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【番外編2-1】バルカ夫妻のせわしない日々 あるいはエーデルワイスの来た道 Ⅰ
- Saghën & Artemisia impegnati o il dono della Stella d’argento -
初秋の陽光を目蓋の向こうに感じ、サゲン・エメレンス・バルカ将軍はゆっくりと目を開いた。
幸せな目覚めだ。
深い眠りから覚めて初めて目にするものが、愛らしい妻アルテミシア・ジュディットの寝姿なのだから。
サゲンはしっかりと伏せられたまぶたに羽が触れるようなキスをして、布団の中で裸のまま眠りこける妻の身体をその腕の中に収めた。
(…まずい)
自分の身体が生理的な反応を起こしている。ここは一度アルテミシアから離れた方が良いことは理解しているが、放す気になれない。まだこの肌の温もりに囚われていたかった。
少々自制心が足りていない自覚はある。
結婚証明書に女王直々の署名をもらい正式な夫婦となって一年ほど経つが、妻への欲望は落ち着くどころか日に日に強くなり、年甲斐もなく一夜に何度も求めてしまう。
昨夜も三度の情交では足らず、結果アルテミシアが意識を失う羽目になったのだ。
「んー…」
アルテミシアが可愛い声で唸り、ごろりと寝返りを打った。サゲンの胸にアルテミシアの背がぴったりと沿い、柔らかい臀部が自分の一部に触れている。
ぐ、と自分のそれがアルテミシアの柔らかい肌を押し上げた。サゲンは背後からアルテミシアの乳房に触れ、つ、とその愛らしい先端を親指で撫でた。昨夜そこに優しく歯を立てた時の彼女の甘い声を思い出し、身体が熱くなった。
意識は夢の中にいるはずなのに、アルテミシアの身体はサゲンの愛撫に反応を始めた。指の下で胸の先端が硬く立ち上がり、穏やかな寝息に小さな呻きが混ざる。
サゲンは熱くなった身体を鎮めるようにフー、と深く息を吐いて、アルテミシアの髪に顔を埋めた。野花のような彼女の香りが鼻腔を満たす。
昨夜は激しくしてしまったから、流石にタフな彼女でも疲れているだろう。その証拠に、いつも自分より早く目覚めているアルテミシアが目蓋を開く気配は、未だにない。
ここのところ渉外活動が多くなり、女王付き通詞兼渉外担当としての仕事が山積みだ。無論、海軍司令官であるサゲンも、同じく忙殺されている。
と言うのも、カノーナス率いる海賊団討伐と、彼らとの違法な取り引きに関わった者たちの一斉捕縛を終えた後、関係者の聞き取りや身辺調査、商品として売られた者たちの足取りを追うための調査など、とにかく途方もない作業を、作戦に参加した同盟諸国の軍部と連携しながら進めている。
このために、アルテミシアは一日中女王の側について回り、イノイルに駐在しているエマンシュナ、ルメオ、アムなどの同盟国軍の責任者と情報交換や今後の計画についての話し合いなどに奔走し、サゲンは軍の通常業務に加え、海賊討伐の司令官としてこれらの事後処理の総括を一身に担っている。時には、黙秘を続ける囚人の監獄まで自ら赴いて取り調べることもある。
そのせいで、同じ家で起居しているにもかかわらず食事の席で顔を合わせる機会も減り、新婚であるにも関わらず愛しい妻と一緒に過ごす時間がほとんど取れていない。辛うじて夜は同じベッドで眠っているが、それだけのことだ。去年の休暇が、もう何十年も前のことのように感じるほど恋しい。
それだけに、たまに身体を重ねると箍が外れたようになってしまう。疲労は性欲と反比例するものだとよく聞くが、自分には当てはまらない。むしろ、アルテミシアに触れずにいただけ欲望が蓄積され、いざその時になるともう溢れて止まらないのだ。
(…やめた)
サゲンは顔を上げた。
我慢をやめた。
アルテミシアは怒るかもしれないが、身体を開いてしまえばあとはもう快楽に溺れるだけだ。
サゲンは無防備なアルテミシアの背に唇を寄せ、強く吸い付いて痕を残した。乳房に触れ、その頂をそっと撫で、もう片方の手を鳩尾を通って臍の下へ這わせて、柔らかい茂みの中の秘所へと潜り込ませた。
「んん…」
濡れている。
更に奥へ指を入れると、強請るように腰が揺れた。上部の突起に蜜を塗りつけて優しく撫でたとき、アルテミシアがびくりと身体を跳ねて小さく悲鳴を上げた。
「んぁっ…!さ、サゲン?」
驚いて振り返ったアルテミシアの顎をつまんで引き寄せ、サゲンは愛らしい桃色の唇を啄んだ。
