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僕が「では」と小さく言って優花先輩に背中を向けると、後ろで「あーあ」と不満そうな声が聞こえたが、僕は無視して歩きだした。
ちょっと歩いてやっぱり気になって振り向くと、七号館の入口の前で優花先輩はまだ恨めしそうに僕を見ている。
「またあとで!」
僕はちょっとだけ声のトーンを上げてそう言って、優花先輩に軽く手を振った。
いい天気だ。他愛もない水曜日の午後。
図書館はキャンパスの中央、十二号館と七号館に挟まれるようにして建っている。
中に入ってみると、南側の大きな窓から差し込む柔らかな陽光のシャワーが、なんとも春らしいまどろみを誘っていた。そのふわりと暖かな空気の中、書物の語りかけに熱心に傾注する学生たちの姿が、並んだ丸テーブルに疎らに広がっている。
僕には、図書館なんてまったく縁がないものと思っていた。
三十年前という時代、インターネットで調べることも出来るが、この大学についてのことならこの図書館で調べるのが手っ取り早い。
そう思ってあちこち見て回ると、この大学の沿革などの資料がたくさんある棚を見つけた。
図書館の中は、水を打ったようにしんと静まり返っている。
けっこう学生が居るのに、みんな物音ひとつ立てない。
聞こえるのは、ページをめくるカサッという音と、窓の外から漂い入ってくる木々のさざめき。たまに小鳥のさえずりも響く。
一つひとつの音が、まるでヘッドフォンで立体音声を聴いているように耳に届いている。
心地よい。本を読むのが目的の図書館で、音に感動する者もなかなか居ないだろう。
そんなことを考えていると、ふと過去の学園祭に関する資料が目にとまった。資料を手に取って、窓際よりすこし内に入った席に腰掛ける。
資料には、三十年前はまだこの大学が現在のような総合大学じゃなくて、今とは名称も異なる四年制大学と短期大学だったことなどが解説されていた。
僕の右側には、南に向いた大きな窓。
僕は閲覧室のほぼ中央で、その大きな窓からふわりとかかる光のシャワーに身を預けながら、ずいぶんとゆったりとした気分を楽しんでいた。
ふと見ると、僕の正面、閲覧室の東側の壁に大きな鏡があるのに気が付いた。
壁の向こうは図書館の正面玄関から入ってすぐのエントランスだ。その壁に、どこの学校でもよく見かける、なんの変哲もない畳大の姿見が取り付けられている。
ずいぶんと古そうな鏡。
南向きの窓のすぐそばで、窓から注ぐ光に照らされている。僕の真正面よりは少し右だ。
ああ、よくある鏡だなと、当たり前のことをひとりごちながら手元の資料に目を戻したあと、なぜか気になって、僕はもう一度その鏡に目を向けた。
映っているのは閲覧室の風景。
この角度からは、僕自身の姿が映っているのは見えない。
そうしてその鏡を眺めていたとき、突然、心臓を鷲掴みにするような衝撃が僕を襲った。
彼女が居る。
その鏡のずっと奥、僕の右側の背後が映りこんでいるその風景の中、彼女は窓際の席で雲間から差す斜光の中に佇んで、手元の本に瞳を向けていた。
教会に飾られている絵画のような光景。
思わず息を飲んだ。
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