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【番外編2-6】バルカ夫妻のせわしない日々 あるいはエーデルワイスの来た道 Ⅵ
丈の長い普通のドレスを着て船を操舵するのは初めてだった。サゲンもシャツとベストだけの簡素な服で船に乗るのはかなり久しぶりだから、同じ海の上でもやはり任務と違って開放感がある。潮の香りも、いつもと違って感じた。
アルテミシアが最新式のヨットをサゲンと交替しながら大はしゃぎで操舵し、恵まれた天候の恩恵を受けて両親の暮らすトーレへ着いたのは、三日後のことだ。機動性の高いヨットなら本当は二日で着くところだったが、サゲンがアルテミシアに少しでも長く触れていたかったし、アルテミシアもサゲンを独占したかった。陽が落ちる前には近くの港や海岸近くに停泊して魚を釣ったり港の市場で食料を調達したりしてヨットのデッキでささやかな晩餐を囲み、夜は寝台で蕩けるような時間を過ごした。
一年ぶりにやって来たアレブロの町は、相変わらず賑やかだった。そこかしこで羊や牛の鳴き声が聞こえ、顔を見知った子供たちが駆け回っている。以前来たときよりもずいぶん大きくなったようだ。子供たちはアルテミシアとサゲンの姿を認めると、「ミーシャ!」と大声で呼んで手を振った。が、サゲンは滞在が短かったのとイノイル語の名が子供たちにとって耳慣れなかったために皆うろ覚えで、彼らの間では「でかい彼氏」という名になっていた。
「もう夫だ」
サゲンは苦笑しながら子供たちに訂正してやった。
石造りの大きな家で二人を出迎えたのは、白いふわふわ頭のロベルタだった。
二人の突然の訪問にロベルタは卒倒しそうなほど驚いたが、もっと驚いたのは父ジュードだ。近所の家畜の回診からちょうど戻って来たところで、玄関に娘とその夫の姿を認めると、手に持っていた革の鞄を落としてしまった。その拍子に、鞄の中で何かが割れた音がした。アルテミシアは割れたのが高価な薬ではないことを密かに願い、涙ぐむ父親と抱擁を交わした。
母マルグレーテは、ゆったりした黄色いドレスを着て、居間のよく陽の当たる窓際でソファに腰かけながら編み物をしていた。お腹がはち切れそうなほど大きくなっている。弟妹の誕生は楽しみだが、一方で不安が募った。小柄な母が、果たして二人も同時に産んで大丈夫なのだろうか。
マルグレーテは二人の姿を見ると大きなお腹を抱えるように立ち上がり、よたよたと近付いてきてしっかり娘を抱擁した。
「来るなら知らせなさい」
と言いながら、嬉しそうだ。
この日、アルテミシアとサゲンの来訪を知らされた近所の住民が続々とリンド家へ集まってきた。相変わらず髪を引っ詰めて地味な色のハイネックのドレスを隙なく着ているドナの姿を見て、アルテミシアはなんだか故郷に帰ってきたと感じた。子供の頃の思い出には、いつも同じような出で立ちのドナがいるからだ。ドナのすぐ後に、ジンガレリ家の家長とその妻が猟で手に入れた新鮮な鹿肉を手土産に持ってきた。
しかし、真っ先に来ると思っていたシャロンとヴィンチェンゾの姿が見えない。ジンガレリ氏に訊くと、シャロンが寝込んでヴィンチェンゾが看ているというので、見舞いに行くことにした。二人は昨年結婚し、今はリンド家から程近いジンガレリ家の別棟に二人で暮らしている。
美しい石灰岩造りの家の扉を叩くと、以前より少し髪の伸びたヴィンチェンゾがアルテミシアとサゲンを「よお」と気軽に迎えた。妻が病床にあるにしては上機嫌だ。
シャロンは寝室にいて、クリーム色の寝衣のままぐったりと広いベッドに横たわっている。顔色が蒼白で、前よりもずいぶん痩せてしまっていた。寝室の戸口でアルテミシアの顔を見たシャロンは嬉しそうに笑顔を見せたが、やはり元気がない。
「ミーシャ、久しぶり。来てるって聞いたけど、行けなくて悪かったわね」