「んんっ、ちょっと、何して――」
顔を背けようとしたアルテミシアの頬を引き寄せ、もう一度唇を重ねて、官能を呼び覚ますように淫らな口付けをした。アルテミシアの息が上がり、熱い吐息がサゲンの肌を湿らせる。
「おはよう、奥さん。愛し合おう」
サゲンの誘惑するような声が耳に直接響き、目覚めたばかりの身体を熱く覚醒させる。
「こ、こんな朝から…」
「だめか?」
「あっ…!」
サゲンの指がアルテミシアの秘所を撫でると、身体の力が抜けてしまう。アルテミシアはサゲンの腕に縋りつき、小さく唸りながら身体を震わせた。自分の内側がサゲンの指を濡らしているのが分かる。
「アルテミシア。…したい」
「あっ、あ、サゲン…だめ。もう、むり…」
「本当に?」
「ん、あっ――!」
アルテミシアはサゲンに導かれるまま快楽に身を委ね、絶頂に昇り詰めて悲鳴を上げた。
「…っ、もう」
アルテミシアは頬を真っ赤にして膨らませ、機嫌良く唇を吊り上げるサゲンを恨めしげに睨めつけた。
「ふ。かわいいな」
「もう、サゲンってば!仕事に遅れちゃうよ」
「たまにはいいさ。俺たちは十分過ぎるほど働いている。今日くらい寝過ごしたからと言って誰も咎めない」
「堅物のバルカ将軍の言葉と思えないね」
「…なあ、アルテミシア」
サゲンが低く甘い声で呼ぶと、アルテミシアの背筋をぞくりと興奮が駆けていった。
ずるい。と、思わなくもない。平素は厳格な指揮官の顔を崩さないくせに、二人の時はこんなふうに甘えてくるのだ。
「い、一回だけ」
サゲンのキリリとした眉が開いて切れ長の目が弧を描く。これだけでアルテミシアの胸がいっぱいになった。
バルカ将軍がこんなにかわいい顔をするなんて、知っているのは自分だけだ。それなら、何でもない日の朝に自分の中を自分だけのバルカ将軍で満たしておくのは、いい考えのような気がする。
アルテミシアはその誘惑に抗うことなく、広く硬い背に腕を回し、サゲンの熱を身体の中に受け入れた。
この日、アルテミシアに助手が付けられた。以前から妻の激務を見かねたサゲンがロハクに要請していたことだったが、如何せん言語と国際関係の専門分野でなおかつ女王の側につく者となると人選が難しく、人事が難航していたのだ。
「ミーシャさんですね。お噂はよく聞いています」
と、朗らかな笑顔で挨拶をした好青年は、ノイチ・イアロ・ハツカリという若者だった。陸軍付きの外交役であるハツカリ氏の甥っ子で、この夏オアリス大学を首席で卒業したばかりだという。なるほどイノイルの貴族階級で王立大学の成績も首席となれば、女王付き通詞の助手としては申し分ない。シャツとベスト、それに細身のズボンをきちんと着こなしているあたりに育ちの良さが滲み出ている。
(それにしても――)
と、アルテミシアは目の前の青年を観察した。
黒褐色の波打つ髪は後ろで一つに束ねられ、くっきりとした二重まぶたの目は温厚そうにゆるやかな弧を描いている。背丈は平均的で体格も細身ながら、シャツの下の腕にはしっかりとした筋肉がついていて、足捌きにも武術の心得があるように見える。文官として内向きの業務だけを担うには、やや惜しい。
「似てない…」
「はい?」
ノイチが首を傾げたので、アルテミシアは心の声が言葉に出ていたことを知った。
「あ、ごめんなさい。ハツカリさんと全然似てないなって思ったのが、声に出てた」
ノイチは薄茶色の目をきょとんと見開いた後、弾けるように笑い出した。
「伯父と父が似ていませんからね。性格も正反対ですよ。でも父と兄弟仲はいいから、僕も可愛がってもらってます。ああ見えて面倒見いいんですよ、ピッポ・トト伯父さんは」
「ピッポ・トト?ハツカリさん、そんな名前だったんだ」
なかなか顔に似合わず可愛い名前をしている。と口に出すのは、甥っ子の手前やめておいた。
「でも、たしかに面倒見はいいかも。わたしが海賊討伐で不在にしてた間もブーブー言いながら代わりに仕事やってくれたし」
「そうなんですよ。意外といいところあるでしょう」
「本当だね」
「ところで、それ、軍服ですか?変わったドレスですね」
とノイチが訊ねたのは、アルテミシアが着ている青い女性用の軍装だ。
女王の意匠で何度かの改良を繰り返し、現在は襟の開いた二列ボタンのジャケットと膝丈のスカートにタイツとブーツを合わせる形になっている。ベルトは太めのものを採用して帯刀できるようになっているから、動きやすいし機動性もよい。
