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7月1日
「そういえば、千家くん。陽氷って、知ってる?」
「ようひょう?」
「そう。太陽の陽と、かき氷の氷で、陽氷っていうの」
「へえ。初めて聞いた」
雨が降っていた今朝は、学校に7時55分に着くバスに乗り、途中から乗ってきた羽白さんと、バスを降りてからものんびりと並んで歩きながら話している。
「旧暦の6月のことをさすらしくて。7月3日くらいからの一ヶ月なんだって」
「じゃあ、そろそろってことか」
「そうみたい」
笑顔を浮かべて頷いた羽白さんの傘が、ぴょこんと、と揺れる。
そういえば、この一ヶ月で、随分と自分の周りの環境が変わったなあ、と隣を歩く羽白さんを見て思う。
まずは、誰かと並んで学校に行くなんて思ってもみなかったし。
たくさんの声の中で、家族以外の誰か、というよりは、善人や羽白さん、寺岡さんの声を探すようになる、なんてことも思ってもいなかったし。
そもそも誰かと夜中に電話することになるなんてことすら考えてもいなかったな、と昨日の夜にかかってきた善人の電話に、ほんの少し苦笑いに近い笑いをこぼす。
「千家くん、ちょっと眠たそうだね」
「あー…、昨日、夜中に善人から電話かかってきて」
くあ、と欠伸をかみしめながら答えれば、「照屋くん、千家くん大好きだもんね」と羽白さんが楽しそうに笑う。
善人が俺を大好き、ねぇ……。
まあでも、それに関してはいくら鈍い俺でもよく分かる。
あんなにも人に対して好意を全面に出せるのは、多少羨ましくと思うところもある。ただ、夜中の電話はやめてほしい。何回言ってもまたかけてくるし。
そんなため息をつけば、羽白さんがくすくすと小さく笑う。
「夜中、といえば善人が学校よりちょっと先に出来たクレープ屋に行きたいらしくてさ」
「クレープ?」
「うん。今日の帰りに行かないか、ってさ」
「行きたい!」
ぱっ、とこっちを向いた羽白さんの瞳がきらきらと輝く。
可愛いなあ、と一人思いながら「って言うと思った」と答えれば、彼女が嬉しそうに笑う。
学校帰りにクレープ屋。
自分で言っておきながら、その行動に、そんな行動を嫌とも、面倒だとも思わなくなったこの一ヶ月の自分の変化に少し面白ささえ感じてくる。
環境が変わったのはもちろんのことだけど、善人が俺と同じく甘党だということとか、羽白さんが辛いものが苦手だけど、寺岡さんは辛いもの大好きだと気がつくとか。
誰かと一緒に行きたいところ、一緒に見たいものが出来るとか。これ面白かった、とか、ここが良かったとか、美味しかったとか。
空が綺麗だ、とか、雨が降ってきたよ、とか、そういう小さなことを共有したいと思う人が出来るとか。
高校入学前の俺なら、そんな風に思う日がくるなんて、想像すらもいなかっただろうけど。
あの日。
ー 「なあ、千家。一ヶ月だけ、アルバイト、しない?」
放課後の教室で、特にすることもなくボンヤリと外を眺めていた俺に後ろの席だった照屋善人は、俺にそう声をかけてきて。
その善人は、気がつけばすんなりと俺の横にいて、いつの間にか友達、というか親友、と呼んでもいいのかもしれない立ち位置にいて。
気がつけば、善人の幼馴染みの寺岡さんとも話すようになったし、それどころか斉藤に荒井、その他のクラスメイトとも話すようになった。
ただ、それだけじゃなくて。
ちら、と隣に並ぶ彼女を見やれば、「ん?」とすぐに彼女が俺の視線に気がつく。
「いや……」
「?」
誰かを、好きだと思う気持ちも、理解できた、気がする。
「まだ、言えるわけでもないけど」
「…?」
ぼそり、と呟いた言葉は、羽白さんには届いてはいなくて、彼女が小さく首を傾げる。
そんな些細な行動ですら、少し眩しいような気がする。
陽氷。
ー 「太陽の陽と、かき氷の氷で、陽氷っていうの」
