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8月4日早朝。
取り壊されたはずの古い曽木大橋の真ん中から、麦わら帽子を風に向けてふわりと手放した。帽子がクルクル風と戯れる。その時既に私の身体も宙を舞っていた。
ここに来れてよかった、それだけ。この大滝の轟音の中なら何も無かったことにできる。初めから私など無かったのだ。壮大な景色の中の小さな塵と同じく人知れずただ、消えてしまいたかった。
「…アキ。もう寝た?」
「起きてる」
「そっか。あきこってさー。古風な名前だな」
「古いよね。お父さんのセンス」
「意味は?」
「火ヘンに華やかって漢字。白蓮の本名らしいよ? って知らないか」
「それ、柳原白蓮?」
「えー物知りー」
「大正の女流歌人だろ? 地元に歌碑があるからさ。でもアキんちの父ちゃんの方がすげー」
「別に? うちの地元は伝右衛門邸のすぐそばだもん。イヤイヤ嫁いで駆け落ちした白蓮の話は割とメジャー」
「お互い地元ネタですか」
「ふふ…そうみたい」
「いつか行けるかなあ。見せてやりてーなあ。すげー綺麗なんだよ、そこ」
「いいね、行きたいねー」
滝の音が昨日までのリアルを塗り潰していく。ほんとに白蓮の歌碑があるんだね。でも私は一人でここにやって来た。だからこの幸せな記憶もきっと夢なのだ…
すると煙幕を上げる水飛沫手前で薄い翅でも生えたようだ。身体が止まる。優しく浮き上がり、やがて元の眺めの良い橋の真ん中までゆっくりゆっくり戻されていく。
時が逆再生しているのだろうか。
それとも、夢?
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