アルテミシアにとっては、女王の通詞として働く上での制服になっている。登城用のドレスよりも気が引き締まるし、気が向けばこのまま兵士の訓練場に赴いて兼の稽古を付けてもらえるから便利なのだ。
ただし、いつも軍装ばかりで美しいドレスを着てくれないからという理由で、せめて髪だけでもとエラやケイナが毎日きれいに編み込んで整えてくれる。稽古を付けてもらった日はそれが乱れてしまうので解いて帰ると、いつもがっかりされるのだ。
そういうことを、髪の件は除いてアルテミシアが説明すると、ノイチは深く感じ入った様子で何度も頷いた。
「こういうものを作ると言うことは、陛下は女性の官僚や軍人をもっと増やす予定なのですね。僕も賛成です」
ノイチは言った。
「本当は、女性の下につくのは嫌だろうとか、やめておけとかって散々周りから言われていたんです。でも、伯父に頼んであなたの記録を見せてもらったとき、この仕事に応募しようって決めました。型破りで勇敢で、女王陛下から最も信頼されている。それにあなたは相手が権力者でも自分の信念を通す人だ。僕の理想の上司です」
「そんな、大袈裟な…。恥ずかしいんだけど」
少なくともハツカリさんはアルテミシアの悪口を言わなかったらしいが、上司としての期待値が上がってしまうと、それはそれでものすごい重責だ。
そんな上司の気も知らず、アルテミシアより二つ年下のノイチはきらきらと眩しい笑顔を見せた。
「こき使ってください。頑張りますので」
「わたしもあなたに見放されないように気を付けなきゃ。よろしくね、ノイチ・イアロ。いいパートナーになろう」
そう言って差し出したアルテミシアの手を、ノイチは力強く握り返した。
「はい!」
この笑顔の眩しい青年が助手についたことで、アルテミシアは格段に仕事がやりやすくなった。ノイチはロハクが多くの候補から選んだだけあって有能だ。一週間経つ頃には書類仕事を概ね一人で任せられるほどになったので、アルテミシアはもうひとつの仕事に取りかかることにした。半年前にオアリス郊外に落成した王立療養院――人身売買などの犯罪の被害に遭った者たちを保護する施設での仕事だ。
先般、サゲン率いる海軍の尋問により、海賊に売られた女性や子供を新たに捕縛された買い手から取り戻すことに成功した。海賊討伐後に制定された新たな規定により、国籍を問わず彼らを全員一時的に療養院で保護し、彼らの心身が概ね健康であると医師が判断すれば、国際的な手続きを経て祖国に帰ることができるし、帰る場所のないものはイノイル国内で仕事を探すことができる。現在は三十人ほどの女性や子供たちが保護されており、心身の回復と手続きを待っている状態だ。
ここで今、困ったことが起きている。
「――え。その子、喋れないんですか?」
と、ノイチが訊ねた。
オアリス城の塔の四階にあるアルテミシアの執務室で書類仕事に勤しんでいるときのことだ。既に外は暗くなり、城の中ではあちこちでガラスと真鍮のオイルランプが灯されている。
「そうなんだよねえ」
アルテミシアは真新しいクルミ材の執務机に頬杖をつき、片手でノイチから翻訳の終わった書簡を受け取り、目を通しながら言った。
「十五歳くらいの子なんだけど、売られた先でひどい虐待を受けていた影響で、何も喋らなくなっちゃったみたい。かわいそうに、男の人が近付くと医師でもものすごく怯えて離れて行っちゃうし、本人が名前も言えない状態だから故郷もどこで攫われたのかもわからなくて、一緒に保護された人もその子のこと何も知らないんだって」
「それはまた、難儀ですね」
アルテミシアは小さく息をついて肩を落とした。
療養院には主に身体的なケアをする医師と精神的なケアをする看護師が常駐しているが、発話ができないほど重篤な状態となると、他の専門家が必要になってくる。
「話を聞くには、やっぱり心理学の専門家かな。でも男の人が怖いとなるとなぁ…」
残念ながら、オアリスに女性の医師は少ない。それも、ほとんどが女性特有の病や助産師などの専門家で、精神疾患に精通している女性の医師を探すとなると、国中を当たらなければならないだろう。
(だから女も男と同じ教育を受ける必要があるんだよ)
と、アルテミシアは静かに苛立った。
男女の教育格差については、恩師のアリアネ先生も常々憤っていることだ。そもそも、大学で学ぶことが、男は働くための学術や専門的な技術、女は貴婦人としての社交術やマナーだなんて、最初に決めた者たちもそれを漫然と受け継いできた者たちも、皆揃ってどうかしている。
