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庭にて
ある日突然何もかもが嫌になり、私は仕事を辞めた。辞めよう辞めようと思っていたわけでもなく、ふと、辞めようと思った。慢性的に人手が不足していたので揉めるのではないかと心配したが、辞表を差し出す私を見た上司は私の心配とは裏腹に、ただ「そうか」とだけ言ってその封筒を受け取った。突発的な退職だったにも関わらず、それからのことは驚くほどスムーズだった。所詮、自分などいなくても仕事は回るのだ。
職場から全ての私物を引き払った私はなんの連絡もせず東北にある実家に帰った。
「アンタねぇ、帰ってくるなら連絡の一つくらい寄越しなさいよ」そう言いながらも母は私に何も聞かないでいてくれた。
畳の匂いと蝉の鳴き声。ここに帰ってきたのはいつ振りだっただろうか。私は座敷で横になりながら草木の生い茂る庭を見つめた。気温は高いけれど湿気はなく、戸を開けておけば心地よい風が通り抜ける。蒸すように暑い東京の夏とは大違いだ。
にゃあ、と猫の鳴く声がした。どこからか猫が庭に入ってきたのだろうか。私は体を起こし縁側へ出た。あたりを見渡してみるが猫の姿は見えない。縁の下に入り込んでいるのかもしれない。私は縁側から身を乗り出して縁の下を覗いた。しかしそこには蜘蛛の巣があるばかりで猫の姿はなかった。
「もし、あなた」
私が顔を上げると、庭に白い帽子をかぶった女性が立っていた。
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