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「一緒に、行こう」  蛍が舞う。宵闇の向こうに、川の涼やかなせせらぎを聞く。背後には、一枚の膜を隔てたような、祭囃子の音色。  差し出された手の平は、月明かりの下で白く輝いているかのようだった。  一拍、二拍、逡巡の後に紡がれた言葉は、その通り、躊躇いと迷いが存分に含まれている。  その手を取ってはならないと、本能のように理解していた。何故だかは分からない。大体の場合、本能に理由は不要だからだ。逆に、諸々の行動の理由として、本能が挙げられることが多い。だが敢えて、本能に人間的な理由をつけるとするならば、簡潔に生きるため。人が生きるために備わっている機能が、本能なのである。  今夜は月が明るい。はて、月は出ていたのだったか。ふと不思議に思い、所在を確かめるために空を見上げる。  いつも、そうだった。  いつも空を見上げたところで、映像は途切れてしまう。  いつの頃からか見るようになった。もう何度目になるかも分からない。繰り返し見ている夢は、そのようなものだった。 *   記憶とは、砂山のようなものだ。絶えず新たな記憶の砂が降り積もり、過去の記憶は埋もれていく。下方に蓄積した小さな砂つぶを掘り返そうとしてみても、確かにそこに存在しているはずなのに、探し当てることは困難である。  忘却は砂山に似ていた。 *  夕闇が差し迫っている。  東から侵食してきた夜の気配は、瞳を刺す、夕日の茜色をもってしても堰き止められるものではない。輪郭が曖昧になる頃合いを見計らったように、頭上に張り巡らされた提灯に明かりが灯った。  行き交う人の顔が、よく見えるようになる。  明かりが点こうと夜の到来は避けられるものではなかったが、家路を急ぐ者は居らず、人々の顔には「これからが佳境」とばかりに陰りが見えない。老若男女、皆が楽しげな装いをしている。  夏の終わり、盆に開催される納涼祭の最中だった。  チセの地元にある神社を舞台に、毎年開かれている祭で、歴史は数百年前からあると言う。豊作を祈り、収穫の感謝を神に伝えるのが目的だと、小学生の頃に聞いた覚えがある。  元は田園地帯であったらしいが、都市開発が進み、周辺地域と統合を繰り返した町は、灰色の道路を網目に、家とビルとが犇めき合っている。  天に伸びるような高い建物はなく、都会とは比べ物にはならなかったが、それでも田んぼと呼べるものは絶滅していた。あるとすれば、個人が寄り集まって行なっている、菜園くらいである。チセの母も、近所の畑に足繁く通い、井戸端会議の延長線上で、かしましく野菜の世話をしていた。  小高い岡の中腹に建った神社からは、町を一望できる。  緑の少なさに比例して、豊作や収穫を祈っている者は数少なだろう。  人々の目的は、神社の参道に出ている出店と、夜半から始まる盆踊りである。確かに、これからが本番であった。  物心がついた時から通っている盆踊りだったが、チセは今夜は参加を見送るつもりでいた。その予定通り、夜の気配に足を止めていたチセを呼ぶ声がする。 「チセー! 行くぞー!」  参道の先で振り返った人が、チセに大手を振っている。  応えるようにチセは微笑んで、重たい体を動かした。あ、と思った時には、スニーカーの靴紐を踏んでいた。 *  目を開けた時、チセは家路を歩いていた。  先程までの祭囃子や喧騒は嘘のように消えており、辺りはひっそりとした住宅街だった。  明かりが点く家もない。等間隔に並んでいる街灯だけが、寂しい光源だった。  左腕につけた腕時計を確認すると、短針は天辺を少し越えたあたりだ。  遊び過ぎたな。  溜め息とともに胸の内で独り言ちると、億劫さからか、やはり重く感じる体で家に急いだ。  浴衣の装いは、夏の終わりの涼しい夜風を、肌寒くも伝えてくる。