漢字の表現に、かき氷、と聞いたからか、その言葉が、夏の間の、色鮮やかなものをさしている。そんな風に思うようになったのも、多分こういう小さな出来事が積み重なってきたんだろう。
その出来事の中に、彼女、羽白さんがいること。
それだけでも、何やらすごいことのようにも思えてくる。
そんな途方もない違いことを考えている俺に、気がついたのか気がついていないのか。羽白さんは、じい、と俺を見たあと、ふふ、と小さな笑い声をこぼす。
「ん? どうかした?」
「ううん。なんだか、千家くん、楽しそうだな、って思って」
「…俺?」
「おれ、です」
言い慣れない言葉を繰り返しながら、羽白さんがまた笑う。
見透かされているような気持ちになりながらも、「あー、まあ…」と頬をかきながら口を開く。
「一ヶ月前には、想像もしてなかったから」
「…? なにが?」
呟いたつもりは無かったのだが、どうやら声に出てたらしい。
今度はきょとん、とした表情を向けてくる羽白さんに、「ええと……今の状況?」と答えれば、うん?と羽白さんが首をかしげる。
「夜中に善人から電話がかかってきて読書の邪魔されたり、とか」
「体育のペアでいつの間にか照屋くんと組むのが当たり前になってたり、とか?」
「あ、やっぱり?」
「千家くんと照屋くんが一緒にいるのが普通になってきたよね。みんなも」
「あー…やっぱり」
どうりで最近、何かと二人一組のペアを組む時に善人とばっかりになると思った。
思い返して小さく息を吐けば、羽白さんがくすくすと笑う。
「照屋くん、すぐに千家くんのこと見つけちゃうしね」
「センサーでもついてるのか、あいつ」
「それくらい、千家くんのこと大好きなんだよ、きっと」
そう言って、また小さく笑う羽白さんに、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ悪戯心がわく。
「俺も、羽白さんのこと、すぐ見つけられるけど」
「……っ?!」
ひょい、と顔を覗き込みながら言えば、「せ、千家くん?!」と羽白さんが顔を赤くしながら驚いた表情を浮かべる。
そんな彼女の様子すら、可愛い、と思うあたり、俺も大概だな、と小さく笑う。
「もう!」
「はは、ごめん、ごめん」
ぷく、とほんの少し頬を膨らませながら抗議をする羽白さんに、笑いながらも謝れば、俺を見た羽白さんは一瞬、また驚いた顔をしたあと、くすくす、と笑い出す。
「ん? なんかついてる?」
何かおかしなことでもあったのか、と俺の顔を見たあと急に笑い出した彼女に、首を傾げれば、羽白さんが「ううん、違うの」と楽しそうな表情のままで口を開く。
「いろんな千家くんが見られるようになって嬉しいな、って思って」
「…な…」
「な?」
その表情は、反則では。
そんな風にすら思えるほど、笑った羽白さんの顔がきら、と眩しく光ったように見え、思わず言葉がつまれば、羽白さんが俺の呟いた言葉を繰り返しながら首を傾げる。
「な…んでもないです」
かろうじて、それだけを返した俺に、「変なの」とくすくす、と楽しそうに彼女が笑うから、まだ、これでいいかな、とか思ったりもして。
代わり映え無い毎日。
つまらなかった日常。
今は、そこからはかなり遠く。
騒がしい毎日も、日々変わる日常も、案外楽しいものだと、思う。
「世界って、結構、色鮮やか…なんだな」
ぼそり、と呟いた俺の言葉は、彼女には届かない。
はずだったのに。
「皆が、千家くんがいるから、かな?」
「……え…」
「陽氷、どんな一ヶ月になるんだろうね」
そう言った羽白さんが、俺を真っ直ぐに見やる。
「羽白さんと、一緒だと、嬉しいんだけど」
同じように、真っ直ぐに彼女を見返しながら言った俺に、羽白さんが嬉しそうに笑う。
そんな彼女を見ながら、これから訪れる陽氷の季節は、何色なんだろう、と、一人、密かに胸を踊らせた。
完
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