朝石市片吉3-7 築30年/アパート1K キッチン窓あり/告知事項あり/自社 

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朝石市片吉3-7 築30年/アパート1K キッチン窓あり/告知事項あり/自社 

 ぬいぐるみは、職人がひとつひとつ手作りしたドイツの高級ブランドのティディベア。  ぬいぐるみに詰めるお米は、農家直送の東北産高級ササニシキ。  縫い針は京都の伝統ある工芸品店「みすず」の高級縫い針。  赤い糸は、最高級の柞蚕糸(さくさんし)を使ったシルク百パーセント高級糸。  刃物は大阪堺の職人が作った高級和包丁。  イタリア、ムラーノ島の職人が伝統的な製法で作ったヴェネツィアングラスに、二リットル一万八百円の高級ミネラルウォーター。  そこに、イタリア産の最高級天然塩をひと摘まみ入れて塩水にする。  栄養に気を付け睡眠を充分に取り、ビタミン剤を服用して伸ばした健康な爪を、匠が作った高級爪切りで綺麗に切る。  時間はもうすぐ午後十時。  六畳一間のアパートの和室。  ひとりぼっちの部屋で、津波古 明日香(つはこ あすか)は、ぱちん、と爪を切る音を立てた。  長い黒髪を耳に掛け、用意した物をじっと見て涙ぐんだ。 「幽霊さん、これなら来てくれるかな」  唇が震えた。  ネットで見た、ひとりかくれんぼをやろうとしていた。  結婚まで考えていた彼に他の女性がいるらしいことが分かり、別れを決めた。  彼の自宅から離れたこの地域に、二週間前に引っ越してきた。  自棄(やけ)になって、わざと事故物件というものを選んだ。  幽霊が呪い殺してくれないかと思った。  しかし、いまだ幽霊は現れない。  考え得る限りの奮発した道具を準備して、もてなして呪って貰おうと思った。  本当は午前三時にやるそうだけど、十二時以降は眠くなるのでごめんなさい。  明日香は手を合わせた。  目を開け、おもむろにぬいぐるみを手に取る。  名前を付けるんだっけ、と思った。 「ティディちゃん」  そう口にした。  幽霊に、高級ドイツ製ぬいぐるみということをアピールした方がいいだろうか。 「ブランドちゃん」  明日香は言った。  宙を見上げ、顔を(しか)めた。 「ドイツちゃん」  いまいちだな、と考えた。 「ヴォルフラム」  適当にドイツ人男性っぽい名前を言ってみた。  そこまで言ったら、涙がじわりと滲んだ。 「巧海(たくみ)」  別れた彼の名前を口にした。  ぬいぐるみをぎゅっと握り、顔に当てて嗚咽した。  中に詰めた高級ササニシキの米粒がざくざくと音を立てた。  一頻(ひとしき)りしゃくり上げた後、部屋の隅の姿見を見た。  ここ一ヵ月で少し痩せた。  元々細面の顔は、更に(あご)がシャープになった気がする。  胸の下まで伸ばした黒髪を下ろしていると、自分が幽霊みたいだと思った。  気を取り直して、顔を上げた。  ぬいぐるみを両手で持ち、正面から見据えた。 「最初の鬼は、わたしだから」  そう言い、風呂場に向かった。  水を張った浴槽にぬいぐるみを入れるのが最初の手順。  浴槽の水面を見て、明日香は固まった。  巧海を水に沈めるなんて出来ない……。  暫く考えた。  浴槽の(ふた)を少し開け、蓋の上に置いた。  少々変則的だけど、大丈夫よねと思った。  幽霊さん、必要ならご自分で入れてください、と念じて手を合わせた。  部屋の電気を消し、テレビを点けた。  アナログ放送の砂嵐を点けるのが決まりだそうだが、現在では不可能だとネットにあった。  代わりに用意していた砂漠の砂嵐の録画を付けた。  黄土色の砂が激しく舞い上がる様が、何かロマンチックだと思った。  こんなロマンチックな映像見ながら、わたし取り憑かれて死ぬんだと思った。  十秒数え、高級和包丁を持って再び風呂場に向かう。 「巧海、見付けた」  明日香はぬいぐるみに向かい、そう言った。  巧海と仲良く過ごしていた頃を思い出して、ぽろぽろと涙が出た。 「次は巧海が鬼だから」  そう言い、和室に戻った。  正座して、畳の上に和包丁を置く。  高級ミネラルウォーター入りのヴェネツィアングラスを持って押し入れに隠れた。  これで手順は完了。  幽霊さん、探しに来てわたしを呪い殺してください。  明日香は手を合わせた。
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