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七、譲歩 - la concessione -
イグリは、一種の居心地の悪さを感じながら馬を駆った。昨日会ったばかりの新しい外交官見習いを前に乗せているのだ。あまつさえ彼女はむっつりと押し黙って一言も発しない。
輝くようなブロンドの髪と夏空のような青い瞳、陽に焼けて精悍な体つきをしているイグリは、女官たちからの人気も高く女性の扱いは巧い方だと自負している。事実、少年の頃から女性に困ったことがない。情熱的な一夜の相手を探すのも、身持ちの堅い初心な娘をその気にさせるのも簡単だ。ところが、風変わりで不機嫌なルメオ人の女性を相手にしては、何を話したらいいのか考えあぐねていた。
正直、アルテミシアに興味はある。日に焼けていて女性にしては背が高く、髪も短いから、一見少年のようにも見えるが、顔立ちは間違いなく魅力的だ。様々な色が複雑に混ざり合ったハシバミ色の瞳は意思の強さや知性の高さを窺わせるし、何より赤みがかった金色の髪が美しいと思った。こういう女性に社交場で会えば口説き文句のひとつも言うだろうが、目の前の女性は流行のドレスや社交界の噂話などには興味を示しそうもない。仕方がないので当たり障りなく天気の話でもしてみようかと思ったところで、先にアルテミシアが口を開いた。
「ごめん」
イグリはきょとんとした。
「どうして謝るんだ?」
「仕事の邪魔をしてしまったし、強引に乗せてもらってしまったから。…実は、バルカ将軍とちょっとした言い合いをして」
「気にしないでくれ。今日は厩番だったから、丁度よかったよ。それにしても驚いたなあ。あの上官と言い合いを?」
本当に意外に思った。イグリにとっては、サゲンは命令を聞く相手であって、言い合いをする相手ではない。
「まあ…うん。厳密には手も出したけど」
とアルテミシアが訂正したから、イグリはぷっと吹き出した。目の前の女性は、相手の肩書きや家柄や迫力ある見た目なんかに影響されることがないらしい。
「まあ、仕方ないな。あの方は女性に対して少し考えが足りないところがあるから」
「そう思う?」
それどころか、いろいろと知っている。サゲンとは、イグリが十歳のときに王立士官校へ入った時からの付き合いだ。もっとも、当時は生徒と教官という立場だったが。
「でも、俺らにとっては素晴らしい上官さ」
イグリの声は誇りに満ちていた。部下に慕われているのは、アルテミシアの目にも明白だ。そうでなければ、屋敷の清掃も食事もあんなに行き届いてはいないだろう。
「そうみたいね」
馬が王城の門前へ着いた。アルテミシアがすっかり慣れた様子で着地すると、イグリが声をかけた。
「帰りも必要なら呼べよ。夕方ならたぶん鍛錬場にいるから」
「ありがとう」
アルテミシアは笑って門の奥へ入っていった。
昼過ぎにイサ・アンナの執務室を訪ねたアルテミシアは、他愛もない世間話の後、口を尖らせて不満をこぼした。
「あの人ちょっとお喋りじゃないですか?軍人のくせに…」
イサ・アンナは目を見開いて、書類のかわりにアルテミシアの顔をまじまじと見た。
「何かあったのか」
と言い終わるよりも先にケタケタと笑い出した。
「はっ…はは、すまない。‘軍人のくせに’とは…!それにしてもあの堅物のサゲン・エメレンスがそのようなことを言われるとはね」
「おかしいですか」
「おかしいなんてもんじゃないさ」
イサ・アンナは笑い涙を拭った。
「詮索は嫌いです」
「だろうな」
机の中央に積み上げられた書類の山を隅に退かし、イサ・アンナはアルテミシアに向き直った。まだ笑いが治まらず、さくらんぼ色の唇をひくひくさせている。
「わたしに免じて許してやってくれ。あれは我が臣下の中でも特に忠実な男だから、あの男なりにそなたを見極めようとしているのであろう」
と、イサ・アンナは軽い調子で言ったが、多少責任を感じないこともない。アルテミシアをサゲンの家に住まわせたのは、他でもないイサ・アンナだ。
「まあ、嫌になったら別の屋敷を探せばよい」
「はあ」
アルテミシアは是とも非ともつかない返事をした。嫌かと言われると、実際はそうでもないのだ。不思議と屋敷の居心地は悪くない。それどころか、あの簡素さは好みにピッタリ合う。
(特にあのお風呂…)
新しい物件を探すのであれば、あれ以上の風呂がある家でなければならない。これは譲れないところだ。
それに、女王が言うことも道理だ。自分の経歴が特異なのは重々自覚している。上流階級の子女が良縁に恵まれるために通う大学で、言語のほか、青年たちに混ざり軍学の講義を受けたり造船の実習をしたりしたのだ。無論、前例はない。師である若きアリアーヌ・クレテ女史はユルクス大学では女学生棟の語学教師だったが、名士であった亡き領主の娘という立場とコネを存分に利用し、特別にアルテミシアが男子学生と同じ授業を受ける許可を貰ってくれた。それほどまでにアルテミシアは熱烈だった。そして、卒業試験に首席で合格したその夜、大学に入学した時と同じくトランクひとつを抱えて街を出、翌日の夕方にはバルバリーゴの船に乗っていた。持っていたドレスは売り払い、船乗りにふさわしい服と靴と護身用の剣を買った。多くの子女たちが縁組を終えて結婚する時期を、自慢の髪を短く切って白い肌を太陽と潮風に晒し、粗野な男たちと航海術や剣術の鍛錬に明け暮れて過ごした。
