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そんなことを考えながら赤本とにらめっこしていると、蝉の合唱が小さくなっていることに気が付いた。辺りは西日に照らされて赤くなっているが、空はどこもまだ水色だった。僕は気晴らしに散歩に出かけることにした。
蝉の声は夏の風物詩だが、道で死体を見るのは気持ちが悪い。風物詩とは言うものの、うるさくていささか迷惑であることは否めない。蝉の声がどれだけ風流だと松尾芭蕉が言っても、ここまで夏に相応しいものにはならなかった。蝉が風物詩と謳われるようになった理由は、その生き様にあるのだろう。土の中で何年も待ち、いざ羽が生えて地上に出てきたと思えば、ほんの一週間で道端に倒れる。与えられたわずかな自由を目一杯生きるその姿が、日本人の心を惹きつけたのだろう。
玄関の扉を開けて(やっぱり仰向けに転がってる死体は気持ち悪いなぁ)などと気分を害していると、ヒグラシのカナカナという鳴き声が聞こえた。この鳴き声は好きだった。これが聞けたなら家を出た甲斐があったと、蝉を飛び越えて心地の良い風にあたりながら思った。
夏の終わりに切なさを見出した人は天才だと思う。もうすぐ迫ってくる黄昏時の、あの形容し難い感情を、いとも簡単に形容してしまったのだから。その景色は美しい。入道雲も、蝉も、向日葵もそう。最近は物語などの背景にしか使われないが、そのものが本来持っている美しさや魅力は素晴らしいものである。
だがこれらの印象が背景のせいで、夏の終わりに明確な色付けがされたのも事実だ。そしてそれに伴って、主題である物語の色にまで影響を与えた。そしてその物語には、必ず複数の人間の繋がりが不可欠であった。
しかし、孤独な僕にそれを演じることはできない。人と浅はかな関係を築いたところで、より深い関係を持った人が優先され、自分はいつも独り取り残される。サッカー部でもない限り明確な派閥が効かないからこそ、僕のような人間があぶり出されたのだ。無論、派閥が明確だったとしたら、僕は完全に「ぼっち」認識される人間になってしまう可能性の方が上手くやっていける可能性より高いのだろうとは思うが。
しかしまた、僕は孤独を嫌だと思ったことは一度もない。僕を飲み込む憂鬱は、自虐から来るのであろうということは、もう分かってきていた。だからこれまでで孤独に悩む人間を見たり聞いたりすると、いつも疑問に思ってきた。
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