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9 お兄の絶対音感
愚兄を持つ妹の鳴瀬玲は、兄優介のバンド仲間の正樹のバイト先にやってきた。
鳴瀬きょうだいは先日、この店の製氷機が故障した時にアドバイスをした事があって、店長さんに改めて感謝の言葉を言われ、礼として本日は無料で歌わせてもらえることになった。何事も全力の玲は鏡の前の男装に自分に慣れて来ていた。
「お兄の練習になるから良かったね」
「まあ。俺に練習などいらねぇけどな。あ。次これ歌う!ポチっとな」
そんな大口をたたきながら歌っている時、正樹が部屋をノックして入って来た。
「お……玲、ちょっといいか?優介じゃなくて、お前に話があるんだ」
バイト中の正樹はテーブルにポテトフライを置き、玲の隣に腰掛けそう耳打ちした。
優介はこれに関せず、金髪を振り乱しお気に入りの黒の穴空きTシャツに白いデニムのパンツで熱唱していた。
「なんですか?」
「……ここじゃ聞こえないから、こっちに来てくれ」
すっかり夢中な兄をそのままにして玲は隣の部屋に移動した。
この部屋は音楽が掛かっておらず、テーブルには苺クレープが置いてあった。
「これは俺からの差し入れだ。食べながら訊いてくれ」
「いただいていいんですか?」
「ああ!さ、座って」
二人は一緒にソファに座った。
正樹はバイト用の制服姿。短い髪の清潔感を漂わせた彼は、微笑みながらナイフとフォークを、すっと差し出した。
「うわ?嬉しい……いただきます!」
美味しい物に目が無い玲は、小さくカットした苺を、寄り目になっている正樹の口元に運んだ。
「はい。あーんして」
驚きで寄り目になった彼の口に玲は当たり前の顔でフォークを入れた。
「玲?あの、う?」
勢いでこれを食べた正樹。しかしもぐもぐ食べた彼の真顔に、玲はみるみる顔を赤くしていった。
「ご、ごめんなさい?いつも最初の一口は、お兄《にい》に食べさせているので、つい……」
「ハハハ。何事かと思ったし。なあ玲?優介が居ない時は、俺が何でもしてやるからな!」
そう言うと彼はそっと玲の髪をわしゃわしゃにした。
「ところでさ。お前は高明学院なんだってな。でもさ、受験がどうのって話してなかったか」
この質問。玲は食べながら答えた。
「ああ。僕の学校は中高一貫校なので、中等部から高等部への受験は確かにありません。でも他校のつわものに負けないためと、自分の甘えを無くすために、僕は『なんちゃって受験生』を勝手にやっているんですよ」
「それって。ただ勉強してるだけか」
苺を食べながら玲は首を横に振った。
「……海外のインターネット模試を片っ端から受けています。もちろん受験資格は無いので高成績で合格しても、入学できないですし。あーこれおいしい!」
「それは良かった……。良ければそれも飲んでいいぞ。で、お前は何か楽器をやっていたのか?」
「ああ。ピアノを少し」
「この前の様子じゃ、少しってレベルじゃない気がするけどな」
「そうですか?でもお兄の方が凄いですよ。バイオリンを弾けますから」
「あいつそんな事できんの?っていうか、玲。口に生クリーム付いているぞ?……違う!そっちじゃない。そっちでもない……もういい。俺が拭くから」
正樹は玲の口元をおしぼりで優しく拭き、フフフと笑っていた。
「ありがとうございます。でも僕、まだ食べますよ!あのね、正樹さん『器用貧乏』という言葉を御存じですか?」
玲は優介は幼い頃から努力しなくても一通りの事が容易くできてしまうので、普段は全く努力しないと説明をした。
「そうは見えないんだがな……」
彼を腕を組み、想いを巡らせていた。
「ところで。正樹さんはどうして兄とバンドを組んだんですか」
「それがな。俺も分かんないんだよ?玲」
「?」
そういうと正樹は玲の隣に座ったまま肩に頭を乗せ、長い足を組み直した。
「ハハハ。俺は隼人と昔から仲が良くてさ、奴の紹介で優介と知り合ったんだ。アイツの天真爛漫さっていうか、破天荒っていうか。我儘勝手な所に振り回されてさ。毎日大変なんだけどさ」
「す、すみません。迷惑かけてしまって」
「いや。そんなつもりで言ったんじゃないから?」
正樹は嬉しそうに玲の肩をぐっと抱いた。
「翔がドラムを叩けるって聞いた途端、優介がいきなり『バンド組もう!』って言い出して。それで決まったんだ」
「やっぱり皆さん……無理していたんですね」
優介の無茶ぶりが想像できた玲は、彼の腕の中からそっと正樹を見上げた。
「そんな顔するなよ。でもお前が入ってくれたから、俄然やる気がでたぞ、俺は?」
そう言うと正樹は腕を離し、すっと足を組みした。
「それよりも。勘のいいお前に、ちょーっと見て欲しいことがあるんだ……」
彼は隣接で歌うお兄の昭和ポップスをBGMにしながら、玲に話し始めた。
10話へ続く
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