朝石市片吉3-7 築23年/アパート1K 告知事項あり 自社

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 学校帰りにスーパーで買い物し、葉月はエコバッグを片手に階段を昇った。  玄関扉の前にいったん置き、中にいる湊子に声を掛けようとした。  そのときだった。 「ちょっと聞きにくいんですが……」  男性に声をかけられた。  いつの間にそばに来ていたのか分からなかった。  少々驚いた。  年齢は三十歳前後くらい。  クールビズの格好が板に付いてる感じだ。会社員か何かだろう。 「ここの部屋の人ですか?」  男性は言った。  暫く顔を眺めて、雨の日にアパートの前にいる男性に似ていると気付いた。 「だから? 何です?」  警戒心を露にして葉月は言った。  いえあの、と男性は口籠った。  葉月の口調に気圧された感じだった。 「ここに、若い女性の霊が出ると聞いたんですが……」 「湊子ちゃんに何の用?」  葉月は腰に手を当て言った。 「あの、その幽霊は、二十年前の洪水で亡くなった女性(ひと)ですか?」 「だから何? 湊子ちゃんは、それでも一生懸命生きてんのよ」  いや生きてないって。葉月は脳内でセルフ突っ込みをした。  男性は、言いにくそうに俯いた。 「その……お礼を」 「は?」 「その洪水のときに、その方に助けて貰った子供です。当時十歳で」  男性は言った。 「だいぶ後になって、洪水で亡くなったと聞いて、僕を助けたせいかなとか思って」  葉月は大きめの目を見開いて男性を見た。 「旦那さんとここに住んでた人だと分かって、いつも通るたび気にして見てたんです。特に、洪水の時と同じ雨の日なんか出やすいのかなとか思って」 「旦那さん?」 「あの」  不意に玄関扉が開いた。  湊子が玄関から顔を出した。 「立ち話も何ですから、中でお茶でも」 「いえ、今は、その……こちらの人の独り暮らしの部屋みたいですし」  男性は葉月を指した。 「あのときのボクだったのね」  湊子はにっこりと笑った。 「大きくなったねえ」  湊子ちゃん、親戚の叔母さんみたいと葉月は思った。 「僕を助けて逃げ遅れたのかなとか、ずっと思っていて」 「違うよ」  湊子は手を振り否定した。 「そのずっと後よ。夫を探しに行って、川と道の区別が付かなくて、流されちゃった」 「そうですか」  男性は言った。 「あの時は、ありがとうございました」  深々と礼をする。  男性はゆっくりと顔を上げると、アパートの通路を去って行った。  葉月は湊子の方に向き直った。 「湊子ちゃん、結婚してたの?」 「してたけど」 「なっ、何で言わなかったの?」 「聞かなかったし」  湊子は言った。 「まだ見つかってなくて。夫の遺体」  湊子は苦笑した。  葉月は湊子の顔をじっと見た。  だから成仏出来なくてここにいたのかな。  そんな悲しいことを抱えながら、自分の夕飯を作ってくれたり洗濯物を畳んでくれたり、昼間に部屋の掃除してくれたり、麦茶を作って冷やしておいてくれたり、お布団干してくれてたり、お風呂を沸かしてくれたり、靴下をちゃんと揃えて用意してくれたりしてたのか。  改めて考えると、自分の家事の出来なさに打ちのめされるが、ともかく。  葉月は、湊子に向き直った。 「湊子ちゃん、そういうことは早く言いなよ。あたし、湊子ちゃんの旦那さんの遺体探すの協力する」  葉月は言った。 「あちこち調べたら、何か分かるかもしれないよ」 「でも葉月ちゃん、そろそろ就職活動しなきゃならない時期でしょ」  湊子はにっこりとして言った。  うっと葉月は言葉に詰まった。 「就活終わったら、調べてあげるっ」 「葉月ちゃん、就職は地元でするんじゃなかったっけ」  湊子は言った。  ううっと葉月は呻いた。 「商店やってる伯父さんのコネがあるとかって」 「こっちでする」  葉月は湊子の両手を取った。 「不動産屋さんが今日来たら、契約延長したいって言うからね」  葉月は言った。  不意に思い付き、宙を眺めた。 「その代わり、就職してからも家事やって」  えへへ、と葉月は笑った。 「葉月ちゃん……」  湊子は呆れたように言った。  コンロの上では、鍋がグツグツ音を立てていた。  終
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