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もちろん更衣室なんかない。着替える時は駅前の駐輪場の片隅を借りる。
1時間遅れでやってきた交代の大学生が、現場監督に怒られてブチブチ文句を言いながら指定の場所に立ったあと、僕は駐輪場に向かった。
5時を過ぎている。1時間の残業。
彼は僕に謝ることも『おつかれ』の言葉もなく、ずっとブチブチと現場監督への文句を言っていた。
この時間からは少し楽だと思う。少なくとも太陽はない。応募した時はこの時間を希望したがそこはもう埋まっていた。彼が決まっていた。
でも今は朝でよかったと思っている。
僕がそう思う理由のチャンチャンという音が聞こえたのは、汗だくの体をタオルで拭いてジーンズを履いた時だった。
裸の上半身にあわててTシャツを着て、駐輪場の入口から隠れるように覗く。
彼女だった。
駐輪場の前を通った彼女が駅の方へ向かい、僕に気づかずに背中を向けたとき、
「シオリってば!」
早歩きでそう叫びながら、駐輪場の前を誰かが通った。小走りで彼女に近づいて肩に手を置く。
彼女は少し驚いて振り返ってから、イヤホンを外した。
「センパーイ、どうしたんですか?」
彼女の顔に親しい者にだけ向けられる笑みが浮かぶ。
「これ、忘れてたよ!」
「あー、しまったぁ。ありがとございまっす!」
「音楽の音大きすぎ、難聴なるよ。なんか食べに行こ」
「はーい、今日はグリンカレーな気分ですぅ」
「暑いからねえー、よっし辛ーいのいこう!」
彼女たちはそう言って駅に向かった。
シオリ、それが彼女の名前!
いつも音楽を大きな音で聴いている。毎朝、僕に挨拶をしてくれるとき、彼女はすっと左耳だけイヤホンを外す。
そんな人はいなかった。これまでの僕の人生に、僕に挨拶をするためにイヤホンを外す人なんていなかった。
シオリ・・さん。
その日、コンビニでグリンカレーを買った。初めて食べた甘いのか辛いのかわからない微妙な色のカレーは、これまで食べた物の中で一番美味しく感じた。
シオリ・・・どんな字を書くんだろう。
詩織、栞、紫織、志織、志緒理、詞織、しおり・・・
食べ終わったグリンカレーの容器もそのままに、手元にあったチラシの裏にシオリと読める字を書き続けた。
古い扇風機のカタカタという音が、またチャンチャンと聴こえてくる。それだけで楽しくなっている。
シオリ・・さん。
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