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【番外編3-4】雪と太陽の愛すべき事情 IV - Le circostanze dell'amore IV -
エラは翌朝、キィッとどこからともなく聞こえてきた鳥の鳴き声で目を覚まし、ガバ!と飛び起きた。
「うう…」
やってしまった。
頭が痛い。エラはズキズキと悲鳴を上げる頭を抱えながら、ついさっきまで見ていた夢を反芻した。イグリが何度も、優しく唇を重ねてくる夢だ。
最初の一回は夢ではなかった。それは確かだ。その後のやり取りも、なんとなく記憶にある。だが、それを覚えていると本人に伝えるべきかどうか、わからない。
もうだめだ。酔っていたからなんて、理由にならない。
イグリが好きだ。とっくに恋に落ちているのに、こんな自分が恋なんかできないなどと今更理由を付けて目を背けられるわけがない。
「どうしよう…」
胸が苦しい。
エラが覚えているイグリの最初の姿は、恋に傷付いて落ち込んでいた姿だ。それでも恋敵のサゲンの元で職務に懸命に励むのを見て、この人はチャラチャラしているように見えて実直で献身的で、正義感が強いのだと思った。だから、陽気に軽口を叩く姿も、女性に対して軽薄な態度を取る姿も、どこか可愛く思えてしまう。
エラにとって男という生き物は、ここ数年はずっと恐怖と支配の象徴だった。可愛いだなんて、思ったことはない。多分、海賊船から救出されたときに最初に知り合った男性がイグリやリコだったから、今も普通に男女入り交じる環境で生活できているのだろうと思う。
イグリは不思議だ。つい甘えたくなってしまう温かさを持っているし、守ってあげたくなるような弱さも隠し持っている。格好付けたがりだから本当は誰にも気付かれたくないのだろうが、時々そう言う部分が見えると嬉しくなる。そして、それを知っているのがわたしだけならどんなにいいだろうと、そう思ってしまう。
鳩尾がきゅうっと締め付けられ、普通に呼吸することができないほど胸が痛い。
(どんな顔で会ったらいいの)
エラがベッドの上で膝を抱えていると、ノックの音がして間もなくこの屋敷の使用人らしき紺色のこざっぱりしたドレスを着た中年の女性が入ってきた。女中はふくよかな顔に優しい笑みを浮かべて朝の挨拶をし、礼儀正しく挨拶を返したエラににっこりと笑いかけた。
「お湯殿と、お召し替えの準備ができていますよ。お嬢さま」
「お、お嬢さま…?」
エラは愛想笑いをして首を傾げ、一瞬の後、自分のことだと理解した。
この後エラは湯殿でしっかりと洗われ、香油を塗られ、髪や爪をピカピカに磨かれた。貿易で財を成したアガタ家の客人に対する歓迎の仕方なのだろうかと思い、大人しくされるがままになっていたが、愛人として囲われていた老貴族の屋敷でも着たことのないような値打ちもののドレスを用意された時には、さすがにおかしいと思った。
「人手が必要って、何?このドレスは?わたし、手伝いのために呼ばれたんじゃないの?」
イグリの自室を探し当ててエラが詰め寄ると、イグリはエラの声が聞こえているのか疑わしい様子で目を見開き、クラバットを結んでいた手を止めた。蔦模様のある煉瓦色のベストが、華やかなイグリによく似合っている。
「わぁ、エラ…」
エラが着ているのは最新の流行のドレスで、もともと細身でスカートの広がりが少ない伝統的な形を踏襲しながらも、広く開いた背にリボンの編み込みを施し、更にサテンのスカートの裾に襞を多く作って華やかさを増し、その上からチュールレースが柔らかく重なっているものだ。ドレスの淡いピンク色がエラの肌や髪の色によく合い、ふんわりと開いた大きめの袖はそこから伸びる腕をほっそりと見せて、大きく開いた襟から覗く細い首に掛かった銀の華奢なネックレスといつもと違う色使いの化粧が、エラの貌をいつもより大人っぽく仕上げている。
