七十五、帰る場所 - la Casa -

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七十五、帰る場所 - la Casa -

 サゲンは書類の束を黒い革紐で十字に巻いて寝室の隅の低い箪笥の上に置くと、ベッドに腰掛けるアルテミシアの隣へ戻ってきてその細い首に優しく唇で触れた。 「サゲンはずっとこういうやつらと戦ってきたんだよね」 「そうだな。今回のはかなり特殊だったが」 「オアリスに戻ったら、以前の作戦の記録も見たい。今後のためになるから」  アルテミシアがサゲンの手を握った。サゲンはアルテミシアのハシバミ色の瞳をじっと見つめた後、手を強く握り返した。 「本当にいいのか?俺と一緒にオアリスへ帰って職務に戻れば、また悪意に満ちた世界に足を踏み入れることになる」 「さっきは連れて帰るって言ったのに、気が変わったの?」  アルテミシアが眉尻を下げると、サゲンは柄にもなく慌てた様子で言った。 「そうじゃない。ただ――」  サゲンは一瞬所在なげに視線を泳がせた後、今度は不安そうにアルテミシアを見て頬をそっと撫でた。 「今日初めて、君をこの家族から奪っていくことに後ろめたさを感じた」 「今更?」 「そう、今更だ」 「どうして急に」 「今日、家族と幸せに過ごす君を見て思った。俺とオアリスにいる限りは、任務から完全に離れることはできない。また海賊が現れれば君は交渉役として同行することになる。例えば俺が来るなと言っても君は聞かないだろう」  アルテミシアは肩を竦めた。「当然でしょ」と返したつもりだ。サゲンは苦笑した。  だから一瞬でも躊躇してしまったのだ。自分が命よりも求めてやまないアルテミシア・ジュディットは、家族と共にここにいたほうが穏やかで幸せな人生を送ることができるのではないかと。 「それでも俺は君を手放せない」  それこそがアルテミシアを自己嫌悪に陥らせた「歪み」なのではないか。  しかし、アルテミシアは「なんだぁ」と安堵の溜め息を漏らしながらベッドに倒れ込んだ。 「お風呂に入って冷静になったらやっぱりそれほど好きじゃなかったなんて言われるのかと思った」  アルテミシアが笑っていると、真上にサゲンのひどく不機嫌な顔が迫ってきた。眉間に深く皺を寄せ、唇を引き結んでいる。 「この期に及んで、まだ教育が必要か。いやというほど身体に教え込んだと思ったが」  まったく不本意だ。まさかアルテミシアにまだそんな疑いを持つ余地があったとは。 「じょ、冗談です――」  サゲンはアルテミシアの言葉を遮って唇を重ねた。顎をつまんで開いた唇の隙間から舌を挿し入れて上顎をなぞり、アルテミシアが気持ちよさそうに唸るのを聞きながら舌を吸った。 「まだ必要か?」  唇が触れる距離でサゲンが低く囁いた。 「うん…」  アルテミシアはサゲンの首に腕を巻き付けて引き寄せ、自ら舌をサゲンの口へ挿し入れた。サゲンが唸って更に深い場所を求め、蹂躙してくる。 「ねえ、サゲン」  アルテミシアが唇を浮かせて囁いた。 「わたし、家族と過ごす時間も、この家もこの町も大好きだよ。ここに来なかったらずっと自分が嫌いなままだったかもしれない。でも――」  アルテミシアは穏やかに微笑んだサゲンの頬を両手で引き寄せ、唇に触れるだけのキスをした。 「あなたがわたしの帰る場所だから」  サゲンがアルテミシアの目を真っ直ぐ見つめると、自分の言葉に照れたのか、アルテミシアは頬をみるみる染めてついに目を逸らした。 「こら」  サゲンがアルテミシアの顔を両手で挟んで正面を向かせた途端、アルテミシアはサッとすり抜けてサゲンの身体に抱きつき、その胸に頭を押し付けて顔をすっかり隠してしまった。 「だから、サゲンの世界をわたしにも分けて。もう、二度と迷わないから」  アルテミシアは熱くなった頬をサゲンのシャツに押し付けながらうるさくなった心臓を落ち着かせようと深く呼吸した。が、その間、サゲンは微動だにせず黙ったままでいる。  