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「あの」
書類を確認していた不動産屋は、こちらを向いた。
「ここの女性、大丈夫ですか」
樹は言った。
「女性」
不動産屋は、扉を開けっ放しにした玄関口から、隣の部屋の奥の方を眺めた。
「あの男に……その、暴力振るわれてたらしくて、さっきから声もしないし」
不動産屋は、じっとこちらを見ていた。
「いや、聞いてただけで何もしなかったのも悪いけど」
「お独り暮らしですよ、ここ」
書類を確認しながら不動産屋は言った。
いや、と樹は声を上げた。
「女の人いましたよ。いつも今頃の時間帯に暴力振るわれてて」
不動産の方で把握していなかった同居人なのだと思った。
もしかして怪我をして倒れているのかもしれない。
「すみません、いいですか」
樹は不動産屋を軽く押し退け、隣の部屋に入った。
奥の部屋は、水回りとの仕切りの引き戸が閉められていた。
三和土で急いでスニーカーを脱ぎ、樹は水回りを通り過ぎた。
「あのっ、隣の者なんですけど、大丈夫ですか」
そう声を掛け、引き戸を開けた。
カタン、と音がした。
布団が一人分だけ敷かれた部屋。
踏み台のようなものが部屋の真ん中に転がっていた。
目の前に、何かがゆらゆらと垂れ下がっていることに樹は気付いた。
ちょうど電灯の辺りから下がっているのか、と思い天井を見上げた。
女性が、首を吊っていた。
長い、ばさついた髪の女性だった。
女性はだらりと身体を弛緩させながらも、大きな目をぱっちりと開け、樹と目を合わせた。
「だって……だって……」
女性はしゃくり上げた。
「何回もやってるのに……中々死ねないんだもん」
女性は弱々しい声で泣き始めた。
身体が微かに揺れて、首を吊った縄がギイギイと音を立てていた。
「ひ……」
樹は裏返った声を上げ、ぎこちない動きで後退った。
そのまま畳に尻餅をついた。
「ご挨拶が遅れました」
不動産屋が入室し、横で屈んだ。
小刻みに震えて座り込む樹に、名刺を差し出す。
受け取るということに思い至らず、樹はその名刺を横目で見た。
華沢不動産、事故物件担当、華沢 空とあった。
「事故物件担当って……」
「こういう物件ですね」
不動産屋は、落ち着き払って言った。
「ここ、事故物件だったの……」
「ご覧の通り、十五年ほど前にこの女性が自殺なさいまして」
名刺入れを内ポケットに仕舞いながら不動産屋は言った。
ご覧の通りって……と樹は頭の中で突っ込んだ。
「自殺なさった時間帯に現れて、二十分ほどで消える以外は無害なので、長く住んだ方も結構いらっしゃるんですが」
緩く腕を組み不動産屋は言った。
何か、この人もさりげに感覚おかしくないか、と樹は腰を抜かしながらも思った。
「何で二十分……」
樹は震え、呂律の回らない声で言った。
「推測ですが、絶命するまでの時間だったのではないかと」
不動産屋は言った。
聞くんじゃなかったと樹は思った。
「立てますか」
不動産屋は言った。
脚を動かすのも覚束ない樹の様子を見ると、手を貸して立たせてくれた。
「お部屋にお送りします」
そう言い、部屋から連れ出してくれる。
親切な人だなと樹は思った。
元はといえばこの不動産屋が別の部屋だからと一言も教えてくれなかったことから起こったことなのだが、この時は動揺して感覚がずれていた。
終
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