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第九夜
こんな夢を見た
暗い河を小舟で下っていた。
舟は人が座り込んで六人ほどの大きさであるのに対し、私と男の二人しか乗ってはいなかったのだが、気分でも悪いのだろうか、男が横になっていたためにさほど広くは感じなかった。それに比べ、河は大きかった。
しばらくすると流れが急になってきた。
そのためか、男が「揺れてくれるな」と言うので私は「揺らしてくれるな」と答えた。
しばらく揺れた。
その間になかなかの距離を進んだがやはり河口は見えてこない。
ふと気づくと手が紅く汚れていた。よく見ると舟も汚れている。そのもとは横たわっている男のものらしく、その暗い紅は私かにこの手を濡らしていたということだろう。
しばらくたった。
「揺れてくれるな」と男が言った。
私はまだ男にものを言うことができたのかと少しばかりおどろいた。
そのせいだろう。今までに幾度となく同じやり取りを繰り返してきたような気がするのに、あるいは全くの初めてだったのかもしれないが、言葉を返すのに詰まってしまった。
「揺らしてくれるな」私は知らぬ顔で返したが自分の唇が震えていることに気づいてしまった。
「揺らしてくれるな」怖くなってもう一度呟いた。しかし私は、前のそれとは違うものだと知っている。前のは河の流れか男か、あるいは誰かに向けてのものだったのに対し、今のは自分自身に聞かせるようであったと。
またしばらくたった。
見えてきた河口が眩しかった。
男は眩しさに目を細めた。どこか嬉しそうでもある。
その一方私は、そういえばこの男は、そして私はいつからこの舟に乗っているのだろうか、どこまで行くのだろうかと不安になってしまった。
河の流れは徐に波へと変わっていき舟が少し揺れた。
男は少し呻いて「揺れてくれるな」と言った。
「揺らしてくれるな」私は男を横目に水面を覗いた。それはどこまでも黒く、そのようでまた。
私は舟を大きく揺らした。舟を揺らすつもりはもちろんなく、沈んで行く私の体はどこまでもその黒さと一つに、そして紅は薄れて行く。
つぎに男がものを言うときには舟には誰もいなくなっているのだろう。
そして何も乗せることのない舟は水面を揺らし行く。
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