シャロンがゆっくり上体を起こしてベッドのヘッドボードに背を預けた。
なんだかものすごく不安になってきた。軽い風邪を想像していたが、予想よりもずっとひどい。
「いいよ、そんなの。それよりどうしたの?病気?」
「あれ、聞いてない?悪阻なの。もう最悪。料理の匂いも気持ち悪くなるし、何食べても吐くし、寝てるだけでも体力がどんどん減ってくんだから。ほんとに地獄。あんたも覚悟しておきなさいよ」
サゲンは寝室へは入らず、ヴィンチェンゾの淹れたローズヒップティーを飲みながら居間に座っていたが、アルテミシアの叫び声を聞いてほとんど反射的に立ち上がった。軍人の性だ。が、直後に聞こえてきた「うるさいわね!」というシャロンの怒声とアルテミシアの歓喜の声を聞いて、すぐに座り直した。
ヴィンチェンゾはくっくと肩を揺らして笑い、自分もサゲンの向かいに腰掛けた。
「ミーシャが来て元気になったみたいだ」
「懐妊か。おめでとう」
「俺、言いましたっけ?」
「アルテミシアの喜びようと流れで察しがつく」
サゲンが唇を吊り上げた。
「ありがとう、バルカさん。あんたのとこも、幸せそうだ」
ヴィンチェンゾが屈託ない笑顔を見せた。
「お陰さまで」
とサゲンが言ったのは、社交辞令ではなく、実は本心でそう思っている。多分あの時、鳩の報せでヴィンチェンゾがアルテミシアに求婚したと知らなければ衝動的にトーレへ行ったりしなかっただろうし、そうなれば今アルテミシアと一緒にいたかもわからない。アルテミシアが地元の名士であるジンガレリ家のヴィンチェンゾと知り合ったことで、よそ者のマルグレーテやジュードがこの土地にすんなり溶け込めたことから考えても、ヴィンチェンゾ・ジンガレリの存在は大きい。
「あの二人、なんだかんだ親友なんだよな」
寝室から響いてくる笑い声を聞きながら、ヴィンチェンゾが笑った。
エラが聞いたら嫉妬しそうだ。と考えながら、サゲンはヴィンチェンゾとシャロンが農場で育てたというローズヒップの茶を飲んだ。
マルグレーテが産気づいたのは、その二日後の夜のことだった。
その時リンド家にいた者はみな行動が迅速だった。
ジュードはお産用に自分で作った手すり付きの寝台に妻を支えて連れて行き、ロベルタは湯を沸かし、ドナは桶を用意して家中の清潔な布を集め、サゲンはあらかじめ聞いていた産婆の家へ産婆を呼びに行き、アルテミシアは母と赤子の着替えを用意して、昨日シャロンにお土産にもらったローズヒップとエキナセアで茶を淹れた。リラックス効果があるから、お産の時にも良いはずだ。
四十を超えた母の、しかも双子のお産だから、もっとみんな慌てるものと思っていたが、意外にも冷静だ。複数の出産経験があるロベルタやドナはいいとして、父ジュードは特に慌てふためくような気がしていた。
が、ジュードは医師だ。と言っても獣医師が本業だが、人間の医師の資格も持っているし、子供を取り上げた経験も過去に何度かある。近隣の医師が多忙な時などはジュードが家の一階を小さな診療所にして、町の人々を診察するときもある。今では家畜の医師兼、町医者のような立場になっている。
ジュードは冷静に妻の陣痛の間隔を計り、時折マルグレーテのドレスの裾を広げて子宮口の開き具合を確認していた。
「もしかして、産婆さんいらないんじゃない?」
と思ったが、ドナはもっと理性的だった。
「何かがあった時、冷静に対処してくださる方が必要でしょう」
苦痛に悲鳴を上げ始めた母の背をさすりながら、アルテミシアは心臓がぐにゃぐにゃと奇妙な鼓動を打ち始めたような気分になった。
「アルテミシア…」
マルグレーテが額に脂汗を浮かせて言った。
「きっとお前を待っていたのね。もうすぐ会えるわよ、妹たちに。お姉さんになるのよ」
