【番外編2-2】バルカ夫妻のせわしない日々 あるいはエーデルワイスの来た道 Ⅱ

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【番外編2-2】バルカ夫妻のせわしない日々 あるいはエーデルワイスの来た道 Ⅱ

 この日の夕食は、城下にある貝料理の店で取った。  アルテミシアが近頃気に入っている人気の料理店で、王城に近い位置にあるから官僚やサゲンの部下たちも足繁く通っている。ちょうどこの時もサゲンの副官であるゴランが隣のテーブルで恋人のレナータ嬢と食事をしているところだった。ゴランはサゲンと同じく濃紺の軍服、レナータはラズベリー色のドレープが美しいドレスを着て、細く編み込んだ茶色い髪を後ろでお団子にしている。 「おっ、二人もデート?」  アルテミシアが布張りの椅子に腰掛けながら訊くと、レナータはちょっと頬を赤くして、バターと潮が香るよく焼けたムール貝からフォークで身を取りながらちょっと素っ気ない様子で頷いた。 「ええ。この人が仕事帰りに貝が食べたいって言うから、わたしは出掛けるつもりはなかったんだけどね、うちへ迎えの馬車まで用意してきたものだから、仕方なく付き合ってあげてるの」 「そうなんだぁ」 「な、なんなの」  アルテミシアの笑顔が何だか不自然だ。レナータは父親のトーラク将軍にそっくりな大きな目をすがめ、ピンク色の唇を尖らせた。  サゲンが給仕係にワインを頼んでゴランと何やら言葉を交わしているのを、アルテミシアは横目でちらりと見、レナータの方へ身体を寄せて、密やかに言った。 「仕方なく付き合ってるだけにしては気合い入ってるじゃない。きれいだよ」 「なっ…」  レナータが貝を皿に落とす音が小さく響いた。顔が真っ赤だ。 「もう、ミーシャ。何を言うのよ」 「可愛い」 「ちょっと、ミーシャ。僕の婚約者を誘惑するのはやめてくれませんか」  ゴランが黒い眉を上げて、フォークを握るレナータの手にそっと触れ、アルテミシアに警告した。 「してないよ」 「いや、君は無自覚だからな。立場も男女も見境がない」  サゲンの口調はちょっと冷ややかだ。 「そんなことないって」  アルテミシアは否定したが、ゴランもレナータも小さく首を振っている。 「ええ…?」 「苦労しますね、バルカ将軍」  ゴランがワインの入ったグラスをサゲンに掲げて言うと、サゲンは小さく顎を引いた。 「そ、そんなこと言ったら、サゲンだって、最近軍医と看護見習いで海軍に出入りしてる若い女の子たちにちょっかい出されてるじゃん」 「彼女たちが興味を持っているのは軍人の出世株であって、俺一人に好意があるわけじゃない」  サゲンはしらじらと言った。 「あらなぁに、それ?そんなのがいるの?」  レナータも聞き捨てならないらしい。大きな茶色い目を見開いてゴランに詰め寄った。 「大丈夫ですよ、レナータ。僕は出世株だけど、ほとんどバルカ将軍とアガタにしか興味がないようですから。二人が医局に行くとみんな面白いぐらい色めき立つんですよ。アガタは明らかに楽しんでいますがね。だから、君が心配するようなことはないんですよ」 「べ、別に心配してるわけじゃないわ」  ゴランが嬉しそうに微笑むと、レナータはぷいっとそっぽを向いて貝をむしゃむしゃ食べ始めた。 「…ふぅん」  アルテミシアが給仕係からワインを受け取って、サゲンをじろりと見た。 「妬けるか?」  サゲンが意地悪そうに唇を吊り上げた。なんだか癪だ。 「別に。だってサゲンは浮気しないもん」 「あら、凄い自信ね」  レナータが貝を口に運びながらニヤリとした。 「そんな暇ないほど忙しいからね。カタブツだし」 「それだけか?」  サゲンはワイングラスを持って、揶揄うような口調で言った。アルテミシアが無言でワインに口を付けたのは、照れ隠しだと分かっている。 「まあ、とにかく、俺が言いたいのは、部下とはきちんと線引きしろということだ。いつもみたいに見境なく友人のように接しては、公私の境が曖昧になるぞ」 「ああ、ノイチのことね。承知しました、上官」  アルテミシアはサゲンの部下たちの口調を真似て返事をした。 