石有珠市温町3-8 築10年/1Rロフト/西向き 奥下急行小草駅 自社

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石有珠市温町3-8 築10年/1Rロフト/西向き 奥下急行小草駅 自社

 蝉の声が(にわか)(うるさ)くなった。  昔ほどではないとはいえ、暑い時期にひっきりなしに続く耳障りな鳴き声は、やはり苛々(いらいら)する。  最近は温暖化の影響とかで、蝉の声も昔ほどではないということだが。  大海原 茉子(わたのはら まこ)は、窓から夏空を見上げた。  ここに越して三年目の専業主婦だ。  夫とは学生時代から付き合い始めて、卒業間もなくして結婚した。  まだ収入も少なかったので安い部屋を借りたが、それでも夫は専業主婦として家にいて欲しいと言った。  家にいて自分だけを待ってくれる人がいるというのが、理想の結婚生活だったと言った。  茉子も賛同した。  家にいて、夫のことだけを考えて待っているというのが、少女時代に想像していた幸せな結婚だった。  風呂場の扉を開ける音がした。  茉子は振り向いた。 「(たつる)、今飲み物を……」  茉子は表情を凍りつかせた。  風呂場から、長い髪を濡らし俯いて現れたのは、夫の(たつる)ではなかった。  二十代後半ほどの女性だった。 「え……あの」  茉子は座った格好でフローリングの床の上を後退った。  またこの女性だ。  不動産屋から、この部屋が事故物件だとは聞いていたが、何度見ても慣れることはない。  女性は我が物顔でワンルームの部屋の真ん中に座ると、濡れた髪からぽたぽたと水滴を落とした。  フローリングのワックス剥がれちゃう。  そんなどうでもいいことを頭の片隅で考えた。  だが、水滴を拭くためにその女性の真ん前に進む勇気はない。  ただひたすら女性の動きを目で追った。  女性は、部屋をぐるりと見回すと、茉子に目を止めた。  ひっ。  茉子は、部屋の端に寄り身を縮めた。 「寒……」  小さな声で女性はそう呟いた。 「寒けが……」  ぼそぼそとそう続ける。  茉子は更に身を縮めた。  女性はおもむろに立ち上がると、また風呂場に消えた。  暫くシャワーを流すような音が聞こえたが、やがて消えた。  茉子は、ホッと息をついた。  洗濯の途中だったのを思い出した。  立 が帰って来るまでに済ませなければ。  午後十一時。  立 はまだ帰ってはいなかった。  少し迷ったが、茉子は先に寝ていることにした。  深く眠らないようにすれば、鍵が開く音で目を覚ますことが出来るだろう。  帰って来たら、すぐに起きて夕飯を温めて出してあげればいい。  ロフトに敷いた夏布団に入った。  ふう、と息をつく。  主婦業も結構疲れる。  何だかんだで一日中何かしらしている。  布団に入ると、すぐにうとうとと眠気が来た。  気持ちよく眠りに誘われ、すうっと眠る。  どれくらい経っただろうか。  不意に。  ぺた、ぺた、と音がした。  ぱちっと目を開ける。  枕元の明かりを点けようと手を伸ばす。  明かりは点けっ放しだった。  消し忘れて眠ってしまったのねと思った。  ロフトに昇る梯子(はしご)から聞こえているようだ。  湿った裸足の足の裏で昇るような音。  目線だけを動かし、部屋の中の見える部分だけを見回す。  立 はまだ帰ってはいないようだ。  ここには茉子しかいない。 「な……やだ」  茉子は起き上がろうとしたが、身体が強張って動かなかった。  ぺた、ぺた、と足音が近付いて来る。  ロフトの手刷りの隙間の部分から、一重の大きな目がこちらを見ていた。  茉子は声すら上げられず身体を硬直させた。  こ、怖い。  全身が総毛立つ。  昼間に風呂場から出てきた女性だ。  んー、と唸るような声を出し、ロフトに上がった。  長い黒髪をばさりと両肩から垂らし、四つん這いでゆっくりとこちらに来る。  ひいいっ。  茉子は両手で頭を抱え背中を向けた。  立 は、こんなのを見たという話は一度もしたことがない。  あたしの前にだけ現れるんだ、この女性(ひと)。  女性はしんどそうな手付きで、布団の端を捲った。  そのまま当然のように布団に入り、背中を向けた茉子の背後で横になった。 「疲れた……」  ハスキーな声でぼそりと言う。  茉子は怯えて目をきつく(つむ)った。  女性の、深い吐息のような音が耳に届く。  苦しそうな息に茉子は感じた。  立、まだ帰らないのかな。  早く帰って来て助けて。
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