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第42話 夜、風鈴を鳴らすものは
大磯にある神尾家の別宅へ移ってきて数日、静かに、穏やかに日は過ぎていった。
海へ行きたい行きたいと駄々をこねていた千代が、もう飽きた、帰りたいと不満たらたらであるほかは何ということもない。
そんなある日。
十五郎たちの気持ちも緩み始めたころ。深夜に招かれざる客の訪いがあった。縁側の風鈴がちりちりと警告を発していたが、涼しげな音が響くばかりである。
目指すべき場所を知っているかのように、その客は琴葉の寝室を目指して行くが、襖を開けようとした時、廊下の奥から舩坂少佐が姿を現した。
「そこは御令嬢の寝室だ。勝手なことをしてもらっては困るな」
「やはり貴方ですか」
ふぅと溜息をつきながら言うのは、御高祖頭巾の小高小夜である。
「気付かれぬ自信がありましたが、残念です」
「気付いていたわけじゃない。毎夜、ここで張っていただけだ」
「なるほど、明石様が気にされるだけのことはありますね。一応、聞いてはおきますが、琴葉さんを引き渡してもらうわけには行きませんか」
「そんなわけにはいかん。私の可愛い後輩の可愛い思い人だ」
「人かどうかわかりませんよ?」
「くどい!」
ふわり、小夜が飛び上がり、寸前まで立っていた場所を、ごうとばかりに白刃が走り抜けた。ふふっ、と小夜が笑う。
「この期に及んで峰打ちですか。私は貴方を殺してでも琴葉さんをもらっていきますよ。明石様の望みであれば」
「なぜ一人で来た?」
舩坂少佐の問いかけに小夜の表情が曇った。だが、それも一瞬のことで、さて、なぜでしょうねと呟くように応じると、懐から匕首を取り出して構えた。間合いは短いものの、屋内では有用な武器である。対する舩坂少佐は体を深く沈め、左半身の独特の構え。
とんと床を蹴る音がして、小夜が一気に間合いを詰めた。甲高い金属音が響き、弾き飛ばされた匕首が天井に突き刺さる。
膝をついた小夜目掛けて、舩坂少佐の刀が振り下ろされた。斬られたと思いきや、皮一枚、御高祖頭巾のみが切り裂かれていた。はらりと数本の髪が落ち、頭巾に覆われていた顔が露わになる。大人の色香を感じさせる顔立ちとは裏腹に、その表情はいまにも泣き出しそうな幼子のよう。
首元から頬にかけて、以前は無かった緑色の鱗のようなものが浮かんでいる。暗い屋内で、それは自ら光を放つかのごとく。
小夜の表情と鱗らしきものを見て、舩坂少佐は刀を納めた。吾妻コートを掻き抱くようにしながら両手を握り締める小夜の姿を、じっと見つめていう。
「その鱗、何かの障りか。話してみろ」
「ふふっ、お優しいことで。貴方が頼むに足りる方でなければ、ここで殺していたものを。
それでは申し上げましょう。この鱗、確かに私の背負う業で御座います。と言って、自分の身可愛さに申し上げるのではございません。虫の良い話ですが、明石様を、殺していただきたい」
翌朝、小夜と舩坂少佐が向かい合わせで朝食を摂っているところを見た十五郎らが唖然としたのは別の話。面々に、小夜が話して聞かせるには。
明石様は、元来、お優しい方に御座います。
私のように、障り、呪い、あるいは病か。そういった業を背負った者を救い、最期まで付き添ってくれるのです。
一方で無道なこともされてまいりました。それにはそれの、あの方なりの理由があるようですが、ここで言い訳を並べることもありますまい。
いまは、あの方自身のことです。
我々のような障りをもった者が死ぬと、その障りはまた誰かに憑くとか。それを自らに取り込み、浄化し、滅することが、あの方の生きがい。そう決意させる出来事があったようですが、それは語られない。
これまで、多くの仲間が救われ、また看取られてきましたが、近頃の明石様はまるで人が違ってきたのです。先般も亡くなった仲間の呪いを身に受けておられましたが、悲しいよりも嬉しそうな、辛いよりも楽しそうな様子。意味があろうとなかろうと、必ず歌っておられた魂鎮めの歌も口にされませんでした。
私の障りが顔にまで出てきたのも、ごく最近のこと。鎮めの力が衰えているように思うのです。このままでは、明石様は取り込んできた多くの障りに喰い殺されてしまう。あるいは呪いの苗床にされてしまうでしょう。
それに、私が自分の呪いで死んでしまえば、明石様を見守る者も、看取る者もいなくなってしまう。その前に、どうか、殺してやっていただきたい。
私には無理です。体術も剣術も、すべて明石様に習ったものですし、近頃は障りが進んで、体が思うように動かなくなってきました。
殺さず、救う道ですか。あれば良いのですが、まず無理でしょう。そもそも明石様は、そこな琴葉様を殺し、その呪いを取り込むつもりです。邪魔立てする者も殺し、奪い取るでしょう。何かに魅入られたかのように音なしの呪いを求めておられる。
いいですか。明石様の頭にあるのは殺し合いです。話し合いも何もありません。今日明日にも仕掛けてこられるでしょう。迎え撃ち、打ち倒すほかない。
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