「冗談ではないぞ」 「わかってるよ。どこかの誰かさんも公私の境をなくして女王の通詞を妻にしましたもんね」 「あれはいい。最初から惚れていたから、公私の境をなくしたことにならない」  これにはアルテミシアも返す言葉をなくしてしまった。 「ああ…はいはい」  レナータが隣で顔を真っ赤に染めたアルテミシアを呆れたように眺め、つられて赤面した。 「ごちそうさまです、将軍」  ゴランがにこにこ笑いながら瓶を持ち上げ、空になったサゲンのグラスにワインを注いだ。  翌日、予定通りノイチがオアリス大学へ赴いて心理学の教授を訪ね、女学生を推薦してもらうことに成功した。教授のもとで心理学を学び始めてから三年ほどの学生で、中流階級出身の十八歳だというから、例の言葉を話せない女の子も心を開いてくれるかも知れない。ノイチが会って話してみたところでは、この試みに意欲的で信頼できる。  この報告を聞いて、アルテミシアはノイチの手をぶんぶん振り回して喜んだ。 「仕事が速い!ありがとう!」  療養院での面会に立ち会うため一日外出する許可を願いに女王の執務室へ赴くと、女王は意外なことを言い出した。 「わたしも行こう」 「えっ、イサ・アンナさまがですか?」  それはそれでなんだか大事になる気がする。側に立つロハクは「またか」とでも言うように額を抑え、アルテミシアを細い目で睨み付けた。アルテミシアはその視線を「余計なことを言い出しやがって」と読み解いたが、どうにもこうにも、これは不可抗力だ。 「陛下、療養院の運営についてはミーシャに一任しているのですから、陛下ご自身が行かれなくても――」 「ロハク、療養院の正式な名を言ってみろ」 「…王立イサ・アンナ療養院です」 「そうだ。元々は我がシトー家所有の別宅で、今はわたしの名がついた療養院だ。そこにわたしが行ったからと言って、何も問題はあるまい。むしろ、行ったことがない方が奇妙ではないか?なにも口のきけぬ娘の面会に立ち会おうというわけではない。ちょっとした視察だ。すぐに城へ戻るから、その間の政務は頼んだぞ。な、ロハク」 「陛下…」 「な。ロハク」  ロハクは長い溜め息をつき、不承不承ながら従った。  女王の行動は迅速だった。すぐさま予定を調整して、次の日にはアルテミシアたちと共に療養院を訪れた。無論、馬車ではなく騎馬だ。白馬に金糸で王家の鷲の紋章を刺繍した青い飾り鞍を掛け、自身も青い絹の輝くようなドレスで現れたのだ。突然の女王の訪問に、療養院は案の定大騒ぎになった。  が、イサ・アンナは心得ている。療養院で働く医師や看護師には自分に一切構わぬよう直々に言いつけ、保護されている被害者と趣味の話をしたり、庭園で子供たちと一緒になって花冠を作ったりボール遊びをしたりして、王城では考えられないほど活動的になっていた。 「ほあぁ、驚きました」  ノイチが療養院の庭の隅でその様子を見物しながら感嘆した。 「女王陛下がいらっしゃると聞いたときは度肝を抜かれましたけど、なんだか馴染んでますね」 「イサ・アンナさまの不思議なところだよね。あの方が国家君主だってこと、時々忘れるときがあるよ」  アルテミシアは肩を竦めて苦笑した。  この後、アルテミシアは言葉が話せなくなった少女と院内のサロンで面会することができた。  髪は赤みがかった茶色で瞳はハシバミ色、目がくっきりと大きく、初対面の人間の前では警戒して表情を消しているようだった。趣味なのか、心を落ち着かせるためか、少女は丸い枠に布を張って刺繍をしていた。オアリス大学の女学生がいくつか声を掛けても指が機械的に刺繍を繰り返すばかりで、反応を見せるどころか聞こえているかどうかも判別できなかった。  もしかしたら本当に聴こえていない可能性もある。聴力自体には問題がないのに、心を病んで身体が自発的に周囲の声を聞こえない状態にしているような症例があると、過去に聞いたことがある。  女学生はむやみやたらと話しかけるのではなく、少女の行動を観察し、目線を合わせたり、刺繍のことを言葉少なに尋ねてみたりといろいろな試みをしていた。 「あの娘は時間がかかりそうだな」  と、イサ・アンナがサロンから出てきたアルテミシアにぽつりと言った。 