七十四、怪物の終焉 - Dì addio ai mostri -

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七十四、怪物の終焉 - Dì addio ai mostri -

 一枚目の羊皮紙は、ヒディンゲルの出生証明書だった。 「ラウル・ヘンゼル・ラインマー・ヒディンゲル。アミラ王国、イェネンケ生まれ――」 「アミラ東部の、山の麓にある小さな町だそうだ。ヒディンゲル家は代々ここを治める貴族だった」  サゲンは書類にない内容を補足してやった。これもアミラに潜入していた鳩が得た情報だ。  ヒディンゲルの生年月日に次いで、両親の名が記されている。コンラート・ラウル・ペテル・ヒディンゲル男爵とその妻クリスティーナが父母の名前であったらしい。南エマンシュナのヒディンゲル邸の地下で見つけた母親の肖像画の裏に記されていた「K・ヒディンゲル男爵夫人」という名前と一致する。  アルテミシアは大きく息を吸って口の中に込み上げてきた不快感を逃がそうとした。否応なしに、あの肖像画に貼り付けられた犠牲者の髪の記憶が生々しく蘇ってくる。  アルテミシアはサゲンの手をギュッと握って静かな色の目を見つめ、息を吐いた。 「…よし、次」  羊皮紙を束の一番後ろに回すと、次にあったのは美しい花の透かし模様が入った料紙だった。サゲンの細長い筆跡でその生い立ちや近所に住んでいた者、父親を知っていた者の証言などが記されている。  内容は、あまりにひどいものだ。  殆どが父親による母親とラウル・ヒディンゲル本人への虐待の記録であり、無力なヒディンゲル少年が異常者へと成長していく過程を記したものだった。  鳩は、かつてヒディンゲル家の主治医の助手を務めていたという老人に話を聞くことに成功していた。曰く、十歳にもならないヒディンゲルが身体中の至る所に痣や切り傷を作って母親と共に病院へ現れたことがあったという。それも一度や二度ではなく、母親は常に周囲を憚って口を閉ざし、彼女もまた、鞭で打たれたような痕がいくつも身体中に付いていたらしい。父親を除いて一家には周囲との付き合いがほとんどなく、コンラート・ヒディンゲル男爵を知っていた者はみな夫人は病弱で外に出ることができないという話を信じていた。  幼いラウル・ヒディンゲルにとっては、弱々しい母親の愛と牢獄のような古城で毎日のように繰り広げられる父親の暴力と支配が世界の全てだった。  当時ヒディンゲル家で女中をしていたという老婆は、「生きているだけで奇跡のようなものだった」と回顧した。「あの旦那様はまるで悪鬼そのもの。外では決してしなかったけれど、城の中では使用人の目を憚らずに奥方を殴り、‘売女’、‘奴隷’などと罵倒しました」と、その口から語られたことが報告書に記されている。当然のように、息子も同じ目に遭った。「奴隷の子は奴隷だから、お前には何の価値もない」と、毎日繰り返し罵られていたという。 「エサドも同じことを言ってた」  アルテミシアは口を開いた。実の息子でありながら奴隷として扱われてきたエサドは、アルテミシアが椅子に座るよう促しても座ろうとせず、奴隷は名乗ることができないと言って名前を言うことも拒絶していた。説得して椅子に座らせ名乗らせた後も、まるでそれが罪深いことであるかのように居心地悪そうにしていたのを、アルテミシアは覚えている。他の息子たちも同じだった。彼らの多くは最後まで自らを薄汚い奴隷だと繰り返すばかりで何の証言を得ることもできなかったが、それはかつてのヒディンゲル自身の姿だったのだろう。 「ヒディンゲルは繰り返した。父親と同じことを、自分の血を分けた息子に」  サゲンは不快そうに言った。  口数が少なくいつも何かに怯えているような子供だったヒディンゲルが異常性を見せ始めたのは、母親が死んだ頃のことだ。報告書の何枚目か後ろに、母親の死亡証明書が挟まっていた。 「…‘胸の病による’?」 「と書かれているが、恐らく偽装だろう。鳩が調べたところによれば、怪我は多かったが、持病はなかったそうだ。風邪以外の病気で母親が診察を受けた記録もない」   サゲンの言った通り、既に他界している主治医が当時書いた医療記録にも、助手の証言にも、母親の病気に関する事項は皆無だ。 「父親に殺された可能性が高い」  この時、ラウル・ヒディンゲルはまだ十二歳だった。  ヒディンゲルの少年時代に庭師の見習いとしてヒディンゲル家の城に出入りしていた老人は、この頃のヒディンゲルが動物を殺して庭に埋めるのを何度も目撃している。最初は昆虫の羽を毟ることから始まり、半年が経つ頃にはネズミや鳥などの小動物を痛めつけて殺すようになったという。「初めは母親が亡くなって感情の行き場がないのだろうと可哀想に思っていたが、翌年になって庭から切り刻まれた猫や犬の死体が出てきた時には、あの子供がとうとう恐ろしくなった」と、老人は振り返った。  