一、大陸の孤島 - un’isola della Regina -

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 それから更に百年余りの時が経ち、現在のイノイル王国はオーレン王の曾孫であるイサ・アンナ女王の統治下にある。  女傑である。  イサ・アンナはイノイル・シトー王朝三代国王アキネ・フィオリノの三女として生まれた。イノイルは前王朝の時代から長男相続を常としていたが、アキネ王は男児に恵まれず、先に生まれた二人の王女たちは政治に関心を持たなかった。アキネ王が晩年、病床に臥した折に見事代理を務めたのが第三王女イサ・アンナだった。幼少の頃から政治学や算術のほか武芸にも秀で、他の姫たちがおしゃれや芸事に夢中になる年頃には国政や外交の勉強に勤しんだ。そういう姿を見てきた譜代の家臣たちは、天命を悟ったアキネ王が三女に玉座を譲ろうとした時も女だからと言って異を唱える者はほとんどおらず、むしろみなそれが当然であるかのように受け入れた。  シトー王朝三代アキネ王が崩御すると、イサ・アンナは二十七歳の若さで初のイノイル王国女王として即位した。女王となった彼女が最初に取り掛かった仕事は、大海賊団を排除することだった。海賊団は、東の海上にしばしば現れては交易品や船員、乗客を奪い、イノイルを始め、東の海を渡るあらゆる国々に大きな損害を与えていた。この時周囲の者たちが大いに驚いたのは、女王自らが船首に立ち、討伐に乗り出したことだった。イサ・アンナが盟主となって周辺諸国のルメオ共和国、アム共和国、エマンシュナ王国と連合軍を結成し、諸国の老練な指揮官たちとともに自らも陣頭で指揮を執り、海賊団の一掃に成功した。即位してから五年目のことだった。  このことが若きイサ・アンナ女王の名声を世に知らしめ、彼女は東西諸国の国主たちからも一目置かれる存在となった。以来、諸外国との貿易同盟は更に堅固なものとなり、イノイル王国はますますの発展を遂げている。    晴天の日、イサ・アンナ女王はエマンシュナ国王レオニードとの会見の帰路にあった。イサ・アンナは従者の諫言を無視し、馬にも乗らず、初夏の陽射しを気にも留めずに港の脇の街道を歩いている。先程従者が差し出した日傘を忌々しげに拒否したばかりだ。  まったく不本意な会見だった。 (あのじじい)  女王は柳眉を歪めた。  黒く形の良い眉が白い肌によく映え、遠目から見てもその不機嫌な表情がよく分かる。  イサ・アンナは、父子ほども年の離れたレオニード王とのやりとりがあまり好きではない。レオニードは温厚で篤実な男だ。そのくせ、飄々として人を煙に巻くのが巧い。とても芳しいとは言えない東の海の情勢に関して、「すべてイノイルに任せた」とまるで買い物を頼むような気軽さで言われてしまったのである。「その力をもってすれば海上に敵なし」とまで言われては、殊勝にも引き受けるしかない。  この手の外交は得意なほうだが、やはりレオニード王が一枚上手だ。殊更それが癪に障る。  実のところ、大海洋国家のイノイルも、東の海を荒らしまわる海賊の新興勢力には手を焼いている。大海賊団を制圧したのは既に十年以上前のことだが、その残党が新たに徒党を組み、力をつけ、ウェヌス大陸の大国エル・ミエルド帝国の内乱と政治混乱が手伝って、にわかにその活動範囲を広げているのである。  海賊はそれぞれ一人の首領が自分の手下を従えて一つの党を形成しているが、それらのうち最も大きな党の首領はカノーナスと呼ばれ、元締めとして彼らを統率している。土地を持たない一種の連邦国家のような集団で、忌々しいほど戦が巧い。その上、決して尻尾を掴ませない。先頃派遣した討伐隊は、一応は勝ったものの多くの死傷者を出し、イノイル軍としても大きな痛手を受けた。    女王は腰まで伸びた絹糸のような黒髪を海風に晒し、白い麻のドレスの裾を邪魔くさそうにバサバサと蹴飛ばしながら歩いた。裾に施された波模様の刺繍が金色に光りながら足元に舞っている。  ――外交官が必要だ。  それも女王付きの通詞として同行できる上、機転が利いて海に精通している者が。護衛までさせるつもりはないが、いざとなれば自分の身を護れる程度に武術にも長けていれば、なお良い。  今宮廷にいる外交官は、みな優秀ではあるが、精神がやや軟弱か強硬すぎるかのどちらかしかおらず、同盟国や敵対する国々との交渉は任せられても、国家としての大義名分などを持たない海賊団などとの交渉に使える者はいない。どの者もイサ・アンナのすべての要求を満たさないのだ。育ちが良く優秀で勤勉な外交官なら、腐るほどいる。どうせ選ぶならもっと泥臭い者がいい。海を知り、海の人々をよく知っている者が。  大海賊団の制圧から十年、イサ・アンナは同じ自問を繰り返している。 (そのような都合の良い者が、浜にでも落ちてはいまいか)  イサ・アンナは憂鬱な気分で、せわしなく働く船乗りたちの群れに目をやった。
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