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3/  リュックサックにクマのぬいぐるみを2つ詰め込み、厚着して手袋してアリスから奪い返したニット帽を被って準備完了。 「――――よし」  部屋をきちんと施錠して、夜半のホテルの廊下を進んでいく。途中誰ともすれ違わなかった。静かすぎて自分しかいないような気がしてくる。  そんなことは、決してないのだけれど。  ロビーへたどり着いても誰もいなかった。変わらず蜂蜜色の照明が濃い色の絨毯を照らしていて、受付には看板が立ってるだけ。裏手へ回って確か、スキー客用の出口へ行けばいいんだっけ。  一歩踏み出そうとした途端、背後から誰かに強く腕を掴まれた。 「えっ?」  一瞬、亡霊かと疑うけど違った。なぜだか真剣な目をして私を睨んでいる沙奈ちゃんだった。 「――――どこへ、行くんですか。」  その硬い声に思わず気圧されてしまうが、気持ちを奮い立たせた。 「ああ、スキーよスキー。私も一度くらいやっておかないとね」 「こんな時間に?」 「ナイトスキー」 「一人で? あの子は一緒じゃないんですか?」 「………………」  1年前――この旅館に泊まった少女が、夜中に一人で抜け出し、そして二度と帰って来なかった。  雪に埋もれた、氷のような死体になって発見されたのだ。 「私、スキーをしに行くだけなのだけど」 「――嘘です。私、人の嘘には敏感なんです。お客様は嘘を言っています。ちゃんと私の目を見て言ってください」  本当に心が読まれているのだろうか。あるいは、正直者には分かってしまうのかも知れない…………本心を隠してしゃべっている人間の、特有の余所余所しさが。  きっと昼間のこともあるんだろう、もしかしたら沙奈ちゃんも何か異変の気配に気付いているのかも知れない。  だが、こっちだって後には退けない。 「―――手をはなして。私はスキーがしたいの」  冷たく言い放つ。これで終わりだ。びくりと震えた沙奈ちゃんの手が、遠慮がちにしかしゆっくりと離れていく。  たぶん、心も。せっかく気のいい同世代に出会えたっていうのに、これでぜんぶ終わった。 「――――必ず帰って来てくださいね」  ……なのに、去り際にまだそんな声を背中に掛けられた。 「………………」  自分の残酷さが嫌になる。この少女の直感は当たっている。私は明日の朝には凍死体として発見されるかも知れないのだ。その時、この子はどれほど後悔するだろう――? 「ごめん。絶対に戻るから…………」  振り返って息を呑む。沙奈ちゃんが、見たこともないような真っ直ぐな目をしていた。 「はい、」  信じています――って顔だ。 †  スキーかスノーボードかを迷って、結局慣れたスノーボードの方を選択した。少し手間取ったけれど、小一時間もすればあっさりカンを取り戻すことができた。  昼の時点で閑散としていたゲレンデは、深夜になるとほぼ無人。  区切りをつけてリフトに乗った。荷物のように上方へと運搬されていく。手の中のカイロはさっきの心配性さんにもらったものだ。  途中、黒焦げのホテルの窓に、白い少女の幻影を見た気がした。 「………………」  どうして死んでしまったのだろう? 椿さんの話によると、少女は特に素行に問題があったわけでもないらしく、人より少し地味なだけの生徒だったそうだ。  それがどうして修学旅行中に謎の怪死を遂げ、亡霊となり火事を起こして、ポルターガイストなんかを引き起こすようになるのだろう?  何故、外傷もないのに雪の中で死んでいたのだろう?  イジメによる自殺か、手の込んだ殺人か何らかの事故死か、あるいは単に修学旅行ってイベントをぶち壊してやりたかったのか。 「…………どのみち、ろくな理由じゃなさそうね」  誰かが言っていた。私たちに理解できる理由だとは限らないと。確かにそうだ、私には人がたくさん宿泊してるホテルに火を放つ理由も、ガラスを割って椿さんにケガさせる心情もまったく理解できはしない。  リフトを降り、私は一度ゲレンデの全景を見渡してスタートを切った。  