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 母さんは十六歳のときに『朝靄のエチュード』という映画に脇役で出た。 その映画自体はあまりぱっとしない出来で、興行収入もはかばかしくなかったけれど、母さんは一躍注目の若手女優と目されるようになった。 「あれは、けっこう難しい役だったのよ」と熊井女史は僕に聴かせてくれたことがある。 「脇役っていっても、重要な役どころだったの。最後のシーンに出てくるのは美紗子だけだったしね。それも、ワンカットで長台詞だったのよ。――あなた、あれ見てたわよね?」  僕はうなずいてみせた。熊井女史は髪をかき上げ、ハイライトに火をつけた。 「そう。なら、話は早いわ。けっこうなシーンだったでしょ? およそ八分くらいは美紗子しか映らなくて、しかもアップが多くて、長い台詞の前には顔だけで演技しなくちゃならなかったんだからね。でも、あの子は立派にそれをしてのけたわ。  まず、あの子は写真審査で監督に、まあ、見初められちゃったのね。だけど、まったく無名の素人でしょ。うちに入ってまだ一年も経ってなかったし、演技の経験なんて中学校の学芸会みたいな演劇部のものしかなかったんだもの。当然のことだけど、まわりのスタッフは猛反対したらしいわ。  で、形ばかりのオーディションをすることになったのよ。監督の本命は美紗子。だけど、二百人くらい集めて大々的にやったの。ま、それも映画の宣伝になるってことね。新人を発掘するとかなんとか、そんな感じよ。でも、新人っていっても何年も演技してきた無名の人間なんて掃いて捨てるほどいるの。そんな中であの子はみごとに役を勝ち取ったの。  そりゃ、監督ははじめから美紗子狙いだったけど、他の候補をすべて落として抜擢するだけのものを美紗子が持っていたのも確かね。原作者とかプロデューサーを説得するだけのものを持っていたのよ」
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