石有珠市温町3-8 築10年/1Rロフト/西向き 奥下急行小草駅 自社

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 玄関の呼び鈴を鳴らす音が聞こえた。  茉子は意を決して飛び起きた。  振り返りもせずロフトから降りる。 「誰……」  背後からそんな声が聞こえた気がした。  恐怖が頂点に達し、茉子は滅茶苦茶な悲鳴を上げながら玄関扉を開けた。  勢いよく開けた先に立っていたのは、黒いスーツの若い男性だった。  ここを管理する不動産の、事故物件担当だと前に自己紹介された覚えがある。  確か名前は、華沢 (そら)。 「ふ、不動産屋さん!」  (たつる)ではなかったが、この際、助けを求められるなら誰でも良かった。  茉子は、不動産屋の上着の袖を両手でぎっちりと握った。 「ああ……大海原(わたのはら)さん、今晩は」  不動産屋は微笑した。 「様子はどうですか」 「あ、あたし、もう怖い!」  茉子は取り乱して言った。 「でもでも、夫の収入考えたら、すぐに引っ越しは無理だし、もうどうしたら!」 「どう……しましょうね」  不動産屋は言った。 「僕はアドバイスくらいしか出来ないんですが」  玄関扉が開いた。  先程ロフトの夏布団の中に入ってきた女性が、カーディガンを羽織り顔を出した。 「ああ、不動産屋さん、今晩は」  女性は会釈した。  長い黒髪を耳に掛ける。 「すみません。夜中に来るって聞いてたのに、忘れて寝ちゃった」 「様子はどうですか」  不動産屋は言った。 「ええと……」  女性は部屋を見回した。 「事故物件って、どんなものかと思ってたんですけど、特に変なものは見ないなって」 「そうですか」  不動産屋は書類に何かを書き込んだ。 「昼間、部屋でちょっと寒気は感じたんですけど。あれなのかな」  女性は苦笑いした。 「ここで亡くなったって女性(ひと)、旦那さんのDVが原因でしたっけ」  「ええ、まあ……」  不動産屋は言った。  チラリと茉子の方を伺うように見る。 「勝手ですよね。家にいて欲しいから専業主婦やってくれとか言っといて、三年くらいしたら、仕事で苦労してる自分より(らく)そうだからムカついて殴った、でしたっけ」  女性は緩く腕を組んだ。 「あたし、そういうの聞くと、本当、結婚なんてしたくないって思うわ」 「ああ、ちょっと分かります」  不動産屋は言った。  業務日誌のようなものなのだろうか。  書類に何か書いていたが、途中でボールペンの調子が悪くなり、二、三度輪を描いた。 「あ、ボールペン? ありますよ」  持って来ます、と言って女性は中に消えた。 「……どういうことなの」  茉子は、女性がいったん閉めた玄関扉を呆然と見た。 「まあ、ゆっくり気付く方もいますから……」  不動産屋は言った。  何度かボールペンで輪を描く。 「……(たつる)は?」  茉子は玄関扉を眺めながら言った。  玄関扉が開いた。  女性がボールペンを持って来た。 「どうぞ」  そう言って不動産屋に手渡す。 「すみません」  不動産屋は受け取ったボールペンで続きを書き始めた。  この前、と女性は話を続けた。 「旦那の方は、出所後に自殺したって記事見ましたけど。ま、様見(ざまみ)ろですよね」  女性はカーディガンの袖を少し捲り言った。 「ここで殺された奥さんも、ちょっとは浮かばれたかな」  茉子は呆然と何もない空間を眺めた。  不動産屋は気まずそうな表情で、何かを書き続けていた。  終
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