「…すごく似合うよ。めちゃくちゃきれいだ」
ボッ。と顔が熱くなった。
「あ、ありがと。……じゃなくて!これは何?なんだか、ちゃんと測ったみたいにわたしにぴったりだし…」
「君のドレスを作るのに必要な寸法をケイナに聞いたんだ」
イグリはまだちょっとぼんやりした様子でエラを眺めながら言った。
「ええ!?」
「ああ。安心して。紙に書いて封筒に入れてもらったやつを仕立屋に送っただけで、俺は見てない」
「そ、それなら…」
エラはあからさまに安心した様子でほっと息をついたが、すぐにハッとして顔を上げた。
「違う!だから、そうじゃなくて、これは何のためのドレスなの?人手がいるから手伝いに来て欲しいって話だったわよね?」
「へ?」
と、イグリは気の抜けた返事をした。
「昨日言ったじゃないか。叔父が親族や仕事仲間を呼んで新年を祝う舞踏会を開くんだって。実家に帰る前に、俺のパートナーとして一緒に出席してもらいたかったから君をここに連れてきたんだ」
「き、聞いてない!」
「言ったよ。君も‘いいよ’って」
「言ってないわ」
「言ったよ。それも親戚がみんな見てる前で。…あー、まあ、君が目を回す直前だったから、覚えてないかもとは思ってたけど…」
イグリはちょっと悪戯っぽい笑いを見せてエラの手を握り、おもむろに跪いた。エラは驚いて後ろに下がろうとしたが、それよりもイグリが手の甲に口付けする方が早かった。ぴりぴりと妙な熱がそこから伝わっていく。
「俺と舞踏会に出てくれますか?美しい人」
ぎゅう、と、心臓が鳴るのが聞こえた気がした。もう頷くしかできない。エラは言葉も出せずにコクコクと首を縦に振り、「やった!」と喜んで抱き寄せてきたイグリの腕の中に大人しく収まった。
舞踏会が始まると、エラの想像以上に多くの人がアガタ邸へやって来た。豪商の舞踏会でこれほど目が回りそうなほどだから、今頃アルテミシアが主役の一人として参加しているバルカ子爵家の宴はもっとすごいことになっているだろう。まあ、彼女のことだから、きっといつも通り愉快に過ごしているに違いない。
誰だかよく分からない親戚や軍関係の偉い人たちと陽気に酒を酌み交わすアルテミシアを想像して、エラはちょっとおかしくなった。
「楽しそうだな。何か面白いことがあった?」
隣でエラをエスコートするイグリが問いかけた。
「ミーシャのことを考えてたの。きっと今頃――どうしたの?」
エラは首を傾げた。イグリがあからさまに不機嫌な顔をしたからだ。
「俺といるのに、他のこと考えるなよ」
「えっ…」
この時、顔を伏せるべきだった。頬が熱いから、多分見た目にも分かるぐらい赤くなっているはずだ。でも、それよりイグリのむくれ顔から目を離したくなかった。
「他のことって、ミーシャのことよ」
「でも、君はいつもミーシャのことを考えてるだろ。せっかく離れてるんだから、俺と一緒の時くらいは俺のことだけ考えて」
エラはイグリの青い目を凝視した。夏空のような青い瞳の奥で炎が燃えているのを見た気がした。同時に、唇が触れ合った感触が蘇って、身体が熱くなった。なんだか急に目を合わせていられなくなる。
この時、横から招待客の一人でもあるリコが声を掛けて来たので、エラはほっとした。エラはリコに飲み物を選んでもらうなどとちょっと苦しい言い訳をしてリコの腕を引き、ワイワイと広間へ集まる招待客の間を縫ってイグリから離れた。
「昨日、寝ちゃったんだって?」
とリコが出し抜けに訊いたので、エラは頓狂な声を上げた。
「へぁ!?なん…何のこと?別に、そんな――そんなことは何も…イグリとは別に…」
リコは眉を寄せて首を傾げた。
「…オビ・カイおじさんから君が昨日酔っ払ってダンスの間に寝ちゃったって聞いた話をしたんだけど、…何?イグリと何かあった?」
