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初夏のA山は、まったく様相が変わっていた。
雪に閉ざされた、あの色気のようなものがきれいさっぱり抜け落ちている。
精児は不安がつのった。
雪が溶けるように、冬のあいだ思い描いた女のイメージも溶けていきそうだったからである。
精児は山道を急いだ。
景色はすっかり変わっているが、道のりは覚えていた。
山頂の手前、食事を取るために登山道から逸れた先、ぽっかりと木々が抜き取られたような小さな空地。地面から突き出た岩も、あのときは雪に埋もれて低く感じられたが、いまでは腰の高さを越えている。
だが、女の姿はなかった。
見渡してみても、死体が転がっていることもない。
精児は気落ちした。
すべては勝手な妄想だということくらい精児にもわかっていたが、それでも寂しさは拭えない。
精児は岩に腰かけて、バッグから指輪を取り出した。
高々と掲げて、空に透かしてみる。
銀の指輪は光にキラキラと輝いた。
精児は毎日のように指輪を磨いていたのだ。
ふとバサバサという大きな音が耳元で聞こえて、精児は岩から転げ落ちた。
「いてっ!」
倒れながら目の端でとらえたのは、カラスが指輪をくわえて飛び去っていくところだった。
「あっ!」
叫べども、カラスはすぐに森のなかへ消えていった。
ここで精児は、合点した。
なんということはない。
あの指輪は、カラスが嘴にくわえてどこかから持ってきたのだ。
そしてカラスが雪の上に落としたものを、拾っただけなのだ。
精児はおかしくなって、ひとしきり笑った。
笑い終えると、登頂する気もなかったので山を下りることにした。
心が軽くなった気がした。
半年ほど思い悩んでいたことがようやく解消されたのだ。
妄想にふけっていた自分が恥ずかしい。
精児はひとりニヤつきながら、山を下りていった。
しかし、いくら歩いても、精児は麓へたどり着かなかった。
歩けども歩けども、山道が続くばかりで地上へ辿り着くことがない。
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