上級者コース……スピードはぐんぐん上がっていく。体表を撫でていく大気が氷みたいになる。  加速すればするほど視界が悪くなっていく。一体何キロくらい出てるんだろう? それだけでなく、次第に周囲を真白い霧が覆い始めていた。  霧に視界を奪われる、それだけで世界が幻想的になっていく。私は進んでいるのだろうか、立ち止まっているのだろうか。 「……………………」  それさえ曖昧になった空白の一点、そこに無限が広がっていた。事象は歪み、滑走と停止の境界が狂わされて、藤原茜という存在を連れ去る。  “立ち止まって”いる。 「こんばんは」  目の前には、雪に溶けてしまいそうな少女が立っていた。 †  厚い霧の向こう側にうっすら景色が見える。果てがないようで、曖昧で。  目の前の少女も曖昧だった。ゆらゆら揺れる黒い火の玉を引き連れ、少女自身の姿も揺れる。  違和感極まりない――――容姿が、一定しないのだ。「白い」という印象だけが統一されていて、それはスクリーンに映った映画のようで、景色に少女の姿が貼り付いているみたいだった。 「――こんばんは。まじまじ見ちゃって、幽霊がそんなに珍しい?」  ワンピースの裾を摘んで楽しそうにはしゃぐ幻影――どうしてかこいつからは敵意を一切感じない。こんなにも不吉で不穏で吐き気を催すような存在なのに。 「あんた………………何がしたいの?」 「別に何も。この美しい雪景色さえあれば何も必要ない。そういうあなたは、この場所へ何をしに来たの?」 「質問をしに来たの、あなたに。分からないことを分からないまま放置して帰るなんて、すっきりしないでしょう?」 「いいよ、部外秘を約束してくれるのなら何なりと」  拍子抜けだ。この時点で、こっちは腕ずくになるのを覚悟していたのだけど。 「…………やけに素直じゃない」 「気持ちは分かるもの。幽霊って珍しいでしょう? 私自身だって分からないことだらけなんだから、あなたが疑問でいっぱいになるのも分かるよ」  白い――本当に白い少女が、何故だか友好的な目で私を見ている。 「このスキー場でよくあるポルターガイストは何? あなたが起こしているのよね?」 「半分はいたずらだけど、もう半分は実験。ほら、大体ほとんどの人が私の姿を視認できないでしょう?」  ちゃんとした霊視にはCランク以上の霊視適性が必要になる。一般人にはあまりいない。 「だから、なんとか意思疎通できないものかって試しているの。1対1の対話が無理ならいっそ、コックリさんやら山の神さまみたいな扱いでもいいよ」 「――なに? 神様だか統治者だかになりたいの?」 「あなたには分からないだろうけど、やることのない毎日って気が狂いそうなくらいに退屈なのよ。誰かと意思疎通できるなら、もう手段なんて選んでられない」  へぇ、どうだっていいけど。次の質問。 「このスキー場へ来てから、私に付き纏っているわよね? なんで?」 「えぇ! あなたはすごいよ、私の気配を察知して、私が手を振ったら振り返してくれて、こうして会話まで出来るんだもの! あなたはきっと天才よ、霊視の天才なんだわ。ねぇ、私の友達にならない?」  息をするたび空気が冷たい。いやな才能があったものだ。とっとと話題を変えたくて第三の質問を投げる。 「…………2ヶ月前の火事は、一体何だったの? 何の理由があって」 「襲われた。殺されそうになったのよ――」  一瞬にして、ご機嫌だった少女が目を見開き表情を凍結させた。 「――――思い出しただけで寒気がするわ。あの女、あの、訳の分からない観光客。吊り目の、視線だけで誰かを殺せそうな蛇女だった。なんなのよあれ、あんなの、あんな危険なの見たことない――」  りなのファイルによると「蓮沼さん」っていうそうだ。2ヶ月前のあの火事の日、目の前の悪霊に挑んで死亡した、私の同業者。  死んだ側も大変だが、返り討ちにした側も大変だったらしい。 「い、いきなり刃物を持って殺しに掛かってきたのよ――!? 幽霊である私を! あいつはね、私を視認するだけでなく触れることさえできたの! 