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玄関の呼び鈴が鳴った。
「蓮川さん」
玄関扉の向こうから、テノールの男性の声がした。
聞き覚えのある声だった。
ここを管理している不動産の事故物件担当の人だ。
「出られますか? 無理なら、勝手に入らせていただきますが」
ぬいぐるみが仁王立ちになり、玄関扉の方を見据えていた。
睨み付けるような表情に見えたが、錯覚だろうとは思う。
扉を開けには行けそうだったが、その間にぬいぐるみが何をやり出すか分からない。
「どうぞ。入っていいですよ」
巧海は、やや疲れた口調で言った。
合鍵で鍵を開け、「失礼します」と言って入って来た不動産屋は、仁王立ちして睨み付けるぬいぐるみを見て、状況を察したようだった。
普通であれば完全に戸惑いそうな状況で、この落ち着きぶりはさすがだと思った。
事故物件担当ともなると、少々の除霊の経験くらいあったりするんだろうか。
思わず巧海は期待した。
「彼はあたしのものなの」
ぬいぐるみは言った。
和室に入って来た不動産屋は、巧海の方に目配せした。座っていいかと尋ねているようだった。
「どうぞ」
巧海がそう言うと、不動産屋は畳の上に正座し、大きく息を吐いた。
「……非常に申し上げにくいのですが」
ぬいぐるみに向かって、不動産屋は静かに言った。
おおっ、と巧海は唾を飲んだ。
幽霊はあまり信じていなかったが、ここで生の除霊が見られるのか。これはこれで貴重な体験だと思った。
「恋人の明日香さんからいろいろとお聞きしたところ、彼は大人のビデオをこっそり視聴するのがお好きだというお話で」
不動産屋は言った。
巧海の方を手で指し示しているのに気付いて、巧海は座ったまま後退った。
「いきなり何の話 ? ! 」
顔が引きつった。
不動産屋は、落ち着き払ってぬいぐるみを真っ直ぐに見ていた。
「お、男なら観るでしょ」
「そうですね」
特に何の感情も込めず、不動産屋は淡々と言った。
「不動産屋さんも観るでしょ?」
「それはちょっと申し上げにくいんですが」
不動産屋は言った。
「特にお好きなのが、やや幼顔の美人で、バストが豊かなタイプの女優さんだということで」
「ななな、何で明日香がそんなの知ってんの!」
更に畳の上を巧海は臀部で後退った。
「知らないふりしてくださってたんじゃないですか?」
「いやあああ! そんなのあたしの彼じゃないいい!」
唐突にぬいぐるみが金切り声を上げた。
両の頬にモフモフした手を当て、激しく首を振った。
「仰る通りです。この方は、あなたの彼ではありません」
会釈するような仕草でやや顔を伏せ、不動産屋は言った。
「あたしの彼は、もっと爽やかで潔癖で純粋で、王子様みたいな人なのおお!」
ぬいぐるみは叫んで身を捩らせた。
「悪かったな……」
巧海は顔を顰めた。
「こんな汚らわしくてイヤらしい男、彼じゃないいいっ!」
ややしてから、ポテ、という風にぬいぐるみは倒れた。
暫く見ていたが、再び動く様子は無かった。
幽霊が抜けたという解釈でいいのだろうかと巧海は思った。
「……何なの、こいつ。ここにいた幽霊?」
ぬいぐるみを凝視したまま巧海は呟いた。
「ここで亡くなったのは、ホストのお仕事をなさってた男性で、成仏したらしく一度も現れてません」
「んじゃ、これに今入ってた幽霊は?」
「ここの隣の市に在住していたOLさんで、事故で亡くなっているらしいんですが」
不動産屋は言った。
「多分ですが、こっそり通っていた店のホストさんと、あなたとを勘違いしたのではないかと」
巧海は暫く固まっていた。
ややしてから、おもむろに自身を指差した。
「……似てんの?」
「そこまでは知りませんが」
そう言い、不動産屋はゆっくりと立ち上がった。
「もう来ないとは思いますが、ご心配なら魔除け代わりにビデオのパッケージを並べておくという手も」
「無理でしょ。彼女と住むつもりなんですが」
ああ、そうでしたと不動産屋は言った。
「プロポーズのご成功、おめでとうございます」
不動産屋は深々とお辞儀をした。
「あ、いえ」
「では」
そう言い、不動産屋は玄関口に向かった。
終
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