66人が本棚に入れています
本棚に追加
第44話 海に刃物を落とさざるを
追い詰められた明石が隠し鉄砲を使い、とどめを刺さんとしている。しかし、駆け寄ろうとする十五郎を、少佐が再び刀身で制した。
「弱くなったな。昔はそんな物に頼ってはいなかった。貴様ほどの者がなぜ気付かない?」
「何の話だ」
「ものが憑くにも二通り、ひとつは丸ごと、ひとつは徐々に。後者の方が厄介だ。本人は憑かれていることに気付けぬまま、徐々に自分を奪われていく。寄生虫が宿主を操るかのように。
ここにこうしているのは本当にお前の意思か。自分の意思だと感じて、そうではない。音なしの蓋を開けたのはお前の意思か。身中に潜む何者かに開けさせられたのではないのか」
「馬鹿な話を。虫や獣じゃあるまいし、それが寄生虫だろうと呪いだろうと、容易に操られてたまるものか。もう、その口を閉じろ」
狙いをつけ直して明石が引き金をひいた。潮騒を裂いて鈍く重い音が響く。だが、今一度放たれた銃弾は、少佐の刀で弾かれた。
「貴様の腕を信じていたぞ」
ふらりと立ち上がりながらいう。
「眉間を狙ってくることは分かっていた。何者かに操られようと、癖や性格までは変わらんようだな」
動揺を隠せない明石に向かって、一歩踏み込む。
少佐の表情は苦しげで、先に吸い込んだ瘴気の影響も残り、左肩の傷も軽くはない。だが、そんなことはお構いなしに、一歩、二歩、一撃、二撃、明石を波打ち際に追い詰め、終には鉄扇を弾き飛ばした。
刀を最上段に構え、渾身の一撃を放つ。
吹き出したのは瘴気ではなく、鮮血であった。明石を庇うように押しやり、その一撃を受けたのは小高小夜。背中から、ざっくりと切り裂かれていた。
唖然とした表情で膝を折った少佐の横面を、瞬時に拾い上げた鉄扇で明石が張り飛ばした。
「ははは、助かったぞ。小夜、よくやった」
「明石……」
倒れたまま、小さな声で少佐がいう。
「貴様の意思はどこだ? また泣いているぞ」
明石の両目から涙が流れていた。
両目を拭う明石に、有無を言わせず十五郎が斬りかかった。一瞬、対応が遅れた明石だったが、さらりと受け止め、身を翻して波のうちに立った。
波打ち際に倒れた小夜を琴葉が助け上げる。まだ息があり、しきりに謝っていた。申し訳ない、申し訳ない、自分から頼んでおきながら。
十五郎が何度か斬りかかるが、その度に軽くいなされる。少佐とやりあっていた時とは違い、明らかに手を抜いた様子で余裕の表情を見せていた。
「はっはっはっ、どうした、どうした。君の大事な人を護るのではないのかね。果たして、そんな腕前で世の不条理から彼女を護れようか」
嘲るようにいう明石に向かって、激しく言葉を返したのは琴葉であった。いや、琴葉であって琴葉ではない。その身に潜む神尾葛葉である。
「下郎め。醜い口を閉じよ」
「おや、出てきたね。葛葉だったか。名前を与えられ、自分を人と思っている哀れな魂よ。彼岸へ送り返してやろう」
「愚かなことを。名が全て、身が全て、形が全て。私の名は神尾葛葉」
葛葉の差し出した右手が、ぐいと握られる。その先で、明石の周りの海が巻き上がり、その身を包み込もうとする。だが、楽しげに身をよじって逃れるのだった。苛立ったような葛葉が左手を振ると、今度はそこから青白い炎があがり、明石を追う。
合間に十五郎も刀を振るうが、紙一重に避けられ、捉えきれない。
明石の方は、鉄扇と、時折、石礫を交えて十五郎を狙っていた。葛葉を意識しながらも、まずは十五郎、そして葛葉と順番を見据えている。それだけ追い詰められたように見えながら、余裕がある証拠だった。
何度かの攻防の後、石礫に交じって匕首が飛んだ。小夜の懐にあった物をいつの間にか隠し持っていたのだ。何とか避けてみせたものの、一瞬、十五郎の動きが止まる。
その隙を見逃さず。
鉄扇を鳩尾に振るい、悶絶した十五郎に、二度、三度、起き上がれない、あるいは死んでもおかしくない重い打撃を加えると、十五郎の手から落ちた刀を拾い、最後に残った葛葉に向き直った。
呻く十五郎を持ち上げ、盾としながら葛葉のもとへ向かう。
「おかしな真似をすれば、こいつが死ぬことになる。君が化け物ならばそうしたまえ。だが、君が、君が言う通り人だとするならばそうはできまい。せめて、人と思い込みながら死ぬが良かろう」
「貴様、ろくな死に方をせんぞ」
「そうだろうねぇ。そんなことはわかっているのさ。どうだい、君を護ろうとしたこの刀で殺されるというのは。どんな気分かね。
殺したいのは君だけだから、大人しく死んでくれるなら、少佐殿も十五郎殿もどちらも殺さずにおいてやろうじゃないか」
「信じる根拠もないが、選ぶ自由もないか」
「その通り。いずれにせよ、君の死は変わらない」
葛葉の数歩手前で立ち止まり、どさりと十五郎の身を投げ落とした。目を瞑った葛葉に向かって、心臓を一突きするべく構える。
静寂の中、潮騒が大きく響き、明石の両目から再び涙だ。構えを崩さずに、目を細めて涙を絞ると、明石が、ぐいと踏み込んだ。
最初のコメントを投稿しよう!