イサ・アンナ女王や領地に大学を作ろうとしているアリアネ先生は、そういう社会通念を変えたいと願い、実際に行動している。事実、王立オアリス大学はここ数年で女学生の数が飛躍的に伸び、まだまだ男子学生の三分の一には及ばないが、着実に男たちと同じ教育を受ける女学生が増えている。
が、それはあくまでここ数年の話だ。彼女たちが実際の職業に就いて一人前になるまでには、まだ数年待たなければならない。
アルテミシアが唸って書簡を睨んでいると、ノイチが紙の裏からつんつんと指でつついてきてキセの顔を上げさせた。
「医師とか専門家じゃなくてもいいんじゃないですか?例えば、心理学について研究している女学生を借りてくるとか。そういう子なら、専門家の先生がいるから助言ももらえるでしょうし、勉強にもなるから、意欲のある学生なら一生懸命やってくれるはずです」
ガタ!とアルテミシアは跳び上がるように立ち上がり、ハシバミ色の目をキラキラと輝かせて、ノイチの手を両手でがっしり握りしめた。
「あなたって最高!ノイチ・イアロ!」
ノイチは驚いて目をぱちくりさせたが、嬉しそうなアルテミシアの顔を見て目を細めた。
「期待に応えられるよう、がんばります。まずは僕が明日オアリス大学に行ってみます。それで――」
と、この時、執務室の扉が開いた。女王付き通詞兼外交役の執務室へ無断で入って来る人物は、女王以外には一人しかいない。戸口に経つ濃紺の軍装の人物を認めたアルテミシアが、ぱあっと顔を明るくした。
「サゲン。仕事終わり?」
「ああ。君は――」
サゲンはいつも通りの無表情で視線を巡らせ、妻と手を握り合う若者を一瞥してから執務机に歩み寄った。
「もう少しかかりそうか?久しぶりに外で食事をどうかと思っているんだが」
「いいね」
アルテミシアはノイチの手を解いてサゲンに駆け寄り、そっと抱き締めた。
「わたしも今日はもう終わり。助手のノイチがとってもいい提案をくれたところなんだ」
「ロハクが推薦したっていうハツカリの甥御どのか」
「あ、はい」
と、ノイチはサゲンにぎこちなく笑いかけた。
「ノイチ・イアロです。あなたはもしかして――海軍司令官のバルカ将軍ですか?」
「そうだ」
「ふたりは…ええと…」
ノイチはちょっと驚いた様子でサゲンとアルテミシアを交互に見回した。どうやら混乱している。
「あれ、言ってなかったっけ?わたしたち夫婦なの」
「ええ!あ、そうなんですか」
喫驚したノイチを見たサゲンは、アルテミシアに向かって呆れたように片方の眉を上げた。
「一緒に働き始めてもう二週間になるだろう。何も言わなかったのか」
「忙しくて、個人的な話をする暇もなかったんだよ。みんな知ってるから、てっきりノイチも知ってるかと思ってた」
アルテミシアは肩を竦めて苦笑しただけだったが、サゲンはノイチの反応を気にした。眉の下が翳っている。
「驚きました。ミーシャとかリンドさんって呼ばれてるから、結婚していたとは思わなくて」
ノイチはかりかりと頭を掻いて照れたように笑った。
確かに、既婚女性は夫の姓に‘夫人’を付けて呼ばれるのが一般的だが、アルテミシアの場合は違う。概ね‘ミーシャ’や‘リンドさん’で、城の中で‘バルカ夫人’と呼ばれることはまずない。皆アルテミシアがオアリスへやって来たときからの仲だから、呼び方を今更変えるのが面倒なのだ。
それに、なんとなくアルテミシアは貴族や高官の奥方というには出自も経歴も振る舞いも、何もかもが異色だ。だからアルテミシアの場合、‘バルカ将軍夫人’とか‘バルカ子爵夫人’というよりは、‘ミーシャ’と友情を込めて呼ぶ方がしっくりくるという者が多い。
「でも、すごいな。海軍最高司令官と女王陛下付きの外交役が夫婦なんて、かっこいいですね。憧れます」
ノイチは屈託ない笑顔で言った。
「ノイチ・イアロ」
サゲンがノイチに向かって右手を差し出したので、ノイチはその手を取り、握手を交わした。この時のサゲンの力の強さは、何故かノイチを動揺させるものだった。
「妻の力になってくれ。期待している」
「もちろんです」
ノイチはちょっとした動揺をおくびにも出さず、爽やかな笑顔でそう返した。
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