カランコロンと下駄の音を急がせて行くと、たった一軒、チセの家だけが明かりを灯していた。  玄関を開けて最初に鼓膜を響かせたのは、母の泣き声だった。  居間から聞こえてくる啜り泣く声に、チセは居心地が悪くなって鼻白む。  中学最後の夏休み、友人と遊びほうけて午前様だ。叱られると分かりきっていたことで、反抗期の真っ只中にあるチセにとっては、日常茶飯事のことでもあった。  やっぱり帰って来なければよかった。返しかけた踵は、玄関扉が開いた音を聞きつけた母によって止められた。 「どこに行ってたの!?」 「今何時だと思ってるの!?」 「あなたは受験生なのに!」 「どうしてこんな事ばかりするの!?」  立て続けに喚く母の後ろに、居間の扉から心配そうに見守っている父の顔を見る。  堪えられず、チセは家を飛び出した。母の責める言葉は堪えるものがある。その中でも特に、進路や将来について、責められるのは苦手だ。  母が望む進路と、チセが望む進路が相違している。  家を飛び出したところで、たかだか十五歳の中学生に、行く宛などなかった。とぼとぼと来た道を引き返すチセは途方に暮れる。  早く大人になりたい。  どこか遠くに行きたい。  その強さが欲しい。  大人になれば、その強さが手に入ると信じていた。  神社の近くに来ると、遠くから祭囃子の音色が聞こえた。陽気な音に誘われるようにして視線を上げると、神社へと続く石段には明かりが灯っている。  赤提灯に引かれて、チセは石段を登った。  神社は、今だ賑わいを見せていた。  頭上に巡らされた提灯は煌々と光っていて、左右に並んだ出店からは空腹をくすぐる匂いが漂ってくる。境内に建てられた櫓の上では、太鼓が鳴っており、周りで踊る人影が見える。  石段を登りきったところに在る鳥居で、思わず足を止めたチセに、声がかかった。一緒に鈴の音がし、止まった。 「邪魔なんだけど」 「あ、ごめん」  後ろから聞こえてきたのは、不機嫌そうな声だ。  驚きつつ道を開けるも、憮然とした顔で少年は、何故かチセを見据えたままだった。チセと同じ頃の歳に見え、黒髪が綺麗な少年だった。 「またケンカしたの?」  少年の言葉にギョッとした。何故チセが、母とケンカしてきたことを知っているのだろう。それに、まるでチセを知っているかのような口ぶりだ。生憎、チセには少年に面識はない。 「誰だっけ?」  同じ学校なのかも知れない。そう思ってついて出た疑問だったが、少年は呆れたように溜め息を吐いた。 「早く帰れよ」  歩いていってしまおうとする少年を、慌ててチセは追い募る。祭の賑やかな空気の中、一人は心細く、他に寄る辺がなかった。何より、家に帰りたくがない。  先程、聞こえた鈴の音は、少年が歩く足取りに合わせて鳴っていた。鍵か、携帯にでも鈴を付けているのだろう。 「ねえ、待って! 名前は?」 「無い」  少年の取りつく島もない返答に、チセは暫し呆然とした後、名前も教えたくがないのかと口をへの字にする。それでも、チセは少年に着いて行った。 「お祭り、こんなに遅くまでやってるんだね」 「毎年だろ。あんたが来なかっただけで」 「そうなんだ」  少年がチセを横目に見やる。 「あんた、なんでそんな格好なんだよ」 「浴衣? あなただって浴衣じゃない。みんなも」 「……まあ、おかしくはないけど」  同じく浴衣姿の少年を上から下へと見、また顔へと目を戻すと、チセは少年の後ろにある出店に視線を止めた。 「お腹、空かない?」  そこに在ったのは、美味しそうな匂いを鉄板から煙に上げている、焼きそば屋だった。夕刻にフランクルトとカキ氷を食べたきり、カラオケと公園を梯子し、何も食べていない。たちまち空腹に包まれた。  物欲しそうなチセを前にして、少年はゲッと声を上げる。続いて「懲りないな」と、哀れみの目でチセを見た。  ダイエットと称して、極端に食べる量を減らすことがあるのは、この時期の女子特有によく見られるものだった。