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僕の腕の中で暴れる彼の頭を水面に押し付ける。
すべての力で。
残されたすべての命で。
ただ手の中にある物体と狂った欲求を水中に押し沈め続けた。
左手と両脚で暴れる彼をしっかりと羽交い締めにしながら、右手で彼の頭を水中に抑え続けた。
僅かに水面から出ている口と鼻で呼吸を続ける。時々、首を少し上げて大きく息をしたけれど、頭を持ち上げることが辛くなってきたよ。
でも彼を抱く力は緩めてはいけない。
彼の頭を水中に押さえる力も緩めてはいけない。
彼の頭を押さえる右手の力が不思議だった。僕の体のどこに、こんな力があったんだろう?
腹の熱さが蘇ってくる。
でも水路の水の冷たさがそれを忘れさせてくれている。
彼の抵抗がなくなった気がする。
水の音がしている。
さっきまでは轟々という列車の通過音でわからなかったのかもしれない。
貨物列車だったんだな、通過音が長かった。
雨の後、水量が増している水の音も、狭い水路の壁と僕に挟まれた彼がもがいて出す音も、地下道に響く列車の通過音にかき消されていたんだ。
遠く離れて行く貨物列車の音がすっかり聞こえなくなってからも、残されたすべての力で彼の頭を押さえ続けていた。
彼の下半身に脚を絡め、その体を抱きしめ続けた。
彼の出していたわずかな水音はすっかり止まっている。
チャンチャンという音ももうまったく聞こえない。
腹に刺さった包丁の存在も、それによって感じた熱さももう感じない。
流れる水のおかげかもしれないし、そうでないのかもしれない。
ただ生まれたばかりの水は想像どおり冷たかった。
気持ちいいね。
まったく動かなくなった彼の頭を押さえ続けながら、彼の右腕がプカリと水面に浮いたことを確認してから、彼を抱く片手の力を少し緩めて腹に刺さっている包丁を抜いた。
ゴボッという音がした気がする。
脚を解いた。
包丁を捨てて彼の体をもう一度抱きしめる。
君は僕だね。
熱帯夜が狂わせたんだ。
地下道の北と南にいただけだ。そして南にいた僕は彼女に会えた。
幸せをもらえた。
もし北にいたら、君のように狂ったかもしれない。
でもだめだよ。
・・・特に彼女はだめだ。
心臓がドクドクと動くのがわかる。血液を循環させようと。
でも循環はしない。
山からの水が水路に僕の血液を流す。
遠のいていく意識の中で、メモの言葉を声に出してみる。
「・・あ、ありがとう」
開いた口から入った生まれたばかりの水が、体内も冷やしてくれる。
・・・届いたかな
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