上京6年目

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「……こんばんは」  ああ、よせばいいのにまたこちらから声を掛けてしまった。  男は耳をぴくりと動かしたが、返事をしない。 「何を見てるんですか?」  男はこちらを見ずに、見た目のイメージよりも高めの声で言った。 「飛び方」 「飛び方?」  目線の先に目を凝らす。経年でかなり弱まっている街灯の光に、小虫が集まって舞っている。 「虫の、ですか?」 「おもしろい。あの飛び方には、パターンがあるようでない。ないようである」  男がわたしを見て、すっと目を細めてほほ笑んだ。 「ずっと見てられる」 「えっ?」  一瞬、自分のことを言われたのかとドギマギしたが、そんな訳はなく、要は小バエやら蛾の飛び方が好きということらしい。 「虫が好きなんですか?」 「虫というか、動きに興味があるんだ」 「動き」 「予想できない動き」  そりゃあなたのことでしょ?とツッコミたくなったが、心の中に留める。 「タオル、忘れたんですか?」 「いや、持ってこなかっただけ」 「どうしてタオルなしで銭湯に」  男は薄くほほ笑んで、わたしを見て言った。 「君だよ」 「へっ?」  一瞬、悪寒が走った。まさかこの人、わたしのストーカー?わたしに話しかけられたくて、わざとそんなことを……? 「君みたいに、タオルなしで銭湯に来ると、話しかけてくれる人がいるから」  安堵というか、複雑な気持ちになりつつ「はぁ……」とわたしは言った。 「普段、銭湯で他人に話しかけれることなんて、滅多にないでしょ?」 「まあ、そうですね」 「普通なら触れあわないような人とこうやって話せたりするから、やってるの。最初はカゼ引いたりもしてたけど、慣れってこわいね。これが普通になっちゃった」  もしかして毎日やってるの?と問いたくなったが、やめておいた。 「じゃ」 「え?」  男はすっと回れ右をして、そのまますたすたと歩いて細い路地へと入って行った。もう少し話したかったのにと思い、ふと気付いた。男が向かった路地は行き止まりだ。 「あの、そっちは行き止まり……」  と路地を歩く背中を追って言いかけたところで、わたしは目を疑った。  男はトカゲのようにひょいとブロック塀に飛び付き、塀の上をバランスを取りながら歩いて、反対側の道へと飛び降りたのだ。  わたしは呆気にとられて、「はくしょん!」とくしゃみをするまで、その場を動けなかった。
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