そして、食べて後悔をする。 「そんなに太ってない!! サイテー!!」  顔を赤くして抗議をするチセをいなし、少年は別の出店を指差した。射的屋だ。 「アレで我慢してろよ」  少年がチセのことをどれくらい知っているのかは分からなかったが、確かに射的はチセが好きな遊びの一つだった。  腑に落ちない気持ちを抱えつつ、ダイエットという思春期の試練を思い出し、空腹を叱咤激励して鎮め、チセは少年にビシッと指をさす。 「勝負ね」  勝負は少年の圧勝だった。五発中一発しか当たらなかったチセに比べて、少年は全発的中である。 「上手いんだね……射的」  二発目で仕留めた、さして欲しくもないキーホルダーを見つめながら、チセは感嘆の息を漏らす。三つの鈴がついた五十鈴のキーホルダーだ。お守りでもあると、店主が言っていた。 「練習したからな」  得意げに答えた少年とともに、参道を抜けて境内へと出る。  櫓の回りは、楽しげに踊る人々で溢れていた。遠くに聞こえていた太鼓の音も、どんどんと力強く、体を震わせてくる。  小さな頃からの習慣で、盆踊りの手振りや足取りは体に馴染んでいる。ひらひらと手の平を回しながら「踊る?」と誘ってみると、少年は力なく首を振った。 「リズム感ないんだ。練習してもダメだった」  肩をすくめた少年は、人混みを外れて手水舎の前を通り、お神籤やお守り、絵馬が並ぶ社務所を通り過ぎて、社の奥へと歩いていった。  神社の裏側には行ったことがない。チセは、少しだけ不安に思う。  遅れがちになる足は、少年との距離を開かせた。着いてきていることを確認するように、少年が度々振り返る。その視線が誘っている気がして、チセが歩みを止めることはなかった。 「わあ……」  神社の裏手で出迎えてくれたのは、蛍の柔らかな光の粒だった。 「きれいだろ」  振り向いた少年が、初めての笑顔を見せてくれる。  途端、羞恥を感じた。神社の裏に来たのは、蛍を見せたい好意だったろうに、不安に思っていたのがチセは恥ずかしくなったのだ。そして、心が解けかけた。  少年の背に川面が見えた。  無数に光る蛍火、川のせせらぎ、遠退いた祭囃子。それらを目にし、耳にした瞬間、脳裏を既視感が過る。だが、その既視感が何なのか、チセには分からなかった。  沈黙。数秒の後、二人の間にあった静寂を切り裂いたのは、少年だった。 「一緒に、行こう」  蛍が舞う。宵闇の向こうに、川の涼やかなせせらぎを聞く。背後には、一枚の膜を隔てたような、祭囃子の音色。  差し出された手の平は、月明かりの下で白く輝いているかのようだった。  一拍、二拍、逡巡の後に紡がれた言葉は、その通り、躊躇いと迷いが存分に含まれている。  その手を取ってはダメだと、弾かれたようにチセは思った。何故だかは分からない。  少年に差し出された手の平を前に、相反して固まってしまったチセの手の中から、握っていた物が滑り落ちる。  鈴の音が鳴った。  辺りに響き渡った、小さいがとても確かな鈴の音をキッカケに、まるで時が止まったようだった世界に、感覚が雪崩れ込んでくる。 「ごめん、行けない」  チセの口から出てきたのは、自分でも驚くほどしっかりとした声だった。  真っ直ぐなチセの言葉と瞳を前にして、少年は寂しそうに口の端を上げて笑う。両目にも、微かな寂寞が見てとれた。 「知ってた」  チセは足元に落ちた鈴を拾った。三つ連なっている内の一つを千切って、少年に差し出す。 「あげる」 「持ってる」  後は、言葉はいらなかった。  帰らなくてはならない。急激に湧いて出たその衝動に突き動かされて、チセは少年に背を向けた。一目散に駆け出したチセの背中に、少年の小さな声が届いてくる。 「さようなら、……」  チセは必死に足を動かした。  社を通り、社務所を抜け、手水舎を過ぎり、参道を駆けて、鳥居をくぐる。  