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水神も透の腰に回した手にぎゅっと力をこめた。
「……僕、今日は誠司さんのために過ごそうって決めてたんです」
「えっ、俺のために? 何言ってるの、初めての透との旅行ってだけで俺は幸せいっぱいなのに。これ以上何も望まないよ。いつもどおり、透に尽くさせてよ」
水神がそういうと、透はクスクスと可笑しそうに笑った。
「……誠司さん、ひょっとして忘れてません?」
水神は首を傾げる。
透に楽しんでもらいたいとそればかり考えていたけれど、もしや何か大切なことを忘れてしまったのだろうか。それでは何もかも台無しではないか。
「……忘れてる? え、ごめん。俺、何か忘れちゃってた? ごめんね、透」
「ふふふっ……やっぱり忘れてる」
透はそう言って、水神を引き離した。
するりとすり抜けていった透に、水神はとてつもない不安を覚える。何だかこのままこの手からこぼれ落ちてしまうんじゃないか、そんな気さえした。
透のことに関しては、何もかも自信がなくて、いつだってナーバスになってしまう。好きだから、こんなにも不安になるのだろう。
水神は、改めて透のことが好きなんだと実感する。少しでも離れると、心に隙間ができてしまう。透がいないと、満たされない。
一方の透は、水神の腕から抜けると部屋に設置されている電話の受話器を手に取り、どこかに電話を掛け始めた。
「……もしもし、はい。水神です。お願いしてもいいですか?」
フロントにでも掛けているのだろうか。最低限の言葉で会話が通じているようだ。
そして、くだらないことなのだが、水神は透が「水神です」と名乗ったことに嬉しくなった。まるで透が奥さんになってくれたようで、くすぐったかった。
「ちょっと待っててくださいね」
「……何、何なの?」
透は水神の問いには答えず、ニコニコと笑っている。
「……失礼致します」
そんな折、仲居の女性が部屋に入ってきた。
「ご用意してよろしいですか?」
「はい、お願いします!!」
水神は、ますます訳がわからなくなった。夕食にはまだ1時間はある。何を用意するというのか。
水神は透に目をやったが、透は笑顔のままである。
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