まるで小さい子供に言うような言葉だ。アルテミシアはちょっとおかしかったが、それ以上に何か胸に迫るものがあった。鼻の奥が痛くなる。
「女の子って、なんでわかるの?」
「なんとなく。お前の時と似ているから」
まさか、そんなことがわかるはずがない。と思っていたが、この後サゲンに連れられて駆けつけた産婆とジュードが息ぴったりに連携して五時間後に取り上げた赤子は、果たして二人とも女の子だった。
アルテミシアは、妹たちの誕生に立ち会った。母が断末魔のような叫びを上げて苦しむのを目の当たりにしたから、感動よりもどちらかというと恐怖と不安の方が勝った。多分、自分がこれを経験するのはそれほど遠い未来ではないだろう。
しかし、赤子の産声を聞き、金色の髪をした皺だらけの小さな小さな生命体を目にしたとき、葉に溜まった雨粒が地面に落ちるような自然さで涙がこぼれた。
「抱いてごらん、アルテミシア。ほら、座って」
ジュードが涙ぐんで言った。取り上げたばかりの赤子を両手にしっかり抱いているから、涙を拭うこともできずに頬がぐしゃぐしゃになっている。アルテミシアは躊躇した。
「ど、どこ持つの?」
ジュードは笑い出した。マルグレーテも横たわったままもう一人の赤子を胸に抱いて笑い声を上げ、産婆も胎盤やその他の処理をしながら、寝台の側でくすくす笑っている。
「ほら、座って」
父親に促されるまま、アルテミシアは母の横たわる寝台の端に腰掛けた。
「首が落ちないように、肘に乗せてあげて。…そう、上手だよ」
ジュードもまた、子供に語りかけるような調子でアルテミシアに赤子を渡し、抱き方を教えてやった。
「おお…」
腕の中に生まれたばかりの妹がいる。しかも、開ききらない目をうっすら開けたり閉じたりし、小さな口をむにゃむにゃさせて、おくるみの中で手足をぱたぱたさせている。
「動いてる」
不思議だ。産湯もまだで髪はベタベタだし身体には血や何かよく分らない白いものがついたままなのに。――
「かわいい…」
アルテミシアは母と父の顔を交互に見、もう一度赤子を見た。
「あああ。父さま、母さま、かわいいよ。うう、かわいい。なんかベタベタしてるのに、なんでこんなにかわいいの?」
胸がいっぱいで、他に言葉が出ない。
「ははは」
ジュードが笑い出した。
「ちょっと様子を見て、身体が冷えないように拭いてあげよう。今のうちに勉強しておくと自分の時に楽だからね」
この日のうちに、双子の名前が決まった。
「姉はラウラ、妹はミルテだよ」
ジュードが輝くような笑顔で言い、上等な羊皮紙に丁寧な書体で二人の名を書いて、寝室のベビーベッドの横に貼り付けた。
「姉がアルテミシアだから、薬草に因んでラウラとミルテにしたのよ」
マルグレーテが言った。
「長生きしそうだね」
と、アルテミシアはまたしても込み上げてくる涙を堪えて笑った。
リンド家に双子が生まれて、祭好きなアレブロの民はあちこちで勝手に祝杯をあげた。生まれたばかりの赤子がいる家に押しかけて酒を飲むようなことがないあたりは気が利いているが、実際は大好きなお祭り騒ぎの口実に違いない。
家まで祝いに来る者たちも多かったが、みな簡単な挨拶と祝いの品だけを置いて、家に入ることなくさっさと帰っていく。これはアルテミシアには意外だったが、ロベルタは「近隣の奥さまがたが旦那さまがたをよくよくお躾けになっているからです」と満足げに言った。
意外なことは、もう一つあった。
「サゲン、赤ちゃんの世話したことあるの?」
アルテミシアが訊ねたのは、サゲンがふわふわのおくるみに包まれたミルテを抱いてゆらゆら揺らしているときだ。大きな身体のサゲンが抱いていると、生まれたばかりの小さな赤子がもっと小さく見える。
「ミウミが里帰りして一人目を産んだ時に色々と手伝わされた。もうずいぶん前のことだが、意外と覚えているものだな」
「あの生意気な甥っ子一号ね」