そこで、チセの意識は途切れた。 *   瞼が張り付いたようだった。難儀しながら重い瞼を上げると、視界に広がったのは無機質な天井だ。見覚えがない。  右手に温もりを感じて、錆び付いたような首を動かすと、見慣れた人の姿が見える。  母の姿だ。 「チセ! 起きたのね!」 「お母さん……?」 「ここは病院よ、あなた神社で転んじゃったらしくて、大変だったのよ。ううん、でもあなたが生きていてくれてよかった」 「……え? 何? よくわかんな……」 「今、**さんを呼んでくるわね」  相変わらず、母は喚き立てるようによく喋る。チセが母に抱く苦手意識は、大人になった今でも払拭される兆しはない。  状況の読み込めていないチセを残して、母は慌しく病室を出て行った。  母の姿がなくなったことによって、右手の壁にあった窓がよく見えるようになる。空は暗かった。正面の壁に掛けられた時計を確認すると、短針は天辺を少し過ぎた時分だ。  腕が痛い。点滴が付けられている。意識が明瞭になってくると、沢山の管が体に括り付けられていることに気付いた。  四苦八苦しながら上体を起こす。何より腕と頭が痛いと思っていたが、体に力を入れてみると、一番に痛むのは腹だった。  ベッド下の脇に、チセが履いていたスニーカーが、申し訳なさそうに鎮座している。  五月蝿い音と一緒に病室に入ってきたのは、母と、夫だった。  チセは結婚していた。  子を身籠っていた。  盆の里帰りに帰郷し、久方振りの祭に出向き、身重だからと夜を前に切り上げたのだ。その帰路、夫に呼ばれて一歩を踏み出したところで、スニーカーの紐を踏みつけ、転んだ。  腹が、とても痛かったことを覚えている。  チセは浴衣を着ていなく、下駄も履いてはいなかった。  夢とも、過去の記憶ともつかない、たいそうな、やはり夢を見ていた。とても鮮明で、まるで中学生の頃に戻ったかのような。 「赤ちゃんは……?」  零すように、チセは言った。 *  子は、無事に産まれていた。  緊急の帝王切開だったが、産まれた赤ん坊は周囲の心配をよそに、湧き上がったように元気な泣き声を響かせたらしい。  それよりも、危ない状態であったのはチセだ。大きな腹を庇って転んだチセは頭を強く打ち、一時は生死の境を彷徨ったという。  また、子供は双子だった。  だが、チセが双子であることを知る前に、一人はまだ腹に居る内に成長を止めてしまい、もう一人だけが順当に育った。  妊娠初期の段階での出来事であった。双子を妊娠した折、片方が胎内で亡くなってしまうことは、珍しいことではないと医者は言っていた。それが慰めになるかは定かではなかったが、悲しみを感じる間も与えられないまま、一人となった赤子は泣き、チセは無事の誕生を喜ぶ他がなかった。  最初から、一人であったように。  仕方がない。最初から一人であると思っていたのだ。 「昔、ケンカしたこと、覚えてる? チセが中学生だった頃」  可愛らしい寝息を立てる愛しい我が子を抱きながら、チセは母の話を聞いた。 「あの時もあなた、神社の参道で転んだらしくて倒れたのよ。大変だったわあ……その時も、なんでもなかったから良かったけど」  テーブルの上に置かれている、自分のスマートフォンをチセは見た。  二つの鈴がつけられたキーホルダーが、ストラップへと形を変えて飾られている。  年季が入り、組紐は薄汚れており、鈴も光りが鈍く、掠れた傷に塗れている。それは、チセが中学生の頃、祭の射的で取ってきたものだった。  忘れてしまっていたが、元は三つの鈴が付いたキーホルダーだった。  何故、今まで捨てられずにいたのか、そのことも、チセはようやく思い出した。  チセは、あの少年に会ったことがあった。  それは中学生の頃、同じく神社で出会い、別れ、記憶に埋もれ、たまに見る夢でイタズラに思い出し、また忘れていた。  今度は、忘れたくがないと切に思った。  