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父の出発する時間に間に合う時は、結衣も柊さんが運転する車で中学校まで乗せてもらう。柊さんの運転は丁寧で、穏やかだった。彼の思慮深さが良く表れるハンドルさばきだ。どちらかと言えばあまり考えて行動することの少ない父にとって、車内での柊さんとの会話はビジネスの上でも大いに役に立っているはずだと結衣は思う。そうでなければ、父が大企業の役員など務まるはずはない。
「分かった。じゃあ、気をつけてな。今日は多分遅くなるから、夕食はいらない。」
父はそう言って、食器を片付ける。
「おっけ。」
結衣はトーストを食べながら言う。バターの香りが鼻を抜けた。
夕食は結衣と父が交代で作ることになっている。会食とかその他の用事がない限り、父は真っ直ぐ家に帰ってきて、結衣と自炊の夕食をとった。彼は外食は健康に良くないと信じているらしい。
父の得意料理はオムライスだ。ケチャップライスをプレーンエッグで包んだ昔ながらのオムライスだったが、それは最近のチャラチャラしたオムライスよりもよっぽど美味しかった。結衣も真似して作ってみるが、なかなか上手くいかない。
何か秘訣があるに違いない。しかし、父はそのレシピを教えてはくれない。前に聞いた時には遺言に残すと言っていたほどだった。もし、その前に死んでしまったら、秘密のレシピは後世に伝わらなくなってしまう。それはきっと人類にとって大きな損失になるだろう。
まあ、父はまだまだ死にそうにはないけれど。
結衣は独りになり、ガランとしたマンションのダイニングを見渡す。結衣はこの場所に、ピンをポツンと落とされたのだ。経済的にも裕福で、精神的にも父の真っ直ぐな愛に満たされている。これほど恵まれた環境は無いと、結衣は思う。だがその幸せはきっと自分には不相応だ。
「カーテンを閉めて。」
結衣はパン屑をシンクに流しながら、誰も居ない空間に向かって声を発する。
わずかに沈黙の間が出来た。この瞬間ほど、孤独を感じるものはない。孤独が見えないガスとなって、部屋に充満するみたいだ。
「カーテンを閉めます。」
AIの機械音が答えて、自動でカーテンが閉まる。AIは”良い天気だな”とかそんな無駄なことは決して言わない。
カーテンを閉めると、東京のタワーマンションの28階のその部屋は、宙に浮かぶ閉ざされた空間に変わる。東京の空にはそんな空間がいくつも浮かんでいる。
結衣は部屋を出て、エレベーターを降りた。
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