五、森の屋敷 - la dimora nella foresta -

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五、森の屋敷 - la dimora nella foresta -

 アルテミシアは浴槽に浸かりながら今日その身に起きたことを考えていた。 (大変なことになった)  六年間ともに旅をしてきた仲間と別れ、一介の船乗りから一国の外交官になろうとしているのだ。しかも下宿先の家主にはまったく信用されていない。半ば衝動的に船を降りたようなものだから、時間をおいて冷静になればなるほど先のことが不安になってくる。しかし、長旅の疲れとおよそ半年ぶりの温浴がアルテミシアから思考を奪っていった。馬に乗った経験もないのに三時間以上も馬上にいたせいで、尻は痛いし関節もなんだか変な感じがする。  船上では海へ入るかせいぜい体を拭うぐらいしかできないし、入浴が許されるのは寄港の際、しかも時間に余裕のある時に限られていた。一年に数回あるかどうかというところである。バルバリーゴ家には浴室はあったが浴槽は無かったから、快適で清潔な場所ではあったが入浴とは言えない。船の暮らしは田舎の小貴族の生活よりも何倍も面白かったし、陽気な仲間たちも大好きだった。しかし、ただひとつの難点がこれだ。ルメオの実家にはあまりいい思い出はないが、そこに設えられていた昔ながらの浴室が子供のころから大好きだったのだ。  ぶくぶくと鼻から泡を出しながら頭のてっぺんまで湯に沈むと、父親の屋敷の浴室にいるような錯覚を覚えた。白い大理石の壁、重厚な陶器の浴槽に、ハーブの香りの湯――しばらく絶妙な湯の温度を頭まで堪能した後、湯の中からざばっと起き上がった。  目の前には、あたたかみのある薄い色の木の壁に、大きな木の浴槽。浴室に蒸気が立ち込めると、心地よい杉材の香りが室内に充満し、開け放たれた小窓からは森の香りが漂ってくる。 「んんー」  両腕をぐーっと上へ引っ張り、身体を伸ばした。どういうわけか、記憶にある生家や幼少期を過ごした屋敷の浴室よりもずいぶんと安心感がある。いまのところ屋敷の主人は鼻持ちならないが、正直、浴室は最高だ。  浴室だけではない。森の奥の神殿のような佇まいを見せるバルカ将軍邸は、一見重厚な石造りだが、扉を開けて中へ入ると、内部の壁や廊下はほとんどが暖かい色味の木でできている。大きく開けた天井の高いエントランスには森の風が良く通り、そこから左右に別れた奥の廊下を進むと装飾の少ない杉の引き戸や軽やかな簾で部屋がいくつも仕切られて、雅やかな空間になっていた。こんな屋敷は他のどの国でも見たことがない。イノイル独特の様式なのだろう。素晴らしい建造物だ。  この屋敷に住む間の居室としてアルテミシアが案内された客間は、屋敷の南側の廊下に位置する大きな四角い窓と丸い天窓のある部屋で、低いベッドと小さなワードローブが設えられている他は殆ど何も置かれていなかった。普段は使われていないからだろうが、簡素で余計なものがないのもアルテミシアの好みに合った。 (認めたくないけど、バルカ将軍とは趣味が合う…)  女王に仕えると決めた以上、信用されていようがいまいがあの無表情な大男と上手くやっていくほうが賢明だ。「上手くやる」の定義にもよるが。二人仲良く肩を組んで陽気に歌うようなことを「上手くやる」と言うなら、多分不可能だ。最低限の礼儀をわきまえた関係ならば、まあ可能だろう。問題はどうやって不信感を拭い去らせるかだが、あの男の態度を考えると、なかなか難しそうだ。 (その前に、馬の乗り方を覚えなきゃ)  明日からのことは、明日考えることにした。とりあえず、今はこの怠惰な贅沢に身をゆだねたい。 「気持ちいい」―― 「…、…ンド」  どこからか聞こえてくる声と、ドンドンと何かを叩く音で、アルテミシアは意識を取り戻した。 「リンド!」 「わっ」  地響きが起きたかと思うほどの大音声だったから、アルテミシアは驚いて木製の浴槽の中で足を滑らせ、頭のてっぺんまで湯に沈んでしまった。