何度も切りつけられて死に物狂いでホテルの中を逃げた!」  肩を抱く白い少女から、大気に黒色が染み出していく。それは憤怒。現実を侵食する怨嗟そのものだ。 「どこまでもしつこいから、逃げるために――そう、状況を有利にするために火を放ったの! あはは、あいつは生身なんだもの! 燃え盛るホテルになんていられるわけない! 案の定ネズミみたいに逃げていったわ、他の観光客と一緒にね!」  私はその情景を強くイメージする。顔も知らぬ先輩の、その最期の戦いを胸に刻みつけるために。 「なのに! あいつは蛇のように狡猾だった! 逃げたと見せかけてもう一度襲いに来たのよ! 焼け落ちるホテルを逆走して、火事場のただなかへ、ただ私を殺すためだけに舞い戻ってきた! 意味が分からないわ、背後から刃物が飛んできたときは自分の目を疑ったわよ!」  ……すごい覚悟だ。燃え盛るホテルの中で、自らの危険をフェイクとして奇襲を仕掛けたのだ。 「あいつは狂ってた。狂ってたのよあいつは、私なんかよりよほど。最後は殺されそうになりながら、命からがら火炎地獄と化した下の階に突き落としてやった。さしものあいつも、床が崩れてしまったんではどうしようもないものね、あはははっはははははっははははははっははあはははあ――――!!」  そして――――火炎に飲まれ、無情にも焼け死んでしまったのか……。 「…………取り残された、学生は?」 「なにそれ、知らない。逃げ遅れて焼け死んだの? 運の悪い奴がいたのね、可哀想」  蓮沼さんたちを焼き殺した炎はどんな色だったのだろう――そんな夢想が現実に溢れ出してしまったのか。 「――――何の、つもり?」 「え?」  顔を上げると、一瞬のうちに雪娘が私から距離を取っていた。さっきまで雪娘の立ってた場所の雪が溶けてる。蒸気が上がっていて、まるで局所的に火事でも起きたようだった。 「――ああ、ごめんなさい、無意識のうちに。事故よ事故」 「……そう…………」  雪娘は、私の背後にふよふよと浮遊する“その物体”を熱心に不思議そうに見ていた。  心底感心したらしく、ぱんと手を叩いた。 「――――気に入った」 「はい?」 「ますますあなたが気に入った。なぁにそれ、あなた、不思議な力を持っているのね。ねぇ、私と友達になりましょう?」  友達は、なりましょうと言われてなるものじゃないだろう――そんな不快が現実に溢れ出してしまったのか。  今度は炎ではなく、闇の濁流が雪娘を襲った。 「な――あぐっ!?」  亡霊が、間一髪・回避するも顔を押さえる。飛沫が付着したんだろう。  ふよふよと浮遊する“2体目”が、口から得体のしれない“闇”を滴らせていた。 「あな、た……っ!」  憎悪に目を剥いた亡霊――その頬から煙が上がっている。メリィの“闇”が付着したのだ。  私の背後では、目を光らせる2体の小怪物が威嚇するように吠える。亡霊が怯える。その正体は、 「何をしにきたの、って言ってたわよね。――――私はね、」  リュックから飛び出したクマのぬいぐるみ、“ベリィ”と“メリィ”だった。 「あんたを消し去りに来たのよ」 「何よ……何よ、何よ何よ何よ何よ何よ何よ何よ……っ!!」  ――――――人形操()りの呪い。  そして、決死のレースが始まった。亡霊は頭を抱え本性をむき出しにする。 「あああああああッ!! なんでよ、なんで邪魔するのよ、どうしてそっとしておいてくれないのよッ!?」  突風に飛ばされる旗のように逃げていく亡霊、即座にベリィとメリィが曲線を描いて追跡する。私も一気にスタートを切った。加減無用の最高速でスノーボードを滑らせていく。霧の暴風に吹き飛ばされそうになりながら十指から伸びた虹色を操作する。 「…………2人ってね、多すぎるのよ」  ベリィの吐き出す猛火が狼のように疾走、音速の雪原と私の頬を照らし付ける。炎も撒き散らされた蒸気もものすごい早さで後方へ遠のいていく中、亡霊は哀れなくらいヒステリーに逃げまわっていた。 「ふざけないで! あいつが、あいつが一方的に私を殺しに来たんじゃない! 