとお召し替え、ひどい格好の将軍はお風呂!明日は朝から婚礼ですよ!」
ロベルタが声を励まし、パンパンと手を叩いた。
数日ぶりの入浴を終え、伸ばしっぱなしだった髭もすっかりきれいに剃り終えたサゲンがタイル張りの広くて快適な浴室を出ると、板張りの脱衣所で穏やかな笑みを浮かべたジュードが待ち受けていた。
サゲンは面喰らってぴたりと動きを止め、前を隠すよりも先に殆ど反射的に右肩に布を掛けて鎖骨の下を覆い隠した。全裸でその日のうちに知り合った人物と鉢合わせた上、あまつさえその娘との情事の痕跡を見られるのは、あまりにきまりが悪い。しかし、
「ああ」
と、サゲンはすぐに間違いに気付いた。相手の髪が短い。
「バロー医師」
サゲンはしてやられたというように苦笑した。
「やあ。暫くぶりだね」
クロードもちょっと笑って真新しい下着とシャツを掲げて見せた。
「ロベルタからあなたに渡すよう言われたよ。どうもあなたがここに現れるのを予想していたらしいね」
「ここの女性たちは何と言うか…」
「ああ、揃って有能だ」
クロードはサゲンに下着を手渡し、先を引き取って言った。
「そして物怖じしない」
下着を身に付けながらサゲンが付け足すと、クロードは声を上げて笑った。
「イノイルの海軍司令官にさえくどくど小言を食らわすくらいだからね。道理でうちの気の強い妻とも気が合うわけだよ。グレタとは特に、すっかり親友だ」
サゲンは一体この広い家に何人滞在しているのだろうと疑問に思った。ドナは近所に住んでいるから時々泊まりに来ることは聞いていたが、親族が家に集まっているという情報をもっと詳細に聞いておくべきだった。サゲンの顔を見て、クロードは苦笑した。
「びっくりしただろう」
「驚きすぎて、何から驚いたらいいのかわからない」
「ハハ、僕もそうだったよ」
サゲンがシャツを受け取ろうと手を伸ばしたが、クロードは笑うだけで手渡す素振りを見せず、ブーツを脱ぐために置かれた隅の椅子を指し示してサゲンに座るよう促した。
「着替えの前に診察をするよ。オアリスの医師に定期的に診せに来るよう言われたはずだけど、どうせあなたのことだからその後医者にかかっていないだろう?」
クロードに図星を指され、サゲンは苦虫を噛み潰したような顔をした。クロードはちょっと可笑しそうに笑った。
「ほら、あなたたちは似たもの同士だ」
「アルテミシアと?」
「そう、僕の姪。生物学的には、姪よりも娘と言ってもいいくらいに近しい存在だ」
クロードは椅子に腰掛けたサゲンの左肩の傷を調べ始めた。塞がりかけてはいるが、まだ完全ではない。傷の部分が少し赤く熱を持っている。
「だから、あなたにも自愛してもらわなくては困る。何日も入浴しないで傷を不衛生なまま放っておくと、今みたいにまた腫れてしまうからね。互いを監視するためにも、二人は一緒にいるべきだ」
と、クロードはぼやくような調子で言った。
「同感だ」
そう自嘲気味に呟いたサゲンに向かって、クロードは含み笑いをしながら着替えのシャツを差し出した。
「鎖骨の下は、見なかったことにしておいてあげよう。将軍」
サゲンは苦り切って布を肩から取り、クロードの手からシャツを引ったくった。
数日ぶりの入浴を終えて真新しい服に着替えたサゲンが食堂へ現れた時には、この家に滞在している者たち全員がそこに集まっていた。
少し色の違う木のテーブルを二台くっつけて無理矢理大きくした食卓にデザインのまちまちな椅子が十脚以上も並び、それぞれに従兄弟たちや叔父、叔母、そしてロベルタとドナが腰掛けて食後の紅茶やデザートを楽しんでいる。
