序章

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薄いブルーの透き通った水が、(よど)んだ灰色の雲を映す。水面は滑らかで、高級ホテルのシーツみたいに、(しわ)一つなくピタッと張り付いていた。 私は水面を低くなぞるようにして、視線をゆっくりと遠くまで開いて行く。 視線は遂に、水から半分だけ顔を出した古い煉瓦作りの建物に()つかる。私のいるその場所からは前面しか見ることが出来ないが、建物自体は崩れてしまって壁しか残っていないように見える。 建物の部分で水の上に顔を出しているのは、古代ローマを思わせる4つのアーチ。その上にある三角屋根の部分には、きっとかつてはステンドガラスの窓だったと思われる丸い穴が空いている。穴の奥には暗く、深い闇があった。 煉瓦には苔や水草が絡まっていて、一度ならず建物全体が水に沈んでしまっていることが分かる。 今、水は増えつつあるところなのだろうか、あるいは減り始めているところなのだろうか。進むのをやめてしまった時間はそのどちらなのかを示す証拠を与えてはくれない。辺りは木々に囲まれて、しんと静まり返っていた。まるで静止画の中に入り込んでしまったかのようだ。 私はこの風景を絵に残したいという熱烈な欲望に駆られて、筆とカンバスを探そうとする。しかし、身体を動かすことが出来ない。いや、身体そのものが存在しないのだ。私は幽霊のようにその風景の中にいて、決して自分の意思でその世界に干渉することが出来ない。悔しいけれど、その圧倒的な静溢(せいいつ)に私は飲み込まれてしまっている。たとえ、身体が動かせて、そして絵筆があったとしても、今の私にはこの風景は描き切ることは出来ないだろう。 私はせめてこの風景を記憶しておきたいと思った。煉瓦の一つ一つの色や形。それぞれの重さを想像する。その煉瓦を積み木の要領で重ねてアーチを作ってみるが、どうも上手くいかない。積み上げる途中で崩れてしまうのだ。幼児が積み木を積んでは崩し積んでは崩しするように、私は何度も挑戦するが結局失敗してしまう。一体どうしたらあのアーチのカタチを作ることが出来るのだろうか。 考えれば考えるほど、頭に(もや)がかかって集中できない。そして風景が(かす)んでいく。 気付くと私は水に沈んでいっていた。息が出来なくて苦しい。水面がだんだん遠くなって、暗くなる。 そしてやがて来る真っ暗。 私は水の中でもがきながら、必死で風景を頭に書き残そうとしていた......
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