夏に舞い散る、白き羽

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 この年、全国的に長雨を引き起こしたあげく、別地では八月六日には大洪水を引き起こす。  さらに冬には夏とは打って変わって、極端な暖冬となり、農作物に大打撃を与えていた。  翌年は、蝦夷(えみし)伊予之二名島(いよのふたなしま)で、凶作になり、都、鎌倉には流民が集中し、餓死者が増加の一途をたどることになる。 寛喜三年(西暦一二三一年) 某日 鶴岡八幡宮(つるおかはちまんぐう) 「これで、少しは良くなると良いのだがな」 「そうですね、あまりに長く続いては、死者が増えるばかりか、残った人たちも疲弊していしましますから」  この年、鎌倉幕府、北条泰時(ほうじょうやすとき)は事態を重く見て、備蓄米を放出した。そしてここ鶴岡八幡宮で国土豊年(こくどほうねん)祈願(きがん)を行うに至っていた。  だが、それでも事態収拾に至らぬ為、翌年、年号を貞永(じょうえい)へと改めるも、飢饉(ききん)が収まる気配が無く、数年後には、幕府は、異例の人身売買を認める処置まで行うことになる。  それによって、妻子だけに飽き足らず、自分自身までも売り出す者が出る事になってしまう。それは、以後の混乱も引き起こすことになるが、それはまた別の話である。  この飢饉がいつ収拾したのかは、定かではないが、数年は続いたとみられる。    これら一連の騒動は、鎌倉時代最大の飢饉。  後に「天下の人種三分の一失す」とまで語られる規模に至る「寛喜(かんぎ)飢饉(ききん)」とよばれるものになり、歴史の片隅に記録されることとなった 。
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