第16話 あぶく銭の使い道

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第16話 あぶく銭の使い道

 一連の辻斬り事件が終息し、下手人と思われる者も焼け死んだと思われた。  思われたと言わざるを得ない、はっきりしない結末は尻の座りの悪いものではあったが、事後、辻斬りの発生はなく、ひとまずの決着を見たのである。  舩坂少佐率いる面々も、赤煉瓦倉庫に集まって緩いひと時を過ごしていた。  少佐が出かけているため余計に緊張の糸が解け、何をするでもなく、それぞれ思い思いに過ごしていた。  千代に至っては、西洋に関する知識を深めるためと称して、少佐秘蔵の洋酒を勝手に開け、一人で酒宴を開く有り様。食堂のテーブルについて、しどけなく杯を進めている。 「正三、あんたもちょっと舐めてみな」 「結構です。呑めないの知ってるでしょう?」 「そう言うなって。これからは洋酒も知らないと、時代遅れのカチカチ頭になっちまうぞ」 「そんなこと言って。ちょっとでも舐めたら僕も共犯にするつもりでしょう。分かってますよ。勝手に洋酒を開けて、少佐に怒られても知りませんからね」 「なんだよ。堅いこと言うなよ。正三よぉ」 「ちょっと、抱きつかないでください。酔ってるんですか」 「嬉しいくせに、この、この。知ってんだよ。辻斬りに襤褸ぼろにされた時、お前、あたしのことをじろじろ見てただろ。そんなに色っぽかったかい?」 「な、何を言うんです。見てやしませんよ」 「嘘つけ、助平野郎め」 「違うってのに」  と抗議する口に、千代が洋酒の瓶を突っ込んだ。正三が目を白黒させていると、裏口から帰ってきたのが舩坂和馬少佐である。下戸の正三、驚きと慣れない洋酒にむせて、しこたま酒を吹きかけた。  千代はもちろん、哀れ正三も、土間に正座の上、延々と説教を喰らう羽目になった。やがて説教のさなかにも、千代が気持ちよさそうに寝てしまうと、さすがに興醒めしたのか御叱りも終わりとなった。   「まったく、余計なことに時間をかけた」  後悔した様子の舩坂少佐がいう。 「辻斬りの件で賞詞をいただいてな。貴様らの働き、褒めてやろうと思って帰ってきたところが、これだ。十五郎、きちんと監督せんか!」  とばっちりが回ってきそうになって、十五郎が慌てていう。 「今回の件、上はどう見ているのです?」 「どうもこうもない。警察では手に負えぬ人斬りを我々が始末した。それだけだ」 「下手人は死んだと?」 「そういう判断だな。火事は激しいもので、一部の遺体を除いて、ほとんど消し炭状態だったらしい。その後、事件は起きておらんし、ここらで幕を引いておきたいのだろう。  上の連中は、他にも抱えている案件が多い。こんなことに、そうそうかかずらっておれんのさ。私が書いた報告書も意に沿うものであったしな。思うところはあろうが、組織というのはそんなものだ。褒賞金も出ている。金一封、ありがたく貰っておけ」 「俺が目覚めた時には、すべて終わっていました。辛うじて、火に巻かれながら逃げていく辻斬りの姿を遠目に見ただけです。これは頂けません」 「遠慮はいらん。悪いが、大半は抜かせてもらった。千代の着物を新調せねば毎日うるさくてかなわん。残りはたいした額でもない。  正三を連れて、そうそう、今回の件で恐い思いをさせた神尾の娘さんも連れて牛鍋でも食べてくるんだな。ついでに洋酒を買ってきてくれ。ブランデーなら何でもいい」 「では、ありがたく頂戴します」  その頃、牛鍋は庶民でも無理をすれば食べられるほど広まっていた。浅草、上野界隈に店が多く、有名どころは、米久、今半御殿、韻松亭、江知勝、ちんやといったところ。なかでも今半御殿は大浴場付きの高級料亭の装いだ。  奮発して今半御殿にするかと思ったが、風呂は不味いなと思い直し、結局、米久へ行くこととした。
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