向日葵 1

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*  いつものように暑い朝だった。  不思議なことに今年は昼間に蝉が鳴かない。その分を取り戻そうとするように、朝から油蝉が煩い。  蝉の声がピークになる頃、あの彼女たちが工場へと続くこの道に現れる。  上品に露出した肌は眩しくて、僕は誰一人としてまともには見られない。  軽く会釈をくれていた数人も、咄嗟に視線を逸らす僕に呆れたのか、こちらを見ることもなく通りすぎて行く。彼女たちの耳にもいつもイヤホンがあった。 「おはようございます!」  その声が自分にかけられたものだとは、気づかなかった。だから敢えて視線を逸らすこともなく、僕は彼女と目があってしまった。  咄嗟のことに反応もできない僕にニコリと笑顔を見せて、彼女は工場へと続く道を進んで行った。  幼稚園の子供みたいに斜めがけした鞄から、チャンチャンと音がする。カラビナフックでいくつもの鍵をつけているのか、チャンチャンと軽やかな音をリズミカルに立てながら、彼女の背中が小さくなっていった。  ギラギラと温度を上げる空気の中に、一陣の風が吹いたような心地よさが混じる。  朝の7時から夕方の4時まで。それが僕のこの現場での勤務時間。間に45分の昼休みがある。  冷房が効いているのは近所のコンビニだけ。  コンビニで買ったパンを駅前の小さな公園のベンチか、道の端に座って食べる。  ペットボトルの中のお茶は一瞬で無くなる。そこに駅の水道で水を貰って現場に戻ると、休憩時間は終わってしまう。  ただ、その日は休憩時間の前から交代時間の4時まで、軽やかな「おはようございます!」が頭の中に響いていた。  ろくでもない一日が少しだけ色づく。彼女もいい匂いがした気がする。  その日から毎朝、彼女の「おはようございます!」は続いた。  それが僕にかけられている言葉だと気づいてからは、その声をただ待っていた。  少し前の経験から学んだ僕は、彼女の声に会釈を忘れなかった、声を出すことはなかったけれど。  僕の前を通り過ぎた彼女の背中を見送る心の中で「いってらっしゃい」と呟いていた。彼女はすれ違う散歩中の犬の背を撫でたりしながら、アスファルトの上を工場の方に進んで行く。  彼女の挨拶を聞いた後は、煩い蝉の声さえも夏らしいBGMに感じていた。  明日を楽しみに思うのは、生まれて初めてかもしれない。
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