アルテミシアは自分にぴったりの道だと思うが、教養ある貴族の娘が船乗りになり体術に長けているなど、他人から見れば奇妙この上ないことだ。しかも、詳しい経緯を話すことを拒んでいる。海軍司令官であるサゲンが不信感を持つのは仕方がない。ましてや、自分の屋敷に置こうと言うのだから、あれこれ質問されて当然というものだ。氏素性などあってないような者たちが大勢乗り合わせる船とは、わけが違う。
「別の屋敷を手配させるか」
あれこれと考えているところへ女王がそう言ったから、アルテミシアは「いえ」と慌てて答えた。
「イサ・アンナ様のおっしゃることも道理です。もう少しわたしも譲歩します」
言ってすぐ、女王が不敵な笑みを浮かべていることに気づいた。してやられた。最初から新居を探させる肚などなかったに違いない。アルテミシアは悔しさともおかしさともつかず、思わず
「ふっ」
と笑みをこぼした。彼女が主君と決めた女性は、人を思い通りに操るのが上手いらしい。
サゲンは軍の訓練を経て退屈な書類仕事に追われる一日を過ごし、夕刻に鍛錬場へと向かった。朝のあの様子では異国の外交官どのは大人しく同じ馬には乗りたがらないだろうが、彼女のことは女王から一任されている。放置して帰るわけにもいかなかった。
城内四階にある執務室から石造りの廊下を進んでいる間、サゲンは今朝のアルテミシアの反応について思いを巡らせていた。
最初はルメオか他の国の間諜かもしれないと思った。事実、イノイルでもただの船乗りや商人として様々な国で活動している間諜がいる。大陸の西方と南方の海の情勢が芳しくない今、どの国でも情報収集の一環として他国内に潜り込める者を多く放っているから、別段珍しい話ではない。しかも、彼女は異彩を放っている。言葉遣いはともかく、一語一語の美しい発音やお嬢様と呼んだ時の反応から考えれば上流階級の出身であるのは間違いない。昨夜の夕食の時も、自分の国とは勝手が多少違うはずなのにマナーは完璧だった。しかし、動き方は猫のように俊敏で無駄がなく、明らかに訓練されたものだ。意外にも馬に乗ったことがないと言ったが、教えたらすぐにコツをつかんだ。海上で海賊と戦うために鍛えられたのだろうが、あのよく染み付いた身のこなしは長じてからではなく幼い頃から身についたものだろうと推測できる。それだけに、謎が多い。ただし――
(間諜には目立ちすぎる)
間諜を務めるのであれば、常に周囲に溶け込んでいなければならない。その点、アルテミシア・リンドは人目を引く。少年の格好をして他の船乗り同様に粗野な言葉遣いをしても、聡明さや育ちの良さが隠しきれないのだ。おまけに、自分を信用していない人間の家の風呂で居眠りをしてしまうほどの迂闊さがある。
もはやサゲンは彼女を間諜の類とは思っていない。しかし、名門大学を出た上流階級の令嬢が本当はどんな事情で船乗りになったのか、想像もつかない。‘アルテミシア・リンド’というのも本当の名前なのか怪しいものだ。その上、本人は頑なに口を閉ざしているのである。それほどの理由があるのだろうが、万が一にも女王やその近辺に危険が及ぶようなことがあってはならないのだ。国王の臣下になった以上はこちらとしても知る必要がある。
サゲンは屋外の鍛錬場の門をくぐり、奥を覗き込んだ。既に日が沈みかけているが、まだ多くの兵士が残り、体術や剣術、槍術などを至る所で訓練している。サゲンに気づいた下士官や指南役たちは目礼したり、敬礼したりした。しかし、その中にアルテミシアの姿はなかった。やはりサゲンを避けて先に帰ったようだ。
青毛の愛馬を駆って森の屋敷へ戻ると、厩にイグリとリコがいた。通常なら厩番は一人のはずだ。
「イグリ、お前は今日料理番ではなかったか」
イグリは困惑した顔で弁解した。
「それが、ミーシャに自分でやると押し切られて…」
(勝手なことを)
サゲンは唇を引き結んだ。新参の居候に屋敷のことを仕切られる道理はない。無表情な中に上官の怒りを感じ取り、イグリとリコは竦み上がった。
イライラと廊下を渡り厨房の引き戸を開けると、軍服姿のままのアルテミシアが調理台の上に胡坐をかいてリンゴを齧っていた。辺りにはハーブで焼いた肉やバターの匂いが漂っている。サゲンは胃が動くのを無視した。
「勝手してごめん」
と言いながら、アルテミシアは悪びれる様子もない。
「人の役割を自儘に奪うものではない」
サゲンは太く形の良い眉を不愉快そうに歪めている。
「それに、俺の屋敷で行儀の悪い振る舞いはやめてもらおう」
アルテミシアはしれっと肩をすくめて調理台を降りた。
「今朝のお詫びをしようと思ってさ」
と、横に退いて台の上に並んだ料理を見せた。鶏肉のハーブ焼き、野菜ときのこのソテー、スープもある。
「他のみんなにはもう持って行ったから、わたしたちは食堂で食べない?お酒も出して」
サゲンは眉間に皺を寄せたまま溜め息をつき、この提案に乗ることにした。どういう意図があるにせよ、相手が話をする気になったのは確かなようだ。主導権を握らせるつもりは毛頭ないが。
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