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「……こんばんは」
ああ、よせばいいのにまたこちらから声を掛けてしまった。
男は耳をぴくりと動かしたが、返事をしない。
「何を見てるんですか?」
男はこちらを見ずに、見た目のイメージよりも高めの声で言った。
「飛び方」
「飛び方?」
目線の先に目を凝らす。経年でかなり弱まっている街灯の光に、小虫が集まって舞っている。
「虫の、ですか?」
「おもしろい。あの飛び方には、パターンがあるようでない。ないようである」
男がわたしを見て、すっと目を細めてほほ笑んだ。
「ずっと見てられる」
「えっ?」
一瞬、自分のことを言われたのかとドギマギしたが、そんな訳はなく、要は小バエやら蛾の飛び方が好きということらしい。
「虫が好きなんですか?」
「虫というか、動きに興味があるんだ」
「動き」
「予想できない動き」
そりゃあなたのことでしょ?とツッコミたくなったが、心の中に留める。
「タオル、忘れたんですか?」
「いや、持ってこなかっただけ」
「どうしてタオルなしで銭湯に」
男は薄くほほ笑んで、わたしを見て言った。
「君だよ」
「へっ?」
一瞬、悪寒が走った。まさかこの人、わたしのストーカー?わたしに話しかけられたくて、わざとそんなことを……?
「君みたいに、タオルなしで銭湯に来ると、話しかけてくれる人がいるから」
安堵というか、複雑な気持ちになりつつ「はぁ……」とわたしは言った。
「普段、銭湯で他人に話しかけれることなんて、滅多にないでしょ?」
「まあ、そうですね」
「普通なら触れあわないような人とこうやって話せたりするから、やってるの。最初はカゼ引いたりもしてたけど、慣れってこわいね。これが普通になっちゃった」
もしかして毎日やってるの?と問いたくなったが、やめておいた。
「じゃ」
「え?」
男はすっと回れ右をして、そのまますたすたと歩いて細い路地へと入って行った。もう少し話したかったのにと思い、ふと気付いた。男が向かった路地は行き止まりだ。
「あの、そっちは行き止まり……」
と路地を歩く背中を追って言いかけたところで、わたしは目を疑った。
男はトカゲのようにひょいとブロック塀に飛び付き、塀の上をバランスを取りながら歩いて、反対側の道へと飛び降りたのだ。
わたしは呆気にとられて、「はくしょん!」とくしゃみをするまで、その場を動けなかった。
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