アルテミシアは大勢の家族に囲まれて幸せそうに笑っていた。目の前には白身魚の料理やスープが二人分置かれている。すっかり遅くなった夕食をサゲンと一緒に取ろうと待っているらしい。
ふんわりと控えめにスカートが広がるオレンジ色のルメオのドレスを着て、肩甲骨のあたりまで伸びた髪を真っ直ぐに下ろし、いつもの美しいマルス語ではなくルメオ方言丸出しで話している姿は、女王の通詞でも航海士でもなく、紛れもなくこの幸せな家族の中で暮らすただの娘だった。
「お腹すいたでしょ?」
と、こちらに気付いて笑顔を見せたアルテミシアにサゲンは大股で近付いて行き、仲良く肩を並べて料理を用意する彼女の両親や紅茶を楽しんでいる親類の目も憚らずにアルテミシアの唇にキスをした。
アルテミシアとそれを見ていた従弟たちは顔を真っ赤にして固まり、ドナはとんでもないというように顔をしかめたが、サゲンは特に気にすることもなく奥の台所で複雑そうな表情を浮かべるジュードとちょっと呆れ顔のマルグレーテの方へ真っ直ぐ歩いて行き、恋人の両親に神妙な顔で向き合った。
「お話があります。お父上、お母上」
ジュードとマルグレーテは互いに顔を見合わせた後、サゲンに向き直って頷いた。
「あなたとアルテミシアの食事が済んでから、ゆっくり伺います」
「そうそう。まずは食事だ」
ジュードの声が裏返った。
夜半、サゲンはロベルタに案内された二階の隅にある客間を出、既に消灯された長い廊下を渡り、アルテミシアの寝室へ忍んで行った。ノックする前に扉が開いて、生成りの寝衣に羊毛の上着を羽織ったアルテミシアがサゲンを迎え入れた。
「足音で分かった」
そう言って嬉しそうに笑ったアルテミシアの桃色の唇に、サゲンは微笑み返して羽が触れるようなキスをした。
「ドナが怒るよ」
「怖くない」
「父さまと母さまも?」
「結婚の許しは得た。婚約者と同じ部屋で寝るのに問題はないだろう」
いくら開放的な気風のあるルメオでも婚前の男女が同衾するのを大っぴらに許容しているはずはないが、サゲンが堂々としらばっくれて見せたのでアルテミシアは思わず笑い出した。
「堅物のバルカ将軍がそんなこと言っていいの?」
「君の前ではただの男だ」
サゲンは唇を吊り上げてもう一度アルテミシアの唇を覆い、甘い吐息と柔らかい唇の感触を堪能した後で慈しむように頬を撫でた。
「…まだ悪夢は見るか」
「見るよ」
アルテミシアが伏し目がちに言った。
「ロクサナがわたしを同類だって詰ったり、気付いたら手に金色の髪の束を握っていたり、…あと、サゲンに振られたりする」
「他の二つが現実になったとしても、最後のが現実になることはあり得ない」
サゲンはにこりともせずに言うと、顔を赤くしたアルテミシアに向かってそれまで手に持っていた分厚い紙の束を見せた。黒い革紐で十字に括られている。
「それは?」
「鳩の収穫だ」
アルテミシアは紙の束を受け取って、巻かれていた形跡のあるいちばん上の古びた羊皮紙を見た。途端に、眉の下に暗い影が落ちた。
「読むか読まないかは、君に任せる。日を改めてもいい」
羊皮紙の隅に押された赤いオオカミの紋章を無言で眺めた後、アルテミシアは革紐を解いて、ちょっと不安そうにサゲンを見上げた。
「…今、読む。ちゃんと乗り越えてから明日を迎えたい」
サゲンは頷いた。彼女ならそうするだろうと思っていた。
「読む間、そばにいてくれる?」
「無論、終わった後もそばにいる」
アルテミシアがベッドに腰掛けると、サゲンもその隣に掛けた。
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