アルテミシアは昨年の年末に初めて顔を合わせたサゲンの妹とその子供たちのことを思い出して笑った。妹のミウミ・テレサは母ミクラ・カテリナとそっくりの優しい顔立ちをした肝っ玉母ちゃんで、甥っ子一号のヒオリは八歳の生意気盛りだ。何度もアルテミシアに木刀で勝負を挑み、全ての太刀をいとも簡単に躱されて、最後は頭にコツンと小さな一撃を食らい、敗北していた。
「あれは君が気に入ったからだな。君は子供に好かれる」
サゲンが言っているのは、甥のことだけではない。ナタリアも海賊船に囚われていた時からアルテミシアに懐いていたし、この町の子供たちもアルテミシアが好きだ。
隣の寝室でラウラが泣いたので、アルテミシアは授乳に疲れて眠る母の隣のベビーベッドからそっと赤子を抱き上げて部屋に戻り、サゲンの真似をしてゆらゆら揺らしてやった。
サゲンはその様子をじっと見つめ、無意識のうちに笑みをこぼした。
「何?なんかへん?」
「いや。双子が君によく似ているから、俺たちの子だと錯覚した」
「えっ…」
アルテミシアの顔がじわりと赤くなる。
「…ほ、欲しい?子供」
「そうだな」
「でも、今までと何か違うことをするわけじゃないし、やっぱり自然にできるのを待つしかないかも」
「そんなことはない」
サゲンの目から穏やかさが消え、青灰色の瞳が悪戯っぽく輝いた。
「月のものがない間、毎日すればいい」
アルテミシアはかあっと顔中が熱くなった。
「死んじゃうよ」
サゲンは屈託なく笑ったが、あながちまったくの冗談で言っているのではないことはアルテミシアにはわかっている。
二人は運良く双子の誕生に立ち会えたことで、休暇に来ているとは思えないほど慌ただしい日々を過ごすことになった。シャロンも調子が良い日には赤子の世話を勉強がてら手伝いに来て、アルテミシアと話しながら茶を飲んでいく。シャロンと同様、ヴィンチェンゾも、おしめの替え方やお風呂の入れ方をロベルタやドナから厳しく躾けられていた。アルテミシアとサゲンも同様だ。サゲンは誰よりも筋が良いと褒められ、誰よりも先に修行を終えた。
オアリスへ発つ前夜、アルテミシアは客間のベッドの上でサゲンの口付けを受けながら、双子のことを考えた。
「やっぱり、わたしも子供ほしいかも」
サゲンはアルテミシアの顎と首と手首の内側にキスをして、柔らかく笑った。
「もう双子が恋しくなったか?」
「それもあるけど、ちょっと違くて」
サゲンは布団の中でアルテミシアの素肌を愛撫しながら、ごろりと肘をついて手に頭を乗せ、横たわった。
「あなたの、子供が見てみたいなって思っただけ」
「そうか。俺は君の子が見てみたいな」
アルテミシアは幸せそうに目を細め、再び折り重なってきたサゲンの裸体をしっかりと抱き締めた。
「認識は一致したな」
「オアリスに戻ったらまた忙しくなるから、あなたの‘毎日計画’はしばらく無理そうだよ」
「じゃあ、今夜のうちにじっくり愛し合おうか、奥さん」
「ふふ」
アルテミシアが喉の奥で笑った。
愛に満ちた嵐のような行為の後、両親の寝室から聞こえてきた赤子の泣き声で二人は同時にベッドから下りようとした。考えてみれば夜中の授乳の時間だからマルグレーテとジュードが面倒を見ているはずだが、ここ十日ほど、日中は一緒になって世話をしていたから、反射的に身体が動くようになってしまっている。
二人は顔を見合わせて笑い、もう一度ベッドに潜り込んだ。
それが実際に二人の日常になるのは、もう少し後のことだ。
ともあれ、サゲンはアルテミシアの柔らかい身体を抱き締めて、トーレでの最後の夜を過ごした。誰かの通詞でもなく誰かの上司でもないアルテミシア・ジュディットは、花の香りを漂わせてサゲンの腕の中にいる。
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