「そうですね。学生さんも、毎日来て話しかけ続けてくれるみたいですから、ゆっくりやっていきましょう」 「ふ。そなた、わたしもこの任務の一員のような言い方をするな」 「違うんですか?」  アルテミシアが問うと、イサ・アンナはニヤリと笑った。 「この国のことで、わたしが関わっていないものはないよ」 「そうおっしゃると思ってました」 「――そうだ、ミーシャ。あの娘の面会に、そなたの侍女も加えたらどうだ。同じ経験を持つもの同士で話すのもよいのではないか。エラだったか」  イサ・アンナの提案は、アルテミシアも考えていたことだった。が、成功か失敗か、どちらに転ぶか分からない。そちらにせよエラの傷口を抉ることになるし、そのことを話させることで少女の傷も開くかもしれない。  アルテミシアが考えを巡らせていると、イサ・アンナは安心させるように肩を叩いた。 「自ら志願して海賊討伐の囮になるような娘だぞ。そういう心根の女は強い。試せるものは全て試してみるといい」 「そうですね」  と、アルテミシアは気弱に応えた。  あの作戦から二年経ち、エラにも変化があった。  海賊船からエラを救出したときから彼女は強い女性だと敬服していたが、近頃はもっと年相応の少女らしい姿を見せるようになった。安心できる場所を手に入れて、強くいなければならない理由がなくなったのだ。アルテミシアは、これは好ましい変化だと思っている。だからこそ、気が進まないという思いもある。  しかし、決めるのはエラ本人だ。 「わたし、行く」  と、夕食の席でエラが言った。  サゲンは軍港へ泊まり込みでの任務に就いているから、アルテミシアの希望でこの日はエラとケイナと三人で食卓を囲んだ。サゲンがいるときは忠実な家臣で執事でもあるシオジが絶対に許さないが、当主不在の日に限り、アルテミシアのわがままは許容されている。  ケイナも心配したが、エラの意志は固かった。 「たぶん、わたしにしか共感してあげられない気持ちがあると思うから」 「そう言うと思ってた」  アルテミシアはエラの手を握った。  この数日後、アルテミシアはエラを伴って療養院を訪問した。  院内のサロンでは、ちょうどオアリス大学の女学生が面会していて、「はい」「いいえ」などの簡単な言葉を手のサインで伝え、意思疎通できるまでになっていた。前回と比べると、目覚ましい進歩だ。 「こんにちは。わたしはエラ」  エラが話しかけると、少女はなんとエラの目を見て小さく頷いた。 「わたしもあなたと同じような経験をしたの。そこに座ってもいい?」  少女のハシバミ色の目には、深い悲しみが映っていた。エラも悲しそうに笑い、少女の隣の椅子に腰掛けた。  しばらく当たり障りのない話をエラがし、少女が時折頷いたり首を傾げたりというコミュニケーションを取っていたが、エラは途中でハタと言葉を切り、少女が白い布に施している花の刺繍を凝視した。 「…素敵な刺繍。これは、エーデルワイス?」  エラが訪ねると、少女は小さく頷いた。 「見てもいい?」  少女がもう一度頷いた。口元が少しだけ綻んでいる。  エラは枠についたままの刺繍された布を手に取ると、青い瞳を見開いてしばらく言葉を失った。 「ねえ、ミーシャ。見たことない?これ…」 「えっ、どれ」  アルテミシアが受け取ってまじまじと刺繍を見、少女の顔を見た。確かに、どこかで見たことがある気がする。  もう一度エーデルワイスの刺繍を見たとき、アルテミシアの脳裏にアムの海が蘇った。 (そうだ)  これを見たのは、初任務の時だった。海賊船に捕まっていたエラと少女たちを救出したとき、誰かのドレスに同じ柄があった気がする。記憶が確かなら、糸の色使いや形も一緒だ。 「あっ」  と、その少女の顔を思い出した。一番年下の女の子だ。 「ナタリア?」 「そう、ナタリア。同じような刺繍してたよね。でも――」  とエラが肩を落としたとき、少女が大きく目を見開いて勢いよく立ち上がり、アルテミシアとエラのドレスの袖を強く引いた。  もっと驚いたのは、少女が声を発したことだ。ひどい掠れ声で不明瞭だったが、二人にはこう聞こえた。「ナタリア」と。 