なんとなく不安になったアルテミシアがそろそろと顔を上げると、眉間に皺を寄せて苦々しげに奥歯を噛んでいるサゲンと目が合った。 「…だめだ」 「えっ」 「今日はもう休ませてやるつもりだったが…」  サゲンは苦悶するように言って身体を折り重ね、鼻をすり寄せて唇を重ねた。 「んん…待っ…」 「無理だ。止められない」  サゲンは再びアルテミシアの唇を覆い隠して胸元の紐を解き、開いた襟から手を滑り込ませて素肌に触れた。 「知らないだろう。会えない間、俺がどれだけ君を求めていたか」  サゲンの手が胸を押し上げるように触れた瞬間、アルテミシアの肌がぴくりと跳ねた。触れただけでアルテミシアの激しい鼓動が伝わってくる。 「ここ(・・)に――」 「あ…!」  サゲンの指が乱れた寝衣の裾から腿へと這い上がって秘所に触れた。 「溺れる瞬間をどれほど夢想したと思う」  既に内側が濡れて熱くなっている。そっとそこを撫でると、アルテミシアが下唇を噛み、眉を歪めて喉の奥で呻いた。  神殿で襲ったのは想定外だった。本当なら彼女をあんなふうに感情の捌け口にするような行為ではなく、甘く口説いて誘惑し、ベッドに誘い込んで隅々まで味わい尽くすはずだったのだ。こんなふうに。―― 「っ、あ!」  アルテミシアが悲鳴をあげた。暴かれた乳房の先をサゲンの舌が絡めとるように蠢き、身体の中心をサゲンの指が円を描くような滑らかさで弄んでいる。 「まだ足りない」  アルテミシアはサゲンの掠れた声を聞きながら迫り来る快楽の波を受け止めるように浅く熱い呼吸を繰り返して胸を上下させ、青灰色の瞳を見上げた。 「君が全部欲しい。もっと」  サゲンの燃えるような視線がアルテミシアの理性を焼き払った。サゲンの両手が腰を掴み、短い栗色の髪がアルテミシアの鳩尾を通って下っていく。サゲンの唇が肌を啄みながら臍へと下り、指が腿や脛へ愛撫を繰り返して秘所に再び到達した。サゲンは中指を奥へ埋め、その上部に口付けした。 「ああっ――!」  アルテミシアが悶えるように腰を反らせた。サゲンの指と舌から繰り出される快感に息を弾ませ、脚の間にあるサゲンの短い髪にしがみ付いた。サゲンの指が奥を突いてその入り口の上部を強く吸った瞬間、アルテミシアの身体が雷に打たれたようになり、高く長い悲鳴を上げて力を失った。  サゲンは身体を起こして汗の浮いたアルテミシアの肌を手のひらで愛撫しながら身体中にちょんちょんとキスを繰り返し、立ち上がった胸の先端を吸いながら舌で弄び、更に鎖骨、首へと唇で触れ、胸を手のひらで覆いながら甘い息遣いを繰り返す唇を塞いで嬌声を呑み込んだ。 「わたしにもちょうだい…」  熱に浮かされたようにアルテミシアが言った。  サゲンは隙間もないほどに身体をぴったりとくっつけてもう一度アルテミシアの唇を貪り、歓喜に震えるその身体の奥に入って行った。  ――朝。目蓋の奥で鈍い太陽の光を感じ、サゲンは目を覚ました。最初に見たものは、自分の腕に頭を預けて安らかに寝息を立てているアルテミシアだ。 (ああ)  身体中を締め付けるほどの幸福感がサゲンの胸に満ちた。痺れて感覚の鈍くなった腕を曲げてアルテミシアの頭をすっぽりと覆い、強く抱き締めた。 「んん…」  アルテミシアは愛らしい掠れ声で唸ったが、もそもそと頭の位置を直してサゲンの胸に頬をこすりつけ、またしても寝息を立て始めた。 (無理をさせたか)  普段なら少しの刺激で目をぱっちり開けてすぐに行動を始めるはずだが、昨夜はさすがに疲れさせてしまったらしい。そういうサゲンも何日も休みなくオアリスから駆けてきたせいで疲労の限界に達していたから、アルテミシアの奥で一度果てた後はバタリとベッドに倒れ込み、それからフツと意識をなくしたのだった。それでも朝に弱いサゲンが太陽が昇り切る前に目を覚ました理由は、ずいぶん久しぶりにベッドで熟睡できたことと、いま一つ、アルテミシアが隣にいる幸福感と高揚感だ。  毛布をめくってみると、アルテミシアの胸や腹にいくつも花びらを散らしたような痕が残っていた。求めても求めても足りない。