そしてこの時初めて、自分が入浴の最中に眠ってしまっていたことに気づいた。  今度は戸の前にいたサゲンが驚いた。バシャッと大きなものが沈んだ音がしたから、慌てて浴室の杉戸を引き、中へ入った。 「大丈夫か」 「ぷはっ!だいじょう…」  アルテミシアは酸素を求めて湯から立ち上がり、返事をしようとしたところで状況に気づいた。  言葉を失い、呆けた顔のまま一人だけ時が止まったように固まってしまったアルテミシアを見て、サゲンは口元をひくつかせた。 「無事ならいい。失礼した」  笑いをかみ殺しきれず、フッと笑みをこぼして浴室を出て杉戸を閉めた。 「着替えを置いておくから、使うといい。先ほど陛下の遣いから届いた」  アルテミシアはあまりのことに声を発することも忘れてしまった。  夕食の席で、アルテミシアは終始むっつりしていた。山菜がふんだんに使われた森の料理はどうやら気に入ったようで黙々と食べ進めていたが、肝心の感想は何一つない。 「おい、うちの料理番が客人のために腕を振るったんだ。もう少し旨そうに食え」 「おいしいけど、そういう気分じゃない」  事実、おいしい。女王の使者から届けられた綿の簡素な室内着も、ほどよく厚みがあり生地はパリッとしていて、着心地はとても良い。だが、そのことに言及するのも億劫な気分だった。 「言っておくが、俺に落ち度はないぞ」  サゲンが見兼ねて言った。 「わかってる」  アルテミシアも理解はしているが、本人にとっては、問題はそこではない。 (裸を見られた…)  六年もの間、男だらけの船に乗っていても、そんなことは起きなかった。別段ほかの船乗りたちを警戒していたわけではなかったが、自分がたった一人の女だということは認識していた。だから、船の雰囲気を壊さないよう、一種の礼儀として振る舞いには注意していた。例えば、暑くてもなるべく肌を晒さないとか、女っぽい服装をしないとか、そういったことだ。とは言え、船の仲間に言い寄られたことなど一切なかったから、変な気を持たれないようにというよりは、女だからと軽んじられないように、という理由の方が大きい。 「忘れて」  と、アルテミシアが絞り出すように言った。羞恥に耐えているというより、大きな失敗を悔やんでいるように見えたから、サゲンはますますおかしくなった。こういう時の反応は、普通なら前者だろう。 「もう忘れた」  笑いをかみ殺してそう言ったのはサゲンなりの気遣いで、事実は違う。  顔と肘より下の腕は小麦色をしているが、豊かとまでは言えないまでも美しい形をした胸と二の腕は白い肌をしていて、その皮膚の下に付いたしなやかな筋肉は船上での働きぶりを物語っていた。白いと言っても、生白いとか、青白いとかいう白さではない。血色が良く、陽光によく映えそうな白さだ。どことなく森を軽やかに走り回る雌鹿を思い出させた。 (いい身体だった)  今まで見たどの女性の裸とも違っていた。好色な目で見ているわけではなく、――全くそういう意図がないとも言えないが――軍人のサゲンから見て、健全で好感が持てるということだ。が、口に出せば十中八九気を悪くするだろうから言わないことにした。 「リンド、明日登城だ。陛下の命で、俺が君を馬に乗せてくるよう言われている」 (はいはい、すみませんね)  アルテミシアが心の中で舌を出したのは、サゲンの言葉の最後の方に迷惑そうな響きが混ざっていたからだ。 「軍の訓練があるから、早朝出なければならない。よく休んでおけ。謁見までは時間があるから、他の者に城を案内させる」  これは部下に対する言い方だ。アルテミシアは鼻に皺が寄りそうになるのを我慢した。 「何時?」 「四時だ」 「早いね」 「これでも千人の隊を持っているんでな」 「…思ったより偉い人なんだね」  アルテミシアは腕組みをして暫く考えた。 「城の案内はいらない。謁見まで訓練を見学したいから」 「いいだろう」 サゲンはわずかに唇の端を上げた。
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