「もしかして、ナタリアって女の子、知ってる?これと同じエーデルワイスの刺繍をしたドレスを着てた。あなたと同じような茶色の髪で、目は――何色だったかな」 「緑。暗い緑色だったわ」  エラが言った。一緒に捕まっていた時間が長かったから、よく覚えている。船室は暗かったが、蝋燭を灯してみんなで恐怖を耐えていたのだ。 「そう。それで多分、エマンシュナの西の方の出身だと思う。今は、十二歳になってるはず」  少女のハシバミ色の目が光を取り戻したように輝き、陽光を浴びたような笑顔を見せた。これには同席した学生も驚いたらしい。数日間話しかけ続けても、これほどの笑顔を見せることはまずなかったのだ。 「な――ナタリア…いき――生きてる?」  少女の声は、今度は比較的明瞭だった。この言葉でアルテミシアは確信を持った。確かにナタリアと同じ西の方の訛りがある。 「生きてるよ。二年前に海賊船から救出されて、今はアム共和国の孤児院に預けられてる。あなたは、お姉さんかな」  少女は崩れ落ちて涙を流し、何度も頷いた。この時、ようやく彼女がクララという名前であることがわかった。  この一件があって、アルテミシアはもう一肌脱ぐことになった。まずは姉妹を対面させること、そして、故郷である西エマンシュナへ帰国させることだ。  アルテミシアはそのまま王城へ戻らずに二時間ほど馬で駆け、ティグラ港を訪ねた。  サゲンはここしばらく、海上での集中訓練のために数日おきに軍港に泊まり込みで指揮を執っている。この日も、二日前にトーラク将軍と交代して船に留まっていた。  以前であれば訓練期間のあいだは一度も屋敷に戻らなかったが、アルテミシアを妻に迎えてからは持ち回りで指揮するよう体制を整えたのだ。  ティグラ港はそれほど大きな港ではないから普段は中型の帆船が二十隻ほど配置されているに過ぎないが、ここ数日は集中訓練のために大型の軍船が二十隻、中型の船が三十隻集まっており、港に近づくにつれて視界いっぱいに群れを成す黒く巨大な戦艦が広がっていく。鼓膜を震わせるほどの轟音が断続的に響いているから、大砲の発砲訓練をしているのだろう。  その景観だけでも物凄い迫力だ。何しろ、海戦術、造船技術に優れた海洋大国イノイル自慢の新型軍船が集結しているのだから。 (いいなぁ)  アルテミシアは周囲で青の軍服を着た海軍兵たちが忙しく立ち働くのを視界に入れるのも忘れ、威風堂々たる砦のようなそれらの船を惚れ惚れと眺めながら馬を降りた。 (操舵してみたい…)  船乗りの心を果てしなくわくわくさせる光景だ。 「あれ、ミーシャ?」  と、声を掛けられて、アルテミシアは我に返った。  中型の軍船からちょうど降りてきたイグリが駆け寄ってくる。  イグリは近頃肩まで伸ばしていた金髪をばっさりと切り、サゲンよりも短いイガグリ頭になっている。  城中には残念がる女官も多いが、イグリにとって最も肝心なエラはこれで男振りが上がったと気に入っているらしい。 「イグリ。おつかれ」  と、アルテミシアは手を振った。 「上官に会いに来たのか?」 「そう。療養院で保護してる女の子のことで、ちょっと海軍にお願いしたいことがあって」 「案内するよ。船で渡って行かないといけないから」  イグリの案内で、港の手前に停泊しているボートに乗り、何隻かの船を通り過ぎて、サゲンの乗る司令船に辿り着いた。  帆柱が三本ある大型の船で、船体は黒く、船首には鷲を連れた女神の像、大砲が十二門と無数の矢間が設られている。  アルテミシアがイグリに連れられて一層下のデッキにある司令室へやって来た時、サゲンは一人ではなかった。  はだけたシャツで椅子に腰掛け、そばには医療関係者の証である鷲と杖に絡まる蛇の紋章が腕に刺繍された白い軍用ドレスの若い女がいる。 「おっと」  イグリが小さく言った。  アルテミシアには事情がだいたい把握できる。もちろん訓練中の怪我の手当てであって、その他の意味はないだろう。 (でも、なんか…)  距離が近い。  アルテミシアの鼻頭に皺が寄った。
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