しかしながら、もう少年の顔が思い出せない。少年だけではない。あの祭に居た全ての者の顔を思い出せはしない。  なんて記憶とは曖昧なものなのだろうと、泣きたくなった。否、泣いていた。どこにしまい込んでいたのか不思議なほどの涙が、ぼろぼろと大粒になってほおを伝っていく。  前触れもなく流涕し始めたチセに、母が驚いて、目を白黒させた。 「うううう、ごめん、ごめんねえ……」  人目を気にせずに嗚咽を上げながら、小さな乳飲み子を抱きしめる。  チセは、二度、少年に助けられている。  一度目は中学生の時、二度目は今回のことだ。  「またケンカしたの?」と、少年は言った。昔、母とケンカしたことを相談している。  「懲りないね」と、少年は言った。ここのものを食べたら帰れなくなると、少年に叱られた記憶が蘇る。  射的を「練習したんだ」と、少年は言った。以前の少年は、一発も的に当てられなかった。  初めて少年に会った時も「一緒に、行く?」と誘われた。チセは今回と同じように断った。そして、射的で取ったキーホルダーの鈴を一つ、少年に手渡したのだ。  その中学の時以来、それか以前からも、毎年毎年、盆の時期に少年は祭に来ていたのだろう。  例え、チセが忘れていたとして、チセが来ないとしても、少年は毎年、盆に「帰って」きていたのだ。  「なんでそんな格好なの」と、少年は言った。  時の流れを少年は知っているはずなのに、中学生の姿であったチセを見て訝しんだに違いない。だが、あの祭が彼岸と此岸の狭間であったのなら、時の流れが前後していてもさしたる問題はないはずだ。  少年は、最後に言った。 「さようなら、お母さん」と。  日本では古来から、盆の時期に死者が戻ってくるとの言い伝えがある。そして盆が終わると同時に、彼岸へと帰っていくのだ。  少年が何者であったのか、もうチセに疑う余地はなかった。  腹にいた、ごくごく小さい内に亡くなってしまったあの子は、確かに生きていたのだ。  少年が躊躇い、迷いながらに言った「一緒に行こう」の言葉も、幼子が母と離れたくがないと恋い慕うように。  チセは本能で、一緒に行っては生きていられないと悟り、その手を取ることはなかった。少年が誘う川の向こうは、この世ではない場所だったからだ。  走り去るチセを、引き止めも、追い駆けもせず、哀愁の笑みだけを見せた少年には、確かな愛情があった。  少年の躊躇いや迷いに、胸が痛くなる。寂しいだろう、悲しいだろう、たった一人きりだ。チセが一言「行く」といい手を取れば、寂しさが少しは癒えただろうに。無理に手を引くことを、少年はしなかった。  少年は、チセの腹の中で亡くなってしまった一人の人間だったのである。 「あげる」 「持ってる」  二度もあの世に渡る前に目覚めるキッカケをくれたいうのに、チセが少年に与えたものは、魔除けの鈴一つである。  少年は、大切なものも教えてくれた。  子が母を思う気持ちを。  そして、母が子を思う気持ちを。  今なら、おろおろと背中をさすってくる母とも、チセは少しは素直に話せそうだと思った。  同時に、少年の弟をしっかりと腕に抱きながら、チセは強く思う。  名前を付けよう。母と、夫と相談をして、少年に名前を付けてあげよう。  墓を作ってあげよう。例えおさめる骨がなくとも、帰ってくる場所を作ってあげたらいい。  チセの涙は、いまだ枯れることを知らず、チセのほおと、少年の弟のほおを濡らし続けた。  忘却は砂山に似ている。  しかし、新たな砂が絶えず降り注ごうとも、きらきらと光るその一粒の所在を大切に掬い上げていれば、忘れることはないはずなのだ。  時の経過とともに光が弱り、色褪せてしまったとしても。  二度と忘れたくがないと、つよく、つよく、思った。
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