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第17話 八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ
さて、場所はすでに米久である。
浅草公園界隈、浅草十二階とも言われる凌雲閣に程近いところ。人通り多く賑わう街中、無数の提灯を掲げた店に入ると、どんと大きな太鼓の音が響く。雑多な人々でごった返し、店自体が人間の鍋物といった風情。夏でなくとも、もうもうと暑かろう。
牛肉の匂いが鼻をくすぐる。
十五郎、正三、琴葉と三人で案内された席に着いた。軍服姿の十五郎がいたためか、ごった煮の中から少し離れ、落ち着いた場所である。席に着いた琴葉に、十五郎が声をかけた。
「その格好では暑かろう。被り物を取るといい」
「あい、すみません。まだ春先と言うのに、これほど暑いとは思いませんでした」
琴葉が帽子を取ると、豊かな黒髪が流れ出し、電灯の黄色い光を打ち返して煌々と艶やかに。
出会ったときと同じ男装で、控えめに髪を整える様子は目を奪うに足る秀麗さ。もうもうと湯気立ち込める中、そこだけすっきりと切り取られたよう。十五郎の視線に気付いて、俯きながらいう。
「この格好の理由をお話しする約束でしたね」
「約束ということもない。訪ねて行ったところがその格好で、ちと気になっただけさ」
と言う十五郎に続いて、正三が口を挟む。
「いや、僕は大いに気になります。こんな可愛らしいお嬢さんが、なぜ少年のような格好をしないとならんのです?」
問われて琴葉が、ちょっと困ったようにしながら話しだした。
さて、なにからお話ししたものか。
神尾の屋敷は敷地も建物も広く、おかしな増改築を繰り返し、隠し部屋、地下室、屋根裏など、部屋数も無数にあります。ですが、もはや士族の華族のという時代でもなく、当家も内情は寂れたものです。
分家の方々は別として、本家に住んでいるのは私と祖母の二人だけ。祖母の世話をするために、日中は叔母様が通ってきておられますが、夜はなんとも言えぬ心細さです。え? 用心のために男装を? いえ、そういうわけでは御座いません。
あ、お肉とざくが運ばれてきましたね。では失礼しまして。これでも、日々、炊事もしておりますので御任せいただけますか。
今日は御招き頂きありがとうございます。外で食べることなどありませんので、はしたないと思いつつ、祭りの日のように楽しみにしておりました。
祖母は昔気質の方ですから、私が殿方と牛鍋を食べに出かけたと知ったら卒倒するかもしれませんね。もちろん、今日のことは内緒です。ふふ。情が深い反面、恐いところもある方ですが、さすがに歳を取って来て儚いようなところも出てまいりました。この格好をしているのもそのためです。
あ、変わった匂いがしてきました。鳥鍋とはまた違いますね。
さあ、どうぞ。お取りしますよ。まあ、そんな急いで食べなくても。まるで誰かに取られるかというような雰囲気じゃありませんか。はあ、道場で大勢の門下生と食べる時は稽古の時より気合が入っていたですって? ふふ、私は、いつも一人で食べてましたから、羨ましいですよ。
あら、美味しい。おばあ様にも食べてもらいたい。でも駄目でしょうね。牛肉なんて食べるものじゃないと言われてましたし、歯も弱ってきてますから。
すみません。要領を得ない話をしまして。
この格好、結局、祖母の衰えによるものでして。私の父は若くして亡くなり、そのことは祖母にとって何よりも耐え難いことでした。
それでも、これまでは気丈に、悲しみを忘れたように本家を守って来られましたが、寄る年波には勝てず、ある時から父の姿を探して歩き回られるようになったのです。父のこと以外ではしっかりされているのに、それだけが。
いくら父はもうこの世にいない、私が残された孫だと伝えても聞く耳持たず、悲痛な声で父の名を呼びながら屋敷の内外を探して歩くのです。
私のことを忘れているようなのは構いません。でも、そんな祖母の様子を見るのがつらく、考えた結果の男装です。
雰囲気は母に、顔立ちは父に似ていますので、何か感じさせるものがあろうかと思いました。もしかしたら、孫であることを思い出してくれるかもしれないとも。実際には私のことを思い出してはくれませんでしたが、父の子供の頃のことを思い出したのでしょう。祖母の中では、私は子供時代の父です。
後妻の子として、冷たく当たられていた神尾家において、祖母は先妻の子や分家の子と同じように接してくれました。決して優しいとか温かいというわけではありませんでしたが、皆人、平等に厳しく、しかし、心根の深いところで接してくれたのです。
ああ、いけませんね。なぜか涙が出てきました。うす割の代わりになりますかしら。ふふ、ちょっとしょっぱくなってしまいますか。
そんなわけで、こんな格好で、はしたなくも牛肉を食べております次第です。
「おばあ様は、過去に囚われて生きておられます。そうしたのは私であるやも知れず、しかし、そうしてでも日々を穏やかに過ごしてもらえれば。そう思うのは私の勝手な押し付けなのでしょうか」
「いや、自分を殺しての優しさ。天晴れと思う。俺も爺さんの最期を看取って東京へ出てきたが、自分のことしか考えてなかったよ」
「僕も、琴葉さんは立派だと思います。それに、男装でも妖しいほどに素敵ですよ」
と正三に言われて、琴葉はそっと俯くと嬉しそうに笑った。
「お二人とも、ありがとう御座います。ずっと、どこか後ろめたい気持ちがありました。今日も美味しく牛鍋なんて食べていて良いのかと思って。でも、美味しいものを食べて、笑っていても良いのですね」
「もちろんだ。人を幸せにしたいなら、まず自分が幸せであることだ」
力強く頷く十五郎に、湯気の向こうから琴葉が微笑み返した。湯気がまいて口元しか見えない笑みが、ふと懐かしい思いをもたらした。
顔の見えないその笑みを、遠い昔、幼い頃にも見たような気がしていた。どこで見たかと考え始めた時、正三が努めて明るい声を出した。
「さあ、じゃあ今日はしっかり食べて幸せになりましょう。どれだけ食べても大丈夫です。なんせ、立派な財布がついていますから」
「おい、そりゃ俺のことか」
「もちろんです。それだけ幸せでなきゃいかんと断言したからには責任とってもらいますよ。あ、給仕さん、牛肉追加で」
楽しげに注文する正三を、笑いを堪えているのか、琴葉が口元を抑えて見守る。その様子を見て、十五郎は、俺の幸せはどうなるのだと思いながらも、やはり口元が緩んでくるのだった。
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