私は被害者側でしょう、なんで私が消されなくちゃいけないっていうの!?」 「ぐ――ぅッ!」  咄嗟に顔を覆って息を止める。亡霊が腕を振るった途端、凍気の塊のような霧が私を包み込んで後方へ消えていったのだ。  たったの一瞬だったっていうのに全身霜まみれ――危うい。いま、呼吸したら肺がどうにかなっていたかも知れない。 「――蓮沼さんは確かに、行き過ぎた独断専行だったかも知れない。どういう判断だったのか私は知らない。でもダメよ、あんた――」  私の脳裏に浮かぶのは、泣きそうな顔をした玲奈ちゃんに、それに付き添われ血染めのタオルで顔を押さえる椿さん。 「ねぇ、どうして、椿さんにケガをさせたの?」  ただの事故だったら――意図しない不運だったのなら、まだ救いようはあるだろう。なのにこの雪娘には、見る影もない様な憎悪しかなかったのだ。 「はっ、邪魔なのよ、うるさい観光客たちが! 雪を踏み荒らし、景色を穢して私を苛立たせる! 悪い噂が立って誰も寄り付かなくなってしまえばいいんだわ!」  めそめそと大気が泣いてる。白い亡霊から真っ黒な呪いが染み出し、意味のわからない囁きで聴覚を覆って合唱してる。 「いっそみんなぶち殺してやりたい! それを我慢してやっているっていうのに、」  声がひび割れ、おかしな反響の仕方をしている。輪郭が崩れそうになる少女はまさしく景色に貼りつけられた悪夢そのものだった。 「だから――――ポルターガイストを起こし、人に害為そうっていうのね。」  そんな悪霊、沙奈ちゃんたちが暮らすこの場所に野放しにしておけるわけがない。 「()きなさい、メリィ――ッ!」  甲高い絶叫が夜空を震わす。大きく息を吸い込んだメリィが、闇を吐き散らしながら狂ったように突進していく。 「いッ! あああああぁぁ!?」  じゅぅ、と躱し損ねた腕に闇を浴びた雪女が悲鳴。ボコボコと幻像の肌を沸騰させ、疫病じみた極彩色で侵食する。 「こ、の――よくも私に汚濁、をぉおお――!」  メリィが私の制御から外れ、げきゃきゃきゃきゃと腹を抱えて笑ってる。楽しんでるんだ、殺戮を。左手の糸を伝って私に逆流する呪い、手が引っ張られるまま痙攣を起こし、操られているのは私かメリィか。 「戻りなさい、メリィっ!」  強く引き寄せると、かくんと力を失って制御が私に戻った。これは呪い。呪いには昔から必ず落とし穴があるものだ。  危うく乗っ取られそうになった自分を自覚して、暗澹とした感情が胸に広がる。 「潰れろ――」 「え……?」  交通事故のような衝撃をすぐそばで聞いた。メリィが巻き込まれ大きく後方に遠ざかっていってしまった。いちおう制御は繋がっているが、いま、何が起こった? 「な、きゃああッ!?」  次々と、空から降って来て雪原にめり込む隕石。岩? 違う。一瞬、霧の中で光を反射したのが見えた。  ――(ひょう)だ。それもボーリング球サイズ、直撃したら頭が潰されて即死だろう。 「やばいやばいやばい……!」  氷塊は次々と私の滑走コースに降り注ぐ。大砲でも受けたみたいに舞い上がる雪、一瞬にして戦場と化した雪原を私は死に物狂いで曲線を描いて滑走し続けた。  だが、闇雲にコースを曲げてるだけだ、視認して回避できるような速度じゃない。長くはもたないと即断して十指に強い意思を巡らせる。 「く――ベリィ、メリィ!」  ベリィが業火を吐き出す、だがメリィは後方、ほんの少し遅れてようやく戻ってきた。  幾条も照射される炎と闇から逃げ回りながら、白い少女はヒステリックに叫んだ。 「なんで邪魔するの!? あの女といい、なんで私をそっとしておいてくれないの!? 私はただ、ここに“居たい”だけなのに――!」  居た、い――? そこまでしてこの雪原に居座ろうとする理由は何?  痺れる左手にいっそう疑念は募る。  ――――呪いは願望だ。その人間が抱いた願い。亡霊は、呪いは何かしらの願いを抱いて、それを成就するためにそこに存在しているものなのだ。  ただただ凍てつくだけの、私を凍死させようとするこの(ねが)いの正体は何――? 