我ながら凄まじい独占欲だ。なけなしの理性でもってドレスに隠れる場所を選べたのは、奇跡に近い。 「しかし君が可愛すぎるのがいけない」  サゲンは独り言のように小さく呟いてアルテミシアの鼻をチョンとつまんだ。 「ンあ…、なに?」 「まだ寝ていていいのか?ご両親の婚礼だろう」 「ん、おきる…」  アルテミシアは薄目を開けてぼんやりと返事をしたが、目蓋を再び閉じてサゲンの腕の中に収まった。  暫くすると廊下の向こうや階下で他の家族が慌ただしく行動を始める音が聞こえてきた。そろそろ服を着てこの部屋を出て行かないとパタロアの二の舞どころではなくなる。何しろロベルタより何倍も厳しい鷹のようなドナが同じ家に泊まっているのだ。しかし、サゲンは動かなかった。  腕の上にアルテミシアの頭があるからというだけではない。もう少しこの幸せな温度を直に感じていたかったからだ。  サゲンは顔を隠しているアルテミシアの髪を横に払って耳に掛け、額にキスをしてその寝顔を眺めた。  アルテミシアが目蓋を開いたのは、それから十分後のことだった。階下から自分を呼ぶ声が聞こえたが、無意識の内に聞き流していた。目の前には機嫌よく目を細めたサゲンの秀麗な顔がある。サゲンは髪を弄ぶように撫でながらこちらをじっと見つめていた。夢の続きかと思った。内容は覚えていないが、ずっとサゲンの幸せな夢を見ていた気がする。アルテミシアは急に恥ずかしくなって頭を起こし、手の甲で口を拭って涎が出ていないか確認した。 「さっき俺が拭いておいたから大丈夫だ」  とサゲンがにやりとしたので、アルテミシアは顔を真っ赤にした。 「ハハ、冗談だ」 「ちょっと!」  怒ったアルテミシアが振り上げた手をサゲンがいとも簡単に掴み、枕に押し付けて唇を塞いだ。掴んだ手が次第に力を失い、くぐもった声で抗議していたアルテミシアが心地良さそうに唸り始めた頃、サゲンは唇を開放してやった。ハシバミ色の瞳が潤んで顔が耳まで赤く染まっている。 「誰かが君を呼んでいるぞ」  サゲンが官能的な掠れ声で言った。  先程階下から聞こえていた声が、階段を上がる足音と共にだんだんと近づいて来る。 「シャロンだ」  と言った瞬間、シャロンがアルテミシアの寝室の扉をドンドンと叩いた。 「ちょっとぉ、早く起きなさいよ!今日は早くから準備があるからって朝食はヴィンスのうちで食べることになってたでしょ!忘れたの?もうみんな集まってるわよ!」 「あっ、そうだった」  アルテミシアが敏捷に跳ね起きて床に落ちた下着を拾い、扉の方へ声を掛けた。 「今着替えるから待ってて」 「何言ってんのよ」  シャロンが扉の向こうから呆れ声で言った。 「あんたの着替えは客間に掛かってるわよ。婚礼用のドレスをそのまま着ていかないと、間に合わないわ」 (そうだった)  昨日ロベルタが皺になったとか何とか文句を言って誰も使っていない客間にドレスを掛けて皺を伸ばしていたことを、アルテミシアは思い出した。 「もうみんな出て行ったから、そのまま出て来ても…」  アルテミシアが「あっ」と思った時には寝室の扉が開いて、白い糸で花が刺繍された芥子色のドレスの裾が入ってきていた。 「あ…」  辛うじて寝衣を拾って前を隠したアルテミシアがシャロンの目の前に飛び出して阻止しようとしたが、遅かった。  シャロンは乱れた奥のベッドに頬杖をついて寝そべりながら可笑しそうに笑っている男の精悍な上半身を見るなり、ヒャッと声にならない叫びを上げて両手で目を隠した。 「なっ!なっ、なに、なに、なん…!」 「ああああとで紹介するから!」  アルテミシアが片手で寝衣を押さえ、もう片方の手でわたわたとシャロンを閉め出そうとしたが、シャロンは動こうとしない。 「シャロン?」  アルテミシアがシャロンの顔を覗き込むと、顔を覆った指の間から深いグリーンの目が大きく開き、サゲンの姿に釘付けになっている。 「…あんたの彼氏、凄い身体。顔もいい。…お色気司令官…」  シャロンがアルテミシアにしか聞こえない程度の小さな声で呟いた。