ハッ。とエラは我に返って、通りかかった給仕係の男性からホットワインのグラスを受け取った。リコも同じものをもらって、給仕係が去ると、じわじわと顔を赤く染めるエラにニヤリと笑いかけた。
「まあ、リコ兄さんに話してごらんよ」
エラはグビ、とワインを多めに一口飲んだ。
楽隊の演奏が始まった頃、エラとリコは煌々と輝く広間の大きな窓を背に、冷たい風が吹く庭園のベンチに腰掛けてホットワインを飲んでいた。
「ははぁ」
リコはちょっとおもしろそうに言い、暖かな茶色い目を細めてエラを見た。
「おもしろいことになってるね」
「おも…?やめてよ。真剣に悩んでるのに」
エラが膨れると、リコは可笑しそうに笑った。
「いや、ごめん。イグリがさ。こんなに女性に振り回されるのは初めてだから」
「そんなことないわ。ミーシャの方が振り回してたもの」
「ああ、ミーシャ?うーん…」
リコは言葉を探すように空を見上げた。天気が良ければ夕暮れの美しい時間帯だが、生憎今は厚い雲が漂っている。
「うまく言えないけど、あいつ、変わったよ。ミーシャに本気で恋してから、どうやって人を想うのかとか、女性を遊び相手じゃなくて恋人としてどうやって大切にしたらいいかとか、ちゃんと考えられるようになったんだと思うんだ。幼馴染みから見ればね。だから今エラに恋して、そういうことを今までで一番必死に考えてるよ。エラは、あいつがまだミーシャに未練があるように見える?」
「見えるわ。時々」
「ハハ。まあ、身から出た錆びだよなぁ」
リコが心底楽しそうに笑った。
「でも、わたしのこと大切にしてくれてるのはわかるわ。それがどこまで本気なのか分からないの。わたし――」
エラは冷たくなった手のひらを温めるようにホットワインのグラスを包み、緊張を逃がすように息をついて、続けた。
「わたし、イグリが好きだから、もし彼にかわいそうだとか、ただ放っておけないって言うだけで好意を向けられてるとしたら――」
「だったら、いや?じゃあどういう気持ちならいい?」
リコは寒さで赤くなったエラの頬をチョンとつついた。
「君は頭がいいから相手がどんなことを考えてるかって考えて行動するのは得意だよな。でも、自分をどういうふうに思って欲しいとか、相手にどうして欲しいとか、考えたことはある?それを相手に伝えたことは?」
エラは目を丸くして首を振った。そう言えば、あまりないかもしれない。家族と暮らしていた頃は、裕福とはとても言えない家の長女だったから両親が働いている間はずっと二人の妹の世話をしてわがままを聞いていたし、親戚に娼館へ売られてからは、相手の要求を聞くことしかしていなかった。最近の一番大きなわがままは、救出された直後、アルテミシアに「イノイルで暮らしたい」と願ったことだ。それが叶った後は、それ以上の望みなどないと思っていた。
「君を心から大切に思う人はみんな、君の望みを聞けるのが嬉しいんだよ」
つ、とエラの目から涙が溢れた。
「ああ、だめだめ。せっかくの化粧が崩れるよ。泣かしたって知られたらあの珍獣に殴られる」
「珍獣?」
「もちろん、イグリのことさ」
エラが声を上げて笑った。
「戻ろうか、お嬢さん。ここは冷える」
リコがスッと立ち上がり、腕を曲げてエラを促した。
「そうね」
エラはリコの腕に掴まって、共に広間へ足を向けた。
「リコって大人」
「君より六年早く生まれた分の経験があるだけだよ。それでもお菓子を美味しく焼くのは君に一生敵わない。そんなもんさ」
「そういうところが大人。尊敬するわ」
「光栄だね。さて、僕たちも踊っておく?」
暖かい広間へ戻ったリコは給仕係に空になったグラスを二つ渡すと、機嫌良く笑ってエラに片手を差し出した。
「ううん。イグリを誘ってくる」
「そうこなくっちゃ」
リコは嬉しそうに言ってエラの背中を見送った。
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