登校前、朝七時五十分

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 笹野紗々は笑わない。  彼女について僕が知っていることといえば、本当にそれぐらいのものだ。  失礼を承知である日、どうして笑わないんだと訊いてみたことがある。すると彼女は、「笑顔ってメリットが多すぎますから」と無表情に言った。  そんな彼女と話すようになったのは、この街に僕たち家族が引越ししてきて一ヶ月ほど経った頃のこと。海が近くにある街だなんて父は喜んでいたが、母はあまり嬉しそうではなかった。  僕が編入した公立高校は自宅から徒歩で約十五分の距離。なので、毎朝七時五十分に家を出るようにしている。  そして、その際には決まって隣の家に住む同い年の女の子――笹野紗々と遭遇するのであった。雨の日だって、風の日だって。いつもいつも。  六月も終盤に差し掛かり、いよいよ夏が始まる。  お決まりの時間に家を出ると、ラムネ色の空にはまだ覚醒しきっていない太陽が遠慮がちに輝いていた。とはいえ十分暑い。ただ、そんな中でも笹野はいつも通り涼しげだった。  姿勢正しく伸びた背と生真面目そうなボブカットが白い清潔なブラウスによく映えている。 「一日って本当に二十四時間なんでしょうか」  玄関門の前で笹野はそんなことを言う。 「そりゃ当然だろ」 「でも、感覚の問題では片付けられないような長い日があるんです」 「例えば?」 「体育のある日。しかもそれがマラソンだったらもう最悪。明らかに地球の自転のスピードが遅いもの」  完全に感覚の問題だ。  そう思ったが、さっさと本題に移りたかった僕は特に否定もせず、数枚の原稿用紙を鞄から取り出し、彼女に差し出した。 「今日の分。自慢じゃないが自信作だ」  僕にはひとつ目標がある。  それは笹野紗々を笑わせること。  なぜ? と問われても回答不能。傲慢で自分勝手なのは重々承知だが、僕は彼女を笑わせてみたいといつしか思うようになっていた。  僕は自身の身長すら正確には知らない。そんな人間が自分の心の内を理解しようだなんて、随分とおこがましいことのように思える。 「昨日のやつはどうだった?」  仏頂面で原稿を受け取る笹野。 「読みました。歯を食いしばりながら」 「はあ?」 「それこそ金剛力士像みたいに」 「……どんな女子高生だよ。で、内容はどうだった?」 「そうですねぇ」  笹野は細い人差し指でそっと自身の唇を撫でる。
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