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 僕はキリスト教徒でもなければ(姉もキリスト教徒ではない)、神を信じているわけでもない。それでも、神の存在を求めてしまう。自分のことがどうしようもなく嫌な時、神のせいにする。何かに挑む時、願掛けするのだって同じことだ。自分ではどうしようもないことは皆、神、神、神――。そうやって自分の卑小さと向き合わず、逃げている自分が嫌だった。長い人生の中で、客観的にじっくり考えことも必要なのに、「困った時の神頼み」でそればっかり。そんな自分が許せない時期もあった。  聖書を閉じてお茶を飲み、自分の部屋に戻ると、ふと襖に挟まっているにある紙の束に目が留まった。いつもそこにあるのに、目が慣れると、部屋と一体化して何も目に入ってこない。存在意義をなくし、ただずっと息を潜めていたその紙の束を、なぜか今、目が捉えた。向こうが存在価値を主張したのではない。歩み寄り、近づいたのは僕の方だった。今、僕は何か頭を集中させるものを求めていた。恐らく、探していたのだ。散らかった部屋で失くしたものを探す姉も、きっと同じ感覚だったのだろう。必死に目を光らせていれば、見るもの全てが射程範囲になる。そうでなければ、見慣れて風化したものは目に入ってこない。ただ姉は物を探すのが日常茶飯事なので、そこに留まっていて部屋の風景と同化するものなどないのかもしれない。  その紙束には、昔僕が熱心に書いていた好きな歌のランキング、サッカーワールドカップの結果、ファンタジー世界の国の概要(妄想)などが薄く太い鉛筆で綴られていた。中にはひたすら続く迷路やアニメキャラクターの模写もあった。今こうしてみればただの落書きだし、ガラクタでしかない。  しかし、それは今の自分にも言えたことなのではないだろうか。サザンオールスターズのCDや実在する戦艦の模型。昔の自分を評価する今の自分も、いずれは評価される身となる。それはもしかしたら数分後かもしれないし、30年後かもしれない。どちらにしろ、人を裁く人間こそが、裁かれる対象なのだろう。しかしまた未来の自分も、さらに未来の自分に裁かれるのかもしれない。そして死んだときにはじめて、自分は神によって裁かれるのだろうか。
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