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「あの、いいか、お姉ちゃん」
押し入れの中。
すぐ側から、年配の男性の声がした。
隙間から僅かに漏れるテレビの明かりから察するに、作業着のようなものを来た、がっしりとした男性のようだった。
「ひ……」
明日香は息を呑み、その場で固まった。
身体中が震え、動けなかった。
「畳の上に包丁出しっ放しは危ないんじゃないかなあ」
男性は言った。
明日香はガクガクと震える唇をやっと動かし、何とか言葉を発した。
「ご……強盗ですか」
「いや、作業員のお兄さん」
ニヤニヤしながら言っているような口調に聞こえた。
「お……お兄さんってご年齢じゃ……ないですよね?」
押し入れのベニヤ板の床に手を付き、明日香は座った姿勢で後退った。
「ええー、おじさん、そんなこと言われると悲しいなあ」
男性は過剰におどけてみせた。
寒い。
絶対、昭和の人だ、この人。
明日香は唐突に冷静になりそう思った。
「ご、強盗ならそれでもいいです。わたし死ぬつもりだったんです。どうぞ」
明日香は黒髪を手で退かし、グッと首筋を差し出した。
「今時は、それで触ったらセクハラって言われるじゃん……」
男性は言った。
「言いません。何なら、あんなことやこんなことして、楽しんでからでも結構です」
「どんなことそれ……」
男性は呆れたような口調で言った。
「煙草吸っていい?」
男性はそう言い胸ポケットの辺りを探った。
「禁煙です」
つい習慣で、明日香はさらりと言った。
男性は胸ポケットの辺りに手を当て、暫く黙っていた。
だいぶ間を置いてから、自身を指差すように手を動かした。
「ここの二十年前の住人っていうか」
「住人……」
明日香は反芻した。
ややしてから、ここが事故物件であることを思い出した。
「いやあああああ!」
明日香は四つん這いで押し入れの戸を開けると飛び出し、バタバタと走り回って部屋と水回りの電気を点けた。
「夜中に、ご近所迷惑じゃないの」
作業着の男性が和室の真ん中に立ち、頭を掻いていた。
無精髭を生やした、体格の良い男性だった。年齢は四十代から五十歳前後といったところか。
「明かり点けたのに何でいるのおおお!」
明日香は長い髪を振り乱し怯えた。
「ていうか、幽霊呼びたかったんじゃないの?」
男性は言った。
はっと明日香は表情を引き締めた。そうだった。
「か、覚悟は出来ています。今すぐ呪い殺してください!」
「出来てないじゃん……」
男性は言った。
明日香はその場に座り込み、ぽろぽろと涙を溢した。
「わ……わたしなんて、死んじゃった方がいいんです……」
うええ、と顔を歪めて泣きじゃくってしまった。
相手が父親くらいの年齢だから、気が弛んだのだろうか。
男性は目の前に来てしゃがんだ。
「何あった。彼氏にでも振られたか」
明日香は更に激しく泣きじゃくってしまった。
「いかにも振られそうな女って分かるんですねええ!」
「いや……適当に言ってみただけだけど」
男性は言った。
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