父親は奥方を死なせてからというもの、ますます息子に暴力を振るうようになった。――が、それも四年後には終わった。父親が死亡したのだ。十六歳の冬のことだった。死亡証明書によれば、死因は階段からの転落死だという。 「これ、どう思う?」  アルテミシアが尋ねた。 「次のページを見てみろ」  サゲンの言う通りに紙をめくると、当時女中をしていた別の女性の証言が記されていた。  大きな物音を聞いた使用人たちが階下に集まってきた時、階段の上には痩せ細ったラウル・ヒディンゲル少年が無感情に佇み、階下に落ちた父親を見下ろしていた。父親の首に切り傷があったのを、その場にいた全員が見た。 「息子が殺したって一目瞭然なのに、使用人はみんな黙ってたの?」 「同情か、或いは恐怖かもしれない。ヒディンゲル家は小さなイェネンケでは王も同然だ。権力を使って周囲を黙らせることくらいは、如何に若造のヒディンゲルでも容易だっただろう。現にそれまで父親がそうしてきたのを近くで見ている」  父親の支配から解放され遺産と爵位を継承したラウル・ヒディンゲルは次第に商才を開花させ、国内外の不動産と主に陸路での貿易で富を増やしていった。父親の死から五年が経つ頃には、ヒディンゲル家の資産が三倍に増えている。  また、それまで誰も知らなかった魅力的な面も見せ始めた。アミラの社交界では、病弱で孤独だった高貴な少年が父親の不慮の死を期に勇敢にも立ち上がり、見事家の再興を成し遂げた、と、英雄のような扱いをされていたらしい。  青年期のヒディンゲルには、かつての痩せ細った弱々しい少年の影はなく、長身でスラリとした好青年であったようだ。事実、良家の子女たちが挙ってヒディンゲルに宛てて書いた熱烈なラブレターが、イェネンケの城に何通も残っていたらしい。 「これは?」  アルテミシアが尋ねたのは、女性の名前と年齢らしき数字、更にその隣の日付けが記された箇所だった。十四人分ある。 「年代は判然としないが、ヒディンゲルの城で‘病死した’女中の名とその時期だ」  アルテミシアは言葉を失った。この日付けと年齢が正確であるならば、健康であるはずの若い女中が年に一人は病を得て死亡していたことになる。彼女たちの死因が他にあることは、想像に難くない。ところが五十年ほど前の日付けを最後に、女中の名は記されていない。最後に死亡した女中の親が役所へ訴え出て裁判になったのだ。無論、ヒディンゲルはこれを権力でもって握り潰したが、これを機にヒディンゲルはイェネンケでの犯罪をやめたようだった。皮肉にもこのことがヒディンゲルを用心深い犯罪者へと成長させ、正体を巧く隠すことを学ばせることになった。  サゲンはヒディンゲルが商業拠点にしていた他の地域や国にも複数の鳩を飛ばしていた。次のページに挟まっていた、日に焼けた目の粗い紙にサゲンとは別の筆跡で記されている内容が彼らの報告だ。ヒディンゲルの別邸の周囲で、若い金髪の女が行方不明になり見つからなかったという事案が年に何件か起きている。数だけで見れば決して多くないが、発生した地域の狭さと時期を考えると、明らかな異常値だ。彼女たちに何が起きたのかは、想像がつく。 「こんなやつを野放しにしてたなんて、アミラの役人は一体何してたわけ!」  アルテミシアが遣る瀬なさに堪えきれなくなって声を荒げた。 「本物の異常者は自分を繕うのが巧い」  サゲンは静かな声音で言った。 「ヒディンゲルは知っていたんだ、父親と同じように。どうすれば他とは違う自分がこの世界に馴染んでいけるのか。どうすれば――」 「誰にも邪魔されずに自分の歪んだ欲求を満たせるのか?」  サゲンは頷いた。 「ラウル・ヒディンゲルを個人的に知っていた者はみな人柄を絶賛していた」  容姿だけでなく、話術で他人を喜ばせるのが巧みな青年だった。と、報告書にある。女性だけではなく同性の取り巻きも多く、友人同士で出資し合って新たな事業を始めるなど、家業以外の経済活動も活発に行っていたらしい記録が残っている。 「その上、これだ」  とサゲンが指し示したのは、この頃既に地元の名士として名を上げていたヒディンゲルが行方不明になった少女たちの捜索費用をその親族へ寄付したり、いかにも心のこもった慈善家らしい手紙を彼らに送ってありがたがられていたという箇所だった。  あまりのおぞましさに、アルテミシアが顎を震わせた。 「一体、何がしたかったの」 「今となっては憶測の域を出ないが――」  サゲンが短く溜め息をつきながら言った。 「家族が苦しむのを見たかったのかもしれないし、慈善的な人間を装って‘普通’になりたかったのかもしれない。或いは、愛されたかったのか」  アルテミシアは最後に見たヒディンゲルの屍のような姿を思い出した。かつての魅力的な青年実業家の影はなく、誰からも愛されず、誰も愛すことができず、誰にも気にかけられることもない、惨めに老いた大罪人の姿だ。 「でも全部、見せかけだけだった。中身はただの卑怯で臆病な、弱いやつ。