アルテミシアはなんだか急にもやもやした気分になった。 「ちょっと、やめて。見ないで」 「嫉妬すんじゃないわよ、けち」  シャロンがそう吐き捨てて出ていった後、サゲンが面白がって訊いた。 「嫉妬?」  アルテミシアはベッドの脇に落ちていたシャツを拾ってサゲンに押し付け、むうっと赤い頬を膨らませた。 「サゲンまで」 「嫉妬したのか?」  サゲンに腕を引かれ、アルテミシアはその膝の上に倒れた。 「…もしかして嫉妬させるためにわざと見せたんじゃないよね?」 「まさか。裸のままシャツを拾いに行くわけにいかないだろう」  アルテミシアは機嫌良く微笑むサゲンを胡乱げに見上げると、「言っておくけど」と口を開いた。 「もしわたしが嫉妬深かったら、あの薔薇の香水の匂いがするきれいな紙にあなたが書いた報告書はその場で破り捨ててるから」  これはサゲンにとって予想外だった。アルテミシアはサゲンが鳩の報告をリュディヴィーヌの部屋で聞いたことに気付いていたのだ。が、サゲンは苦り切るどころかますます笑みを広げた。 「では俺の愛を信頼しているということだな」  アルテミシアは言葉を失い、膨れっ面のままゆっくり降りてきた唇を受け止めた。同時に、この機を狙っていたかのように、外から扉をドンドンと叩く音が響いた。 「いちゃついてないで、早くしてよね!」  シャロンの言葉を聞いた途端、サゲンが笑い出した。 「いい友人ができたようだ」 「うん。すごく頼りになるんだ」  アルテミシアも膨れるのをやめてニヤリと笑った。  ジンガレリ家の居間は朝からお祭り騒ぎだった。ただでさえ大家族のジンガレリ家にリンド夫妻とその親類が集まったのだ。みな盛装で、婚礼の直前ということもあって浮かれている。しかし、さすがに座る場所が足りなかったためにヴィンチェンゾを始めとする子供たちは庭のテーブルにクロスを敷いて焼きたてのパンとジャムや紅茶を広げた。サーシャとイヴは人懐こいジンガレリ家の子供たちにすっかり馴染み、丘で転がるのが好きなヴィンチェンゾの妹はイヴのスケッチブックに興味津々で、あれこれとイヴに話しかけていた。  ここに、シャロンに伴われてアルテミシアとサゲンが加わった。アルテミシアは髪を下ろしたまま昨日と同じ花嫁介添人のドレスを着て、サゲンはシャツにズボンだけの平服でいる。 「よお、ミーシャ。今日も――」  と、ヴィンチェンゾはアルテミシアの隣に立つサゲンの姿を見て笑みを消し、言葉を切った。サゲンの鋭い視線が槍のように刺さり、思わずヴィンチェンゾはたじろいだ。 「言いたいことはわかるわよ、ヴィンス。あんたあれには勝てないわ」  シャロンが慰めるように肩を叩くと、ヴィンチェンゾは苦々しげにシャロンを横目で睨んだ。 「サゲン・バルカだ」  サゲンがヴィンチェンゾに片手を差し出した。 「ああ、あんたの話はミーシャから聞いてるよ。俺はヴィンチェンゾ・ジンガレリ」  ヴィンチェンゾもサゲンの手を握って行儀良く挨拶をした。 「婚約者が世話になっていると聞いた。感謝する」  サゲンがそう言ってヴィンチェンゾに向けて発した僅かな敵意に、アルテミシアは気付かなかった。が、シャロンは違う。ニヤニヤしながらアルテミシアの脇を肘でちょこちょこと小突いて「やるう〜」と揶揄った。アルテミシアはわけがわからず「はあ?」と困惑した。 「あっ、バルカさん」  と、庭のテーブルでパンを頬張っているイヴが手を挙げてサゲンを呼んだ。その隣のサーシャは投げ飛ばされたことをまだ根に持っているのか、なるべく視線を合わせないようにしているが、意外にもあまり社交的でないイヴがサゲンを気に入ったらしい。 「ロベルタさんが衣装を合わせるから二階の客間に来いって言ってるよ」  アルテミシアとサゲンは含み笑いをしながら顔を見合わせた。 「もしかして、用意してたのかな?」 「先見の明がある」  二人はロベルタの才能に舌を巻いた。
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