「あんた、一体何が望みなのよ」 「あなたの、目の前にあるものよ――ッ!」  空からひときわ巨大な、隕石のような雹が降ってくる。 「や、ば……!」  まるで4tトラックのような重量感、前方上空、このまま行くと私に直撃? 迂回して抜けるか?  ――いや。 「うわああああああっっ!!」  意を決して直線で真下を抜けた。全身を影に覆われた瞬間は死ぬかと思った。  私のすぐ背後で巨大隕石は大地に激突し、ゲレンデすべてを縦に振動させた。転びそうになりながら私は再度絶望する。 「……うそ」  雪が、崩れる。流動してる。小さな波は大きな波に、大きな波は濁流に、そうしてあっという間に津波のようなそれを形成してしまった。  ――――――――雪崩だ。すべてを飲み込む圧倒的な大雪崩がもう間もなくやってくる。 「冗談……でしょ?」  なに、あの速度。雪崩ってあんなに速いの? あんなにも重苦しいの? あれじゃ、坂の上から列車が横一列に並んで滑り降りてくるようなものじゃない。  逃げ切れる、わけがない。 「だめ……」  左右だ、左右に逃げないと。でも無い。霧に覆われたゲレンデ、必死で左右に逃げても果てがない、雪崩も横一列を無限に覆っていて果てがない。おそらくは1km左右に逃げても意味がない。  無慈悲にも白い壁は秒速で迫りくる。私の死が、轟音を上げて坂の上から降ってくる。ありとあらゆる知恵を絞っても絶望的に逃げきる手段はなくて、きっと狩猟者に兎ってこんな気分なんだろう。出口のない地獄だった。  逃げ切れない。もうとっくに限界まで速度を上げているっていうのに、さっきから小さな凹凸だけで体が軋むほどの速度を出しているっていうのに。そんな足掻きもいよいよ限界を迎えてしまう。 「嘘、やば……あああああッ!?」  顔の前に氷塊が迫っていた。叩きつけられる寸前でなんとか躱したら、あっさりとバランスを崩して転倒してしまった。  暴速の世界から投げ出され、無慈悲に全身を打ち据える。玩具のように四肢を振り回されて雪の上を転がった。 「いっ……、ぁ……!」  ――早く立ち上がって逃げないと。頭では分かっているのに、体を動かそうとしてるのに息ができない。背中を打ち据えたのか肺が詰まったように背中の筋肉が動かせなくて、呼吸しようとすればするほど反射で硬直してしまう。  なんとか雪の上を転がる。でも致命的なタイムロスだった。振り返ればすぐそこに、既に死は迫っていた。 「………………ぁ……」  時間が緩やかに感じる。もう、伸ばせば手が届きそうな距離に、雪の壁が迫っていたのだ。どうやったって遅い。ばかみたいに尻餅ついてる自分が、いまさらこの死から逃げようなんて不可能だ。あとはもう、捩じ切られて圧殺されて殴打されて死ぬだけ。  迫る白一面に死を実感する。必ず帰って来てくださいね――なんて沙奈ちゃんの言葉を裏切ってしまうことが何より残念だった。  雪崩に飲み込まれながら、私の脳裏を訳のわからないヴィジョンが駆け抜けていく。  ……白一面の世界。  純白、死という毒を孕んだ壮大なけがれなき世界の姿。  魂を引きぬかれるような、鳥肌が立つほど美しい白い闇。“自分”の目の前には、そんな光景だけが永遠の彼方まで広がっていた。  …………修学旅行の真夜中に、窮屈な雑魚寝部屋を、ずっと無感動で虚無だった日々を抜けだして私はその闇に出逢った。  心を奪われる。  まっさらな処女雪だけの平原に、いきものが入る隙間なんて1ミリもない。  何者も居ない世界は、何も無いというただそれだけで完成しきっていたのだ。完全無欠、純然たる無を敷き詰めていた――。  ――――――白い白い、真白い闇で塗りたくられたあまりに美しい死界。 「     !」  だが、最後の一瞬、誰かの悲鳴を聞いた気がして、それで“私”の意識は現実に引き戻される。 「叫びなさいベリィ――ッ!」  雪に飲み込まれる瞬間にベリィを呼び戻す。それだけで一顧の地獄を構築できそうな高濃度の火炎放射が、ほんの一瞬の時間を稼ぐ。大河の流れを割るように、炎で雪崩を割ったのだ。 「ぐ、ぅぅうううッ!!」  左右を抜けていく雪崩河、もう壁。