あいつは――」  声に出してからアルテミシアは、ヒディンゲルのちっぽけさに気付いた。そして、初めて理解した気がした。何故、ヒディンゲルが母親と容姿の似た女たちを憎い父親と同じように拷問し、息子たちを奴隷として扱っていたのか。 「…罰してたんだ。女たちと息子たちを虐待することで、父親の支配から逃げられなかった母親と自分を」  ――あいつはただの弱い人間だ。一体今まで何を恐れていたのだろう。 「なんて、愚かで、弱い…」 「そう。ただの人間だ」  サゲンが言った。 「ロクサーヌ・セガンも同じ」 「それがロクサナの本名?」  サゲンは無言で頷いて書類の束の最後の数枚をアルテミシアの手から抜き取り、見せてやった。ヒディンゲルに関するものと比べて情報はかなり少なく、書類は五枚にも満たない。社会的地位や海賊に売られた歳を考えれば情報の少なさも当然だ。  が、アルテミシアには充分だった。アルテミシアはサゲンでない者の筆跡で書かれたその報告を無言で読んだ。  ロクサーヌ・セガンは三十五年前にエマンシュナ南西部の街で宝石商を営む両親のもとに生まれ、程なく実父を亡くしている。役所の記録によれば、彼女が五歳の時に母親が近所に住む農家の末息子を婿として迎え入れ、その後、みるみるうちに身代を削っていた。家長が家業の経営を悪化させる一方で、まだ十代前半の娘だったロクサーヌと母親が団結してなんとか資金繰りをし、母親の主導の下で新規事業などを始めたお陰で何年か持ちこたえていたが、養父が博打に大金を注ぎ込んでしまったために破綻している。  その後ロクサーヌの名は、「海に転落し死亡、遺体不明」という十四歳の記録を最後に現れない。ロクサーヌを海賊に売った養父が役所にそう届けたのだろう。アルテミシアがロクサナから聞かされた内容と一致していた。アルテミシアが目を留めたのは、娘が海賊に売られた後の母親の行動に関する箇所だった。  母親は夫から娘が海に落ちたと聞かされた後、必死で娘を探そうとしていた。役所に何度も訴え出て、遺体が見つかっていないのだからまだ生きているかも知れないと言って毎日のように役人や警察隊を連れて海へ出ていた。彼女を不憫に思った地元の人々が有志で捜索隊を集め、何か月も海や周辺の浜や港を探し回ったが遂に見つからず、一年後に捜索は完全に打ち切られた。母親は心を病み、夫をひどく憎むようになり、ついには身体を売って手に入れた金で人を雇ってまで娘を探させたが、四年後に失意のまま病没した。死因は、梅毒であったらしい。 「かわいそうなロクサナ」  サゲンはアルテミシアがぽつりと呟くのを聞いた。 「こんなになってまでお母さんが自分を探してるって、知らなかったんだね」  ロクサナの口から出てきた言葉は、養父や海賊たちへの憎しみばかりで、母親のことは殆ど語られなかった。怒りと憎しみを抱え続け、母親への愛を忘れ、ついには良心を喪ってしまったのかも知れない。 「…君はロクサナと自分が似ていると言っていたが」  サゲンが口を開いた。 「俺には対極に見えた。例え君がロクサナと同じ状況に置かれたとしても、彼女と同じ道を選ぶことは決してないだろう。これは推測ではなく、確信だ。だから、君がロクサナに自分を重ねる理由が理解できなかった」 「どうして、確信できるの?」 「君が強くて善良な女性だからだ。少々向こう見ずなところはあるが、自分より他者の命を慮り、危険を顧みずに救い出そうとする勇気がある。敵にさえ慈悲をかける優しさも。何より、人を愛することを知っている」  サゲンは意味ありげに微笑んでアルテミシアの前髪を分け、額にキスをした。 「ロクサナはそういう君に憧れたんじゃないかと思う」  アルテミシアはちょっと首を傾げた。 「わたしを?同じだって言ったのはあっちなのに」 「善良で美しい心を持った君を、自分と同じところに堕としたかったのかもしれないな。或いは、君と自分を同一視することで君のようになりたかったのかもしれない」  アルテミシアはサゲンを見上げると、ちょっと不安そうに下唇を噛んでから口を開いた。 「…カノーナスをちょっと可哀想だって思うのは、女王の通詞としては失格かな」 「犯した罪で全てを測るには、人間は複雑すぎる」  サゲンがアルテミシアの頭をくしゃっと撫でた。 「多角的に捉えろってこと?」  サゲンはちょっと笑って、「そうだ」と言った。 「殆どの人間が、罪人を犯した罪と同一視する。一人くらい罪と人を分けて見てやれる人間がいてもいい」  曇り空の下の海のような瞳が細くなるのを、アルテミシアは見上げた。 「君はそのままでいい」  アルテミシアはサゲンの肩に頭を預け、静かに涙を流した。これがロクサナのために流す最後の涙だ。 (さようなら、ロクサナ)  心の中でロクサナに別れを告げ、紙の束をサゲンの手に戻した。
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