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結衣は美術部に入っていた。しかし、決して忙しくはない。指導する先生がいる訳でもなく、毎日部室に来て絵を描くことを強制されたりはしなかった。
だから部員の方もまたそれぞれのセンスで自由に絵を描いている。後輩の中には絵画を初めて描くという者もいて、結衣は彼らに描き方を教えることもあった。結衣は中学に入るまで、プライベートのレッスンを受けていたから、油絵の基本的な技術は既に身に付けていた。
結衣は絵を描くことが好きだ。結衣の絵は恐ろしく写実的だった。写真のように、と言われるのを結衣は嫌ったが、それは実際に写真みたいな絵だった。珠子が正確にボールを蹴るなら、結衣は正確に筆を進める。目に映る物や風景のカタチを正確に読み取り、再現する特別な才能が結衣にはあった。
一方で、今現実に見ているもの以外のものを描くことが結衣には上手く出来ない。抽象的な言葉や想像上の風景はどうしても頭の中でボヤけてしまうのだ。結果として、結衣が描くのは単純な静物画が多くなる。
「やった。じゃあ、放課後ね。」
珠子はそう言って教室を別れる。珠子の真ん丸な眼鏡のカタチが残像として結衣の頭に残った。
※ ※ ※
「ごきげんよう。」
担任教師の高橋が教室に入ってくる。結衣の席は教室前方の1番入り口に近い位置なので、彼が来ると初めに気付き、起立する。
高橋は30代前半の男性教師で、一部の女子生徒からは圧倒的な人気を博していた。 彼は鼻が高く、牧歌的で整った顔立ちをしている。高橋はいつも爽やかな笑顔で、怒ることもない。千人を越える女子生徒の中で、若い男性は圧倒的に少なかったから、高橋のことを異性として意識してしまうのは仕方ないことかも知れない。高橋は美術部の顧問でもあり、結衣が彼と特に仲が良いと周りには思われていたので、そのことを羨ましがられたりもする。しかし、当の結衣にとっては、害のない楽な先生という以外に、特に際立った印象のない大人たちの中の1人過ぎなかった。
「ごきげんよう。」
クラス委員の洋子が号令を掛けて挨拶をする。いつものように、朝の集いが始まった。出席の確認と、事務的な連絡、夏休み前の試験日程などなど。
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