轟音だけで脳が揺さぶられる。列車がすれ違っているような暴風に体を揺られ、ベリィは一瞬にして暴走、もう右手が痙攣しまくってて私が操ってんのかベリィが勝手に動いてるのか分からない――ただ、理不尽なまでの最高威力だった。  それらはほんの一瞬のこと――そのほんの一瞬に、私は天に向かって左手を伸ばした。これは直感。雪世界から逃げ出すように、霧の向こうの月を掴みとるように。  ――――――“灼熱の国のアリス(Alice of "Muspellzheimr")”。  その瞬間に聞こえた幻聴、勢いを増した業火の脇から颯爽と現れたスノーボーダーが、私の伸ばす手を掴んで天空へと引き上げた。  ――――天使? なに、その炎の両翼。  私のボードを引き剥がし、つま先を掠めて雪崩は、ベリィが維持していた空白を飲み込んだ。全身に死の暴風を感じる体験はこれっきりにしたい。 「ふふ――」  ふよふよと浮遊するベリィメリィと共に、私は月をバックにしたり顔で笑う小さなスノーボーダーに見下されていた。  シャンプーのCMばりに流れる髪、ニット帽はもう無い。似合いもしないスキーウェアーを着込んだいつも通りの。 「――どう、(あるじ)? 命を救ってやったわよ、ほら感謝なさい。いまならどんな要求にだって応じてやろうって気分でしょう?」  アリスだった。 「ばっ…………か、言わない、で……!」  付き合っていられるか。私、いま、死にかけた。心臓がバクバクいってる。どうやって生き残ったのか分からない。人間って、土壇場になると案外機転が利くものなのかも――。 「…………馬鹿ね。主のそれは天性のものよ、誰もあなたほどうまくやれはしない……」 「え?」 「なんでも。」 「はぁ」 「しかし大変だったのよ、姿が見当たらないと思ったら、勝手に空間浸食に飲まれて隔離されてるんだもの――まぁ、スキーの次はスノボにハマって、全力で遊んでた私も悪いけれど」  何を言ってるのかよく分からないけれど、そういえば、いつの間にか霧が晴れてる。いつのまにやら無限のゲレンデが、正常なスキー場の姿を取り戻していたのだ。 「って、あいつは!?」 「もう倒したわよ。跡形もなく消してやった。まったく、主はなっていないね――」 「…………」  耳に残った小さな悲鳴――――なんだか、やるせない。 † 「だっ!」  アリスに投げ捨てられ、大の字で雪に埋もれる。もう起き上がる気力もなかった。  晴れた月夜を見上げているとなんだか不思議な気分になってくる。  私、生きてるんだ。 「…………ねぇ、」 「何?」  音もなく可憐に降り立ったアリスの横顔。美しい蒼の瞳で新雪を見下ろしていた。 「――――雪。それがあいつの呪いだったの」 「雪? 庭駆け回る?」 「ううん、降ってくる雪、じゃなくてたぶん――」  白を散らして体を起こす。修学旅行の夜、雑魚寝部屋を抜けだしたあいつが見ていたのは雪原だ。  ――――この美しい雪原さえあれば何もいらない。  こんなただの白一色に、あいつは人生がひっくり返ってしまうほどの感銘を受けたのだ。 「ふぅん。それはまた、くだらない願望だったのね……」 「くだらない?」 「ええ、くだらないわよ。――いい? 主。そいつはきっと雪を見ていたのではなく、雪の向こうに、誰もいない閉ざされた空間ってものを見ていたんだわ」  アリスの足が雪を蹴る。子供が花畑を踏み千切るような残酷さを感じた。 「――――要は、1人になりたかっただけ。くだらないでしょう? そんなの、子供じみた願いよ」  それは、アリスという名には相応しくない、ひどく毒々しい微笑だった。 「でも、そうね……魔的な美に魂を奪われてしまうのは分からないでもないわよ? えぇ、たくさんの異国を見てきた私だからこそ、ただの風景に感じ入ってしまう気持ちも分かる。無慈悲な雪原はたしかに美しい――それこそ、闇そのものみたいにね」  白い、闇。  雪原は確かに凍り付いているように静かで、永遠にこのままなんじゃないかって気がしてくる。  底も果てもなく、あらゆる命を吸い込んでしまうような永遠性。そんな美しさに、あいつは飲み込まれて死んでしまったのだろうか。  無音の世界――。 「…………そうか」  白い、少女。あいつは自ら闇の一部になっていたのだ。無音の闇を確かなものにしたくて人間を嫌っていたのだ。  けど分からない。それは闇が闇にではなく、人が闇に成ろうとしたがための不整合なのか。 「…………友達になりましょう、ねぇ……?」  この風景以外何もいらないと言っていたくせに、どうして寂しそうに道連れを探していたの――?  愚かな少女だ。本当に愚かで救いようがない。だからなんだろう、アリスは終始興味なさ気だった。 「ま。どうだっていいことよ、魔的なものに魂を売り渡してしまえば身を滅ぼすのが必然、そして、何より済んでしまったことだもの――」  月光を反射する雪原、それらの永遠を支配するように、制圧し蹂躙するかのようにアリスは嘲った。 「…………………」  あの、雪崩に飲まれそうになった瞬間、私とあいつはリンクしたのだ。同じ想いを共有してしまった。  雪の壁が毒物の津波のように恐ろしく見えたのだ――確かに圧倒的で、どうしようもないほど壮大な幻想だった。 「じゃ、私はスノボに戻るわね。主も凍死しないように帰りなさい?」  それきりアリスは飽きてしまったように戻っていく。事件など初めからなかった風だ、本当に呆れる。 「…………ひとりになりたい……か」  私も雪を払って立ち上がる。いつの間に落としてしまったのか、椿さんにもらったクランチチョコが散らばっていた。雪はいつでもただの雪でしかない。少女の見た雪と私の見ている雪、一体何が違うのだろう?  そんなことを考えながら旅館に帰りつけば、ロビーのソファにかけていた私服姿の沙奈ちゃんがいた。 「――っ、おかえりなさい……!」 †  沙奈ちゃんは私服姿だった。なんと、仕事上がったあともずっとロビーで待っててくれたらしい。暖かい缶コーヒー貰って感動した。  玲奈ちゃんから連絡があったらしく、椿さんはおでこを数針縫ったらしい。生え際に傷が残ってしまうそうだ。この件に関しては大いに反省する。本当、私とアリスの注意が甘かったせいだ。  でまぁ特にやることもなくなってしまい、私は沙奈ちゃんを部屋に招き入れることにした。暖房つけて、お茶飲んでおしゃべり。かなり遅くまでくっちゃべった。  不意に雪女の淋しそうな横顔なんかが浮かぶのだけれど、忘れる。あの雪原に長居しすぎたのだ。呪いの後遺症っていう、じきに忘れるつまらない感傷。  アリスは帰ってこない。沙奈ちゃんがいてくれて本当よかった。こんな日に、のんきに一人で寝れるほど図太くはない。  ひとりぼっちになると人間、考えなくてもいいことを考えちゃうものね。 「――あ、そうだ。これあげる」 「はい?」  ポケットをあさって、沙奈ちゃんにあるものを押し付けた。玲奈ちゃんの分まで2つ。  ほら、お菓子ってさ、一人で食べるより誰かと一緒に食べた方が美味しいでしょう?  缶コーヒーとの取り合わせは口の中べったべたの甘々で、あんまりナイスコンビとは言えなかったけれど。  窓から見える雪景色――あ、馬鹿アリスみっけ。初心者のくせに難なく上級トリックとか決めちゃって業腹。  しかし、なんですか。やっぱちょっと40畳は広すぎたかな。声が反響しててちょっぴり淋しい。 「ま……いいけどね。」  あちこち危うかったけれど、新人狩人・藤原茜、なんとか事件解決できました。  2度とこのスキー場をポルターガイストが騒がすことはなく、原因不明の急病もなくなり、できれば激減してしまったお客さんたちもそのうち戻ってくるといいな。  一帯を覆っていた瘴気も消え失せ、明日から沙奈ちゃんたちが気持ちよく仕事できるんなら体張って頑張った甲斐もあるってもの。  ――――いろいろ思う所はあるけれど。  これにて、ひとまず一件